autismドラマに関するBBS 過去ログ(2000年7月12日〜8月18日分)


[1198] Re[1187]: 異文化(re:[1178][1180]) 投稿者:如月 投稿日:2000/08/18(Fri) 18:34

> 私の知っているある国で同じ出来事があったとしたら、10中8-9、そのお嬢さんが去った後で、御夫婦はにっこりして、「人なつこい子だね。」「ええ、感じのいい人だったわ。」という会話を交わされたでしょう。文化もいろいろ、常識もいろいろです。

 何時だったか確かオランダで、可愛らしい犬を連れている夫婦連れのほうを眺めていたら、とても堪らんという感じで彼等は犬の自慢らしき話を喋り始めました。オランダ語かドイツ語か何かで意味はわかりませんでしたが、犬の自慢だろう事だけは想像できました。
注目されているとわかると、彼等から見れば異人に属する見ず知らずの東洋人にさえも、話しかけずにはいられなくなる程の人懐っこさに驚きました。一緒にいた人に聞いてみると、彼等の感性ではワンちゃんを誉められているような気がムズムズしてきて、もう堪らん、となってしまうとの事でした。
犬が間に入らなくても、彼等の人間に対する親しみは日本人のそれよりも遥かに強いものがあります。ふと感じたのは、彼等にとって人間はどこにでもいるほどに当たり前の存在ではない時代が長かったので、ある程度人口の増えた今でも「人間=珍しく貴重な存在」の公式が成り立っているからなのでは、ということです。
その点日本を含めたアジアの国は、単位面積当たりにかなりの人口を養えるので、有り余る人間を大切にしようというよりも、人間は使い捨てという発想が強くなるのも当然です。中国のバスや電車に乗ると、その非人間的な込み具合は日本の比ではありませんし、西洋的な感覚では家畜同然に詰め込まれている乗客の上に君臨する車掌の横柄さと権力の強さは、体験しないと日本人にさえも想像できないものです。
でもその辺りは私も伝統的な日本人の感覚なので、あれは天災のようなものだからしようがないと特に腹も立ちません。寧ろ上には上があるものだなと感心するぐらいです。けれど日本も含めて、あの寿司詰めの中から西洋的な人権の発想は出てこないだろうな、とは思いました。
要は、個人個人を大切にする人権思想の大本は、単純に人間の数にあるのでないかと身をもって感じたのです。あれは「乗るは一時の恥、知らぬは一生の恥」かもしれないと思いました。


[1197] Re[1188]: 自慢て?(Re[1179]) 投稿者:如月 投稿日:2000/08/18(Fri) 17:22

> 私にとって事実は事実に過ぎず、いいも悪いもないニュートラルなものですが、世間様はそれに価値判断をつけてくるわけですね。

 私も「それは単なる事実であって、良い意味も悪い意味も入っていない」とかなりしつこく強調します。経験的に事実を事実として認めてもらえる場合はほとんど無くて、だいたいは自慢か謙遜のどちらかに取られてしまうからです。
少しうがった見方をすると、そのどちらかでないと自分との上下関係のようなものが成り立たないので、無理矢理にでも何らかの価値判断をつけているように思います。
そのためには相手が今まで知っている範囲に入ってくれないとこれまた困るので、そこから違う価値観を持つ者に対する排除意識も生まれるのではないでしょうか。学歴、性別、年齢、職業、勤めている会社に対するこだわり(少し皮肉)もそんな人ほど強いように感じます。
これは単なる事実だと言われると、言われた人が自分でその価値判断をしなくてはならないので、それをとても嫌がっているように思います。その嫌がり方は多分無意識的なもので、ちょうど私が目で見て確認したり、ものを言うのを出来るだけ避けようとするような嫌がり方に近いような気がします。


[1196] こんにちは 投稿者:JJ 投稿日:2000/08/18(Fri) 12:57

わたしも仲間外れ的存在でしたが
絵的にものを考える方なのでTV番組の
アニメやドラマの内容を暗記していて
話題の情報源として役に立っていたようで
そういった面では重宝がられていました。

こだわりのせいか話題にはどうでもいいような
細かいところまで覚えていてそれを話し出すと
避けられていたのでしょう。
その時期はその行為が嫌がられているとは
気がつきませんでした。
聞かれたから話しただけなのに・・・

それ以外はやはりひとりでした。
集団は苦手なのでそのほうがよかったのだけれど
聞かれると解説しないといけないという
義務ではないけれど変なプログラムが
働いていました。

まとまらない文章ですいません。


[1195] そして 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/18(Fri) 12:02

例えば
「校庭で一人で遊んでいて平気なこと」=「協調性がないこと」「自己チュー」
になるんでしょうか?

私の娘も私と同様、みんなに交じらず一人で遊びそうです。

そしてNaveさんの
>人と違って平気でいる人を見ると、攻撃されているような気がするんでしょうか。
には、フムフムと思いました。
私は小学校の2年から5年まで完全にクラスから「仲間はずれ」になりました。でも自分からそうなることを選んだのです。「ジャイアン少女」が何もかも取り仕切っている「遊びの集団」に無理無理所属しているのは「自分にとって何か間違ってる」っていう直感があったから。そして、いつもいつも集団で行動するのはシンドい(私っていつもこれ)と感じたから。

いったん仲間はずれになったら、それはそれは気楽でしたよ。
でも自由時間に一人で図書室にいたりすると、押し掛けてくるんですよ、ジャイアン少女の群れが。で、イジワルを言ったりして攻撃してくる。どうして私を無視できないのか、と思いましたね。


[1194] ところで、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/18(Fri) 11:51

学校の授業のときに、教師が「これ、分かる者はいるか?」
と挙手を求めたときに、日本の生徒は分かってても手を挙げませんよね。これ、いつ頃から始まった習慣なんでしょうか。
そして小学校、中学校、高校のうちの、どの段階で始まる「掟」なんでしょうかね?
この掟、どういう意味があるんでしょう?

私、高校のときにクラスメートに言われましたよ。
「アンタ、手なんか挙げてバッカねえ。
みんな分かってても手を挙げないのよ。手を挙げると「オレは賢い!」って自慢してるみたいで、嫌われるから。」

未だに分からない理屈です。

 


[1193] みんな頭イイ! 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/18(Fri) 11:45

うーん、「謙遜しないとダメ」の法則すら知らなかったな、私。
バッカだなあ。
身体だけは物理的に社会の中に確かに「存在し」てたのに、
精神的には一人で「引きこもり」してたので、こんなソーシャル・
スキルがあるってことすら、見えなかったんだな。
「井の中のかわず、大海を知らず」
確かに。
はあ〜、勉強になった。ありがとう。


[1192] Re[1187]: 異文化(re:[1178][1180]) 投稿者:とら 投稿日:2000/08/18(Fri) 11:34

> しかし、どこの国でもそうとは限りません。日本よりは、もっと気軽に、知らない人に話しかける文化を持つ国もあります。
> 私の知っているある国で同じ出来事があったとしたら、10中8-9、そのお嬢さんが去った後で、御夫婦はにっこりして、「人なつこい子だね。」「ええ、感じのいい人だったわ。」という会話を交わされたでしょう。文化もいろいろ、常識もいろいろです。

少なくとも、日本は連邦市民にとって最も生きにくい国のひとつではないでしょうか。本当は健常者にとってもなんですけどね...
日本&日本人って慣習や見栄や虚勢や他人との比較や欧米人には見られない独特の文化が有りますよね。


[1191] 謙遜 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/18(Fri) 10:20

結局、謙遜しないとダメで、謙遜が上手だと謙遜上手を自慢しているように思われて、謙遜がヘタだと不幸ぶりっ子だと思われるみたいです。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1190] Re[1188]: 自慢て?(Re[1179]) 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/18(Fri) 10:19


> ただし、どうも「人」は「幸せそうにしている人(満足している人?)」および「理解できないもの」に対して攻撃的になるようなので、攻撃の対象にならないよう、こちらから適宜、自分についてのくだらない情報を開示するようにはしています。つまり、「私をうらやましがらなくていいんですよ」「私は無害ですよ」というメッセージを、折に触れ発信するわけです。我ながらごくろうなことです。でもこれ、みんなやってることなのかな?

これ、私もけっこうやってみましたが、「卑下しすぎ」とか「同情を買おうとしている」とか「悲劇のヒロインぶっている」とか「もっと胸を張らないと幸せに逃げられるわよ」とか「そんなマイナス思考だからどんどん不幸になるのよ、自業自得よ」とか「不幸を楽しんでるんじゃない。楽しいから手放せないのよ」とか言われただけに終わりました。

皮肉なのはそのとき、私はツキがツキを呼ぶという言葉が当たっているような絶好調の時期だったってことです。

要するに、技術がイマイチだったってことでしょう。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1189] Re[1188]: 自慢て?(Re[1179]) 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/18(Fri) 10:14

> 困るのが、事実を述べているだけなのに、時に自慢と思われてしまうことです。
> 私にとって事実は事実に過ぎず、いいも悪いもないニュートラルなものですが、世間様はそれに価値判断をつけてくるわけですね。
>
だから気をつけていると今度は、「謙遜が上手であることを自慢している」ように思われるかもしれません。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1188] 自慢て?(Re[1179]) 投稿者:Nave 投稿日:2000/08/18(Fri) 06:04

困るのが、事実を述べているだけなのに、時に自慢と思われてしまうことです。
私にとって事実は事実に過ぎず、いいも悪いもないニュートラルなものですが、世間様はそれに価値判断をつけてくるわけですね。

それで、「いつも本当の事(事実)を言うのがいいとは限らない」と気づいた頃(二十歳くらい?)から、自分から発言することはなるべく避けるようになりました。
ただし、どうも「人」は「幸せそうにしている人(満足している人?)」および「理解できないもの」に対して攻撃的になるようなので、攻撃の対象にならないよう、こちらから適宜、自分についてのくだらない情報を開示するようにはしています。つまり、「私をうらやましがらなくていいんですよ」「私は無害ですよ」というメッセージを、折に触れ発信するわけです。我ながらごくろうなことです。でもこれ、みんなやってることなのかな?
もちろん、そのときは自慢と思われる事は言わないように、気をつけます。何が「自慢」と思われるかというデータもだいぶ揃って来ましたので。

でも、質問されたら、やはり事実を答えてしまいます。
(つまり、「本当の事を言わない」ことはできるようになったけど、とっさにうそはつけないわけですね。頭の回転が遅いからかな?)
私の方には自慢する気持ちなんて全然ないのですが、「自慢された」と思って気分を悪くするなら、どうしてそういうこと、わざわざ聞くんでしょうねえ。謎です。

その前に、他人に関する情報を集めて、何が面白いのか不思議ですが(私は他人が何をしようが、自分に危害が及ばない限り、申し訳ないですがまったく関心がないです)。
しかし、自分に関心を持たれないと傷つく人もいる(っていうか、それが「普通」?)ということは実地に学びましたので、適宜質問をすることも覚えました。自分が聞かれたことを聞き返すのも礼儀みたいですね。

そうこうしているうち、意外にも一部の人から、聞き上手な癒し系の人だと思われていることを知り、またまたびっくりです。
(↑は、事実を述べただけで、自慢ではありません。念のため。)


[1187] 異文化(re:[1178][1180]) 投稿者:Nave 投稿日:2000/08/18(Fri) 06:01

こんにちは。広汎性発達障害の子を持ち、自分にも多分に「そのケ」のある(ただし未診断)、Naveと申します。はじめまして。

異文化の共存て、本当に難しいですよね。
たとえば、自己主張をする文化と自己主張しない文化(「察してくれ」文化)を持つ人が一緒に何かしようとしたとき、そのままでは自己主張する文化を持つ人が一方的に主導権を握ることになります。かといって、「自分は自己主張しない文化なのだ」と言ったとたんに、自己矛盾に陥ってしまいますし…。

ところで、いろんな文化の中でも、異文化に寛容な文化とそうでない文化があると思いますが、現在の日本は特に異文化に対して厳しいと感じます。
在日外国人の方たちも、日本人といろいろ違う(あたりまえだ)というだけで、公私に渡って差別を受けることが多いですし。
外国人ならぬ、自閉民族も、なまじ「同じ日本人」と思われているだけに、風当たりはきついですよね。

常々不思議に思っているのですが、「皆いっしょ」でなきゃいけなくて、ちょっとの違いも許せない、ってのはなぜなんでしょう。人と違って平気でいる人を見ると、攻撃されているような気がするんでしょうか。よっぽど自分の価値観に自信がないんでしょうか。

1180のカンガーさんの経験を読んで、日本では大抵の人がカンガーさんのような感想を持たれるのだなあと思いました。
しかし、どこの国でもそうとは限りません。日本よりは、もっと気軽に、知らない人に話しかける文化を持つ国もあります。
私の知っているある国で同じ出来事があったとしたら、10中8-9、そのお嬢さんが去った後で、御夫婦はにっこりして、「人なつこい子だね。」「ええ、感じのいい人だったわ。」という会話を交わされたでしょう。文化もいろいろ、常識もいろいろです。

>これからの子ども達には、自分の文化や好みを主張し他に吹聴できるぐらいの逞しい力を
>つけていって欲しいよね。
>”知らない事は知らない”で良いし、”無理やりあいづちを打つ”ことも必要ない。
>まあ、”他の人が好きな物の話に耳を傾ける”ことは必要だろうけど、
>「わたしはあなたとは違うよ。」
>と堂々と言える子を育てていかなきゃね。

これは本当にそうありたいと思いますが、現実問題として学校でそういう態度を取ると、まず間違いなくいじめられるでしょう。
わたしもご多分に漏れずしっかりいじめられましたが、その結果、自分を守るために編み出した方法は、Lingkoさんと同じ、
>みんなが好きなものの話、みんなが楽しいと思っている話は、わからなくても聞いて、
>自分の好きな話は絶対に口に出さない
ということでした。
これをやっていると、当然とても疲れるので、それに引き合うだけのメリットがある所でしかやりません。今は、主には毎月のお給料やボーナスをくれる会社に限り、その他のいわゆる「社交」は、できる限り避けています。これが今の所、私の世間との「折り合い」の付け方です。


[1186] 聴覚過敏の説明 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/15(Tue) 10:14

私は、両親には診断を告知していませんが、聴覚過敏だけは言っておいた方が喜びそうな気がしたので伝えました。小学校4年か5年ごろから、物音や親の声にびくんと飛び上がる特徴が見えていて、「叩いてないのになんで顔をかばうの!」とか「怒ってないのになんで泣くの!」とか、まーよーするに「人聞きが悪い」ってことで、ずいぶん親を苦しめてきたからです。心理的なものじゃなくて、生理的なものだとわかれば、親も喜んでくれると思ったので。

結局、軽い嘘をつきました。聴覚過敏ではなく、聴力過敏だと言ってあります。「検査を受けて、聴力が良すぎることがわかった」とだけ言いました。ナニ科で検査を受けたかは言わなかったので、きっと耳鼻科だと思っているでしょうね。

まあ、幸い、聴力が良すぎるらしいエピソードも子どものときにいくつもあったので(小学校で、聴力検査のときに時計の音が聞こえて手を上げたところ、ふざけていると思われて叱られたこと、外を通る近所の犬の足音を一匹ずつ聞き分けたこと、電車が見えないうちから「あ、来たよ」と言って信じてもらえず叱られたのに、必ずすぐに電車が来たこと、果肉を切る音でリンゴとナシを聞き分けたこと、等、くっだらないエピソードばかり)信じる気になったようです。

また、私は子どものときから、聞き間違いや聞き返しが多いので、「あんなに耳がいいくせに、なんで?」といやがられていたのですが、「うるさすぎる補聴器みたいなもので、却って聞きとりにくいんだと思う。小さい音はうるさくないからちゃんと聞こえる」と言ったら、納得していました。

まあ、「耳が良すぎるらしいことを示すくっだらないエピソード」を持ってない人には使えない手だけど。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1185] Re[1183]: 絶対的な評価が欲しい 投稿者:とら 投稿日:2000/08/15(Tue) 09:54

> とんでもなく騒がしかったときも、必死に歯を食いしばって耐えていました。でも出るんです。「フ〜ッ」が。すると後でその母親が「あの人ってこれ見よがしにため息ついたりしてイヤな人ね。」と言ったりする。
>
> 嗅覚過敏もあるので、隣の席の男性の整髪油も拷問でした。これも時折、離席してトイレで鼻孔を洗ったり、ウガイしたりしてました。
>

前者の場合は「私、頭痛持ちだから...」、後者の場合は、「私、アレルギー体質だから...」と言えばずいぶん周りの理解が得やすいように思えます。人には「似たような症状」の「ピンと来るような他の病気」と伝えればとりあえずは、生きやすくなるのかもしれません。やはり理解の問題なんですね。


[1184] Re[1182][1181][1179]: 興味・関心の共有 投稿者:カンガー 投稿日:2000/08/14(Mon) 20:47

> >謙虚な人は、ほとんどいつも自慢をすることは無いですし、逆に自信過剰の人は、ほとんどいつも自慢しているわけですから...
>
> わ〜、とってもオモシロい(興味深い、の意)展開になってきました。
> 自分が謙虚な人か、自信過剰な人か、って健常者の人はどうやって判断してるのでしょうか。

私の場合は、相手によって、それから話の中身によって、謙虚になったり、わざと自信過剰なくらい自慢してみたりしますね。
謙虚になるときは、この人にはかなわないと思った時。
他には、もめるのが面倒な時など。
自慢する時は、相手に有無を言わせたくない話題の時かな。
もちろんすごくうれしくて単純に自慢する時もありますけど。
何か書いてて自分がすごく嫌なやつに思えてきた。


> 「公家のようにオットリしてるね」と言われれば、私って呑気なのかと思い、「バタバタしてる」と言われれば、「あれ、本当はせっかちなのか」と、自己像を修正したりしてたんですよ。

これは私にもあります。
相手によって多少なりとも態度を変えているのですから、当然なのですが、どちらの自分も本当の自分のような、違うような、良く解りません。


[1183] 絶対的な評価が欲しい 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/14(Mon) 19:39

完全に標題から離れてしまったので題名を変えました。

最近の私の実感はこれです。
「絶対的な、真実の判断を下せる神様がいて、オマエはこうこう、こういうところがあるから、ここの部分はそのままでいい、あとの部分は望ましくない部分だから直すように、と言ってくれればいいのに!あ〜せい、こ〜せいって言ってくれればいいのに!」
ってなもんです。実際のところ、本当の自分の姿は自分でみつめなくてはいけないし、本当の自分は、自分が一番良く知っているハズなんですよね。でも私は自分の自己検証に自信がないんです。ずっとそうでした。だから他人に「いばっている」と言われれば、「私っていばているのか、これではイケナイ」と思い、今みたいに慇懃無礼スレスレなまでに下手に出るようになってしまった。

こんなことばかりしてたから、「本当の私はとってもみっともない、イケナイ人間だ」が刷り込まれてしまったみたいです。

私にはヒドい聴覚過敏があります。ちょっとした(でも私には死ぬほど辛いたぐいの)物音に飛び上がったり、固まったり、そういう目立った反応を何とか抑えても、あとでつい、「フ〜」っとため息をついてしまう。その度に「あなたって、神経質ね〜」って言われてきました。私は神経質なのは「悪い・イケナイ」ことかと思っていました。「我慢が足りない」のかと思っていました。だから前の職場では、休憩時間の度に人目を盗むようにマシン油を片手に、滑りが悪くて悲鳴をあげる回転椅子や事務机を「処置」してました。保育園の母親の集会で、連れられてきた子供の中に多動の子がいて、とんでもなく騒がしかったときも、必死に歯を食いしばって耐えていました。でも出るんです。「フ〜ッ」が。すると後でその母親が「あの人ってこれ見よがしにため息ついたりしてイヤな人ね。」と言ったりする。

嗅覚過敏もあるので、隣の席の男性の整髪油も拷問でした。これも時折、離席してトイレで鼻孔を洗ったり、ウガイしたりしてました。

本当に言いようのない惨めな気分でした。
これがもし「神経質なのは、感覚過敏といって、仕方のないことなんだ」と知っていれば、「私はイケナイ、みっともない」の項目が一つは減っていたのになあ。



[1182] Re[1181][1179]: 興味・関心の共有 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/14(Mon) 19:06

>謙虚な人は、ほとんどいつも自慢をすることは無いですし、逆に自信過剰の人は、ほとんどいつも自慢しているわけですから...

わ〜、とってもオモシロい(興味深い、の意)展開になってきました。
自分が謙虚な人か、自信過剰な人か、って健常者の人はどうやって判断してるのでしょうか。私は他人の評価がそのまま自分の実像なのかと思っていました。
だから、他人の評価が変わる度に自分はどういう人間のなのか、ずっと混乱してきました。
「公家のようにオットリしてるね」と言われれば、私って呑気なのかと思い、「バタバタしてる」と言われれば、「あれ、本当はせっかちなのか」と、自己像を修正したりしてたんですよ。そして「これではイケナイ」と思っていた。中間のところに行かなければならないって思っていた。思いこみですね。私には自閉があって、ADDも合併してるらしいから、ホントは両方とも真実なんでしょうけど。そして他人の評価が絶対的なものではない、ということも、すっかり見落としていた。


[1181] Re[1179]: 興味・関心の共有 投稿者:とら 投稿日:2000/08/14(Mon) 17:01

雑感です。

> 「知っていることを誰か他の人にも伝えたい」っていう気持と
> 「自慢」とは、どこがどう違うんでしょうか。

これは難しいですね。まずほとんどの場合自分と相手の基準が違うというのがあるでしょう。自分は伝えたいと思っているだけなのに自慢と取られることは健常者同士でもよくあることです。例えば仕事をしていると、特にプライドの高い人などは人から伝えてもらうだけで許せないと言う事も有るわけです。情報は共有すれば良いのに、プライドが邪魔をしてあえてしないから企業側からしてみるとこれは無駄です。で、最近ではデータベースにこれらを入れると言うのが主流になりつつあるわけです。受け取る側は特定の誰かに教えてもらうのではなく、自分が能動的に情報のまとまっているデータベースにアクセスするわけですから。問題は、伝えたい側はこれで満足できるかと言う事でしょう。自分は誰かに伝えたいのに、それが伝わっているかと言う事がよくわからない。実はこれは掲示板を含むネットの世界の話ですね。だから自分の発言にレスが付くと嬉しいというのはわかるような気がします。それでも書込みを自慢と取られて中傷合戦なんて事も有るわけですから結局は、自慢とは「言う側の性格」と「受け取る側の性格」次第と言えないこともないように思えてきました。謙虚な人は、ほとんどいつも自慢をすることは無いですし、逆に自信過剰の人は、ほとんどいつも自慢しているわけですから...


[1180] 突然声をかけられたら 投稿者:カンガー 投稿日:2000/08/14(Mon) 14:23

ほんの少し前のことですが、道で知らない二十歳前位のお嬢さんに声をかけられました。
「わ〜かわいいミッキーマウス!」
私とルーはおそろいのミッキーのシャツを着ていたのです。
家のすぐ近所でしたので、主人は私の知り合いと思ったそうで、私はてっきり主人の知り合いだと思いました。
それほど自然だったのです。

そのあと、挨拶をかわし、彼女は一方的に夜のTV番組にジャニーズのだれそれが出演するとか、ジャニーズの話を延々しゃべり続けました。
私はその時になって、このお嬢さんは娘の仲間であって、主人の知り合いではないことに気がつきました。
笑顔で話にあいづちをうっていることしかできませんでしたが、なにか他に方法があったでしょうか?。

そして彼女は「買い物がありますから、さようなら。」と丁寧に挨拶して去っていきました。

これも「知識のひけらかし」?
知らない人にするのと、お友達にするのでは違うから、自慢にはならないのかな?

アイコンタクトばっちりで、笑顔のかわいいお嬢さんで、言葉も流暢で、まさに「他者とつながりたい」って感じでしたけど。
私にはすごくかわいく思えたけど、アスペルガー症候群を知らない人だったら、どう思うのかなあと少し心配になりました。
彼女も早く、全く見ず知らずの人に道ばたでいきなり声をかけない方が良いことに気がついて欲しいです。
そのほうが彼女が安全だと思うから。
興味関心の共有ってことと、ちょっとずれちゃったかなあ。


[1179] 興味・関心の共有 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/14(Mon) 11:24

「アスペルガー症候群」の特徴として、自分の関心事を一方的に
ペラペラまくしたてる、っていうのがありますね。
これ、高校のときの私でした。
でもそれをやって「なに〜、知識のひけらかしして〜」と揶揄されました。
私の関心事は生物科学だったから、マズかったんですよね。
これが今で言えば、ポケモンのモンスターを全部言える、ってことだったら、「知識のひけらかし」にはならなかったかも。
「知識のひけらかし」って何なのでしょうか?
何かを知っていることを自慢する、ってことなのでしょうかねえ。
自慢って何なのでしょうか。
何かを知っていることを「自慢」されると、不愉快に感じるん
ですよね。
「知っていることを誰か他の人にも伝えたい」っていう気持と
「自慢」とは、どこがどう違うんでしょうか。

小さいときは自分の興味分野のことはあまり他の人と
共有しようとは確かに思わなかった。
でも自分の知識の水瓶がまんたんになるにつれて、そして
「こりゃ〜、スッゴイ面白い!」と感激した感動度が大きくなるに
つれて、誰かと共にそれを味わいたい!と思うようになりました。
これが辻井先生の言われる「他者とつながりたい」ということなのかしら。

それとも私は自分の感動を自分で反芻したかっただけなのかも知れない。




[1178] Re:[1174][1175] [1176] [1177] 投稿者:M 投稿日:2000/08/14(Mon) 08:11

異文化の中で生きていくには、
「その社会 の 具体的な行動ルールを身につける事 
 その社会 と 自分との折り合いをつけていく事  」

が必要なのかなという事は前回書きましたね。

思うに、
前者は、社会の側が主導権を握る場合も多いだろうけど、
後者の方は、社会に対して「自分はここは譲れないぞ」と、最と強く自己主張をしていっ
ても良い部分なのではないかな?

例えば、前者は、
”人の心や身体を傷つけてはいけない””悪い事は謝る””御礼を言う””約束は守る”
等々の社会的なルール、マナーを守ると言った意味合いのものね。
これは、習得上の困難があるなしに拘わらず、子ども達に最優先して学ばせたいスキルね。

で、後者の方が、
リンコさんもフリーラジカルさんも一方的に自分を押し殺し?、ひたすら周囲に合わせて
きただろう部分ね。お二人の書きこみを読む限り、それは社会との”折り合い””譲り合
い”には程遠いものであったと思う。

リンコさんの書きこみの部分で言うと、
ある人が ”どの先生が好き”でも、”ミーハー好み”でも”渋好み”でもそれは他の誰
に迷惑をかけるものでもない。
これからの子ども達には、自分の文化や好みを主張し他に吹聴できるぐらいの逞しい力を
つけていって欲しいよね。
”知らない事は知らない”で良いし、”無理やりあいづちを打つ”ことも必要ない。
まあ、”他の人が好きな物の話に耳を傾ける”ことは必要だろうけど、
「わたしはあなたとは違うよ。」
と堂々と言える子を育てていかなきゃね。


「かっこつけ」「えばり」「いきり」「目立ちたがり」「ゴマすり」「悲劇のヒロイン」
「うれしがり」等の態度も、基本的には後者に入るべき問題なのだろうね。

まあ、これも好みの問題で・・、別に「かっこつけ」や「えばり」や「ゴマすり」の人が
居てもかまわないとは思うけど、

>「普通はどういう種目が『えばり』のフィールドとして認識されるか」

等々を知っておく事自体は必要だから、

”次に起こることを推測したり””他者の立場にたって考える事を練習したり”
”自分の言動が他人に及ぼす影響について学んだり””言葉や表情からの相手の心の動き
を読み取ったり”する等の、認識やスキルは獲得させていかなければね。
本人は本当は「かっこつけ」や「ごますり」や「えばり」にはなりたくないのに、結果的
にそうなってしまっていたというのも、悲しいからね。


>結局のところ、相手の流儀に合わせようと無理をしている姿は、ハタから見て「情けない」
>「イタい」んですよ。たとえいじめられなかったとしても、上から見下して大目に見てもら
>う、しょうがないなあという感覚で受け入れてもらう、がまんしてもらうという関係になる
>のでしょう。

そうそう、そういう事ね。
「自分は、こうなんだよ。」
と言い合えない関係なんて、友達ではないよ。これ、単純明快な真理。


>無意識に上下関係を感じるのが、非自閉の人の「人間関係の力学」なんですよね。きっと。
>あ、苦手な抽象的表現でまとめてしまった。

 あ、非自閉社会の「悪」を見破られてしまった・・。


       < なんか、お盆休みの静寂につけこんで、ちょっと喋りすぎたかなぁ。
         そろそろ、本来の無口な私にもどりますね。ではでは。(^^)/~~~


[1177] 無意識の上下関係 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/13(Sun) 16:34

下、引用が長すぎましたね。

>つまり、相手をしてほしくて下手に出るやつを見たら、軽蔑したくなるってわけですね。

これね。最近、仕事仲間に言われて、バットで殴られたぐらい驚いたことと関連してました。私の場合、「相手にしてほしくて」ではなくて、下手に出ることがすべての人間関係における「礼儀・ルール」だと思い込んでたんです。(いや、すべてではなかった。私は生来的に徹底的な権威嫌いだから、肩書きのある人には知らず知らずのうちに横柄な態度に出ていました。)

その仕事仲間Jさんに、「チームワークで働いているときに、メンバーの中に、いつのまにか私を見下している人がいる。何でなんだろう?」って訊いてみたときのことです。Jさんは言いました。
「アンタ、腰が低すぎるんだよ。人間は誰でも、直観的に『こいつは俺より上か、下か』って判断してるんだよ。年齢とか、職業上の立場とか、能力とかで。押さえるべきところは押さえて、バ〜ンって強く出ないと、見くびられるばかりなんだから。」

ひえ〜、知らなかった〜。

最近、奇しくも同じようなことを別の人から言われました。
「アナタとGさんは、これだけ仕事ができる割には(オッホン!)ミョ〜に謙虚なのが不思議だ。この業界の人にはちょっとデキるだけで高飛車な人が多いのに。」

Gさんって、誰だって?
私が最初に会った「仲間」です。

無意識に上下関係を感じるのが、非自閉の人の「人間関係の力学」なんですよね。きっと。あ、苦手な抽象的表現でまとめてしまった。


[1176] Re[1175]: あと、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/13(Sun) 16:02

> もう一つは、本当の意味を理解しないままに、「こうすればいいんだな」と思ってやっていたことが、物欲しげに見えたらしいということです。つまり、私としては、みんなの承認が欲しいからではなく、「これが善なのだろう、決まりなのだろう」と思いこんで工夫をしていたのが、友達になってほしいから、仲間に入れてほしいから、相手をしてほしいから工夫をしているように見えたのではないか、ということです。つまり、相手をしてほしくて下手に出るやつを見たら、軽蔑したくなるってわけですね。
>
> これは、本当に「受け入れられたい」と思っている子、本当に「相手をしてほしい」と思っている子にもあてはまることだと思います。
>
> 結局のところ、相手の流儀に合わせようと無理をしている姿は、ハタから見て「情けない」「イタい」んですよ。たとえいじめられなかったとしても、上から見下して大目に見てもらう、しょうがないなあという感覚で受け入れてもらう、がまんしてもらうという関係になるのでしょう。
>
> 小学校でも中学校でも高校でも、そういうスタンスから私に「やさしく」接してくれる人はいました。あれは「お友だち」だったのかもしれないけど、5年生ごろから、そういう「やさしい子」とつき合うのはだんだん苦痛になってきた覚えがあります。

ペンギンさんのとこの掲示板にも書いたことだけど、そういう「やさしい子」、私にもいました。高校のときだけど。
私は当時、「頭でっかち」に定義される生徒だったんですよね。
勉強はできるけど、課題とかしょっちゅう忘れるし、みんなの話題に口をはさむと、調子ハズレでシラケ鳥(←はやりましたよね)が飛ぶし、何よりも先生の口頭指示を間違って受けとめることが滅茶苦茶多かった。「夏休みの間、これを読んで勉強するといい」という、「提案・お勧め」の意で参考図書を提示されたのに、「これは手ゴワイ宿題を出された」と勘違いして、夏休み中かかってその参考図書をノートにまとめめたりして。夏休み明け、そんなことをしてきたのは私一人だったと気付いて、愕然としました。

その「やさしい子」は言わば姉御肌の子で、そんな私の「ヘンな特徴」
に気付いていろいろとアドバイスをくれました。
私は「あ、この子ってやさしいな〜」と感激。
でも、いつのまにかその子は、私がお弁当を食べるときにボロボロこぼす、とか、黒板を見るときに目を細めるのがみっともない、とか、目を開いたまま居眠りする(多分、カタトニアのことだと思う)とか、私が必要としている以上の「助言」をするようになったの。

挙句の果ては「この子って成績はいいけど、何かタリナいのよね〜」と
公然と言うようになった。悪気はないのだと信じたかった。それがその子の「やさしさ」なんだと、信じたかった。でも次第に私の周りを
ハエがブンブン飛び交っているようなウルサさを感じていきました。




[1175] あと、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/13(Sun) 12:29

「かっこつけ」とか「えばり」とか「いきり」とか「目立ちたがり」とか「ゴマすり」とか「悲劇のヒロイン」とか「うれしがり」とか、そういう評価ってあるでしょ? 私にわからなかったのはそういうやつね。

まず、「えばり」とか「かっこつけ」とか言われないようにしようと思ったら、「普通はどういう種目が『えばり』のフィールドとして認識されるか」を知ってないといけないでしょ? 

すんごく瑣末な、人物評価には全然結びつかないような趣味やコレクションを自慢するのは、かえって「可愛げ」(自分はこんなクダラナイことについつい熱中しちゃうんだよ)とか「謙遜」(自分にはこの程度の物しか自慢するモノがないんだよ)のパフォーマンスにもなりますよね。

「地理の成績」と「数学の成績」と「エレキギターの速弾き」と「インスタントラーメンの銘柄を200も知っている」とでは、同じように誇示しても、その誇示の社会的意味が違ってくる。ところが、私にはその区別がわからなかった。

私は、顔のある生身の人間を相手に優越感とか劣等感とかを持ったことがないから(劣等感を持つのはいつも、発達のマイルストーンとか、平均点とか、顔のない数字や規準に対してだけ)、「劣等感とは何か」を知らない。すると「他人の劣等感を刺激すると傷つけるor怒らせる」なんて計算は、空想に空想の積み重ねになっちゃうから難しい。

「目立ちたがり」という意味も分かるはずがなかった。だって、自分は人を見ていないし、人を一人ずつ区別していないから、人が行動によって目立っていても気がつかない。目立つというのは必ず、持って生まれた外見によって目立つのだと思っていた。私は抜毛でハゲがあるから目立つ。色素の少ない子も目立つ。太田母斑のある子も目立つ。でも、行動で目立つということがあるのを知らなかった。

「自分からわざわざ目立ちたい」という欲求を持つ人がいることも知らなかった。だから「目立ちたがり」という意味もわからなかった。だから自分が「目立ちたがり」と言われても意味が分からなかったし、どう改めたらいいのかわからなかった。

私が侵犯した「集団のルール」の多くは、あまり人に迷惑をかけないたぐいのものでした。ただ、私が意味を知らずにやっていたことが、たまたま、普通の人たちが別の理由から別の意図を持ってする「変な行為」と似ていたためのとばっちりが多かったような気がします。

もう一つは、本当の意味を理解しないままに、「こうすればいいんだな」と思ってやっていたことが、物欲しげに見えたらしいということです。つまり、私としては、みんなの承認が欲しいからではなく、「これが善なのだろう、決まりなのだろう」と思いこんで工夫をしていたのが、友達になってほしいから、仲間に入れてほしいから、相手をしてほしいから工夫をしているように見えたのではないか、ということです。つまり、相手をしてほしくて下手に出るやつを見たら、軽蔑したくなるってわけですね。

これは、本当に「受け入れられたい」と思っている子、本当に「相手をしてほしい」と思っている子にもあてはまることだと思います。

結局のところ、相手の流儀に合わせようと無理をしている姿は、ハタから見て「情けない」「イタい」んですよ。たとえいじめられなかったとしても、上から見下して大目に見てもらう、しょうがないなあという感覚で受け入れてもらう、がまんしてもらうという関係になるのでしょう。

小学校でも中学校でも高校でも、そういうスタンスから私に「やさしく」接してくれる人はいました。あれは「お友だち」だったのかもしれないけど、5年生ごろから、そういう「やさしい子」とつき合うのはだんだん苦痛になってきた覚えがあります。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1174] Re[1173][1171] [1172] 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/13(Sun) 11:52

>
> > ふだんの姿はね、やっぱり見てもわからないですね。
> > でも、このカンニング法のバリエーションがありました、昔。
> > テレビドラマの本編と、ノベライズ本の見くらべです。
>
>  「おお、私はやっぱり人と感じ方が違う部分が多いらしい。」
>  と、再認識する事もしばしば。
>  この場合、気持ちに余裕があるのよね。少なくとも人と違う自分に引け目を感じたりする事はない。
>  
>  でも、リンコさんの場合、
>  ずっと、その引け目や違和感を抱えたまま、生きて来たって事よね。

ドラマとノベライズ本を比較していたのは、中学生から高校生のころだったんですが、そのころはまだ、いろんな面で違和感はあっても、違和感が「この部分にある」ってことには気がついていなかったです。

「自分にはこの部分が分かっていない」という自覚自体、なかった。なぜなら、「他の人はある程度わかっている」ということを知らなかったから。

だから、先ほど「カンニング」って書いたのは、アトヂエで「あれはカンニングだった」と判っただけのことで、当時はそんな意識はなかった。みんなにも判っていないんだと思っていた。

当時の私に自覚としてあったのは、「なぜか人は突然怒り(笑い)だす。そして、誰か一人が怒る(笑う)と、任意の別の人は必ず、私ではなくその人の味方をする。どうやら他の人たちは、私の知らないところで打ち合わせを済ませているらしい」というだけ。

で、約束ごとというのはたとえば、「この歌手が好きだと言うと、ミーハーだと評価される」とか「この歌手が好きだと言うと、渋好みと評価される」とか、その手のやつね。

あるいは、ある先生のことを「あの先生嫌い」と言うと受け入れてもらえるのに、別のある先生のことを「嫌い」と言っても、プラス評価には結びつかないとか。

で、私はこれが全部、「他の人の好み」ではなくて「世界の規則」なんだと思っていたから、単純に「一つずつ、努力して、暗記しなくては」と考えていただけなの。

だもんで、中学で嫌われている先生の名前(といっても、私は、「嫌いと言わないといけない先生」としか思ってなかったが)をせっかく覚えたんだからというので、進学塾でも、何か雲行きが怪しくなると、その子をなだめようとして「私もN先生嫌い」と言ってみたのに、約束されていたはずの効果はなくて驚いたりとか。問題は、その進学塾には同じ中学の子はいなくて、誰もN先生を知らなかったということと、そのとき雲行きが怪しくなった原因は、先生の好き嫌いとは何の関係もなかったということだった。

異文化の中で生きて行くために身につけないといけない行動ルールっていうのは、

みんなに人気のない先生のことを、正しく「私も嫌い」と言い(たとえ自分にはその先生を見分けることができず、その先生の存在さえ知らなかったとしても、また、「嫌い」の定義を知らなかったとしても)、

一方でミーハー好みの歌手を好きと言っておきながら一方で渋好みの俳優を好きと言ってしまうような不一致を犯さないように心がけ、

わからない言葉(主にファッションやテレビ、流行の音楽など)があってもやたらと話の腰を折らず、だからといって知っているふりもせず、「ホントは知らんくせに」と突っ込まれる余地を与えないためにはあいづちを打たず、それでいて無視しているとも思われないように、

そして、

みんなが好きなものの話、みんなが楽しいと思っている話は、わからなくても聞いて、自分の好きな話は絶対に口に出さない

っていうようなことですね。

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[1173] Re[1171] [1172] 投稿者:M 投稿日:2000/08/13(Sun) 10:42

落ちこみモード・・。
でも、あっと言う間の立ち直り・・(^^ゞ。


> ふだんの姿はね、やっぱり見てもわからないですね。
> でも、このカンニング法のバリエーションがありました、昔。
> テレビドラマの本編と、ノベライズ本の見くらべです。

 私の場合は、(”一般的には”と言いきる自信がないので敢えて一人称で書くね。)
 ふだんの姿を見て自分なりの解釈をした後、自分と人の違いを確認するためにそのカンニング法を活用するかな。
 「おお、私はやっぱり人と感じ方が違う部分が多いらしい。」
 と、再認識する事もしばしば。
 この場合、気持ちに余裕があるのよね。少なくとも人と違う自分に引け目を感じたりする事はない。
 
 でも、リンコさんの場合、
 ずっと、その引け目や違和感を抱えたまま、生きて来たって事よね。
 異文化の中で生きて行くには、勿論、その社会と折り合いをつけたり、具体的な行動ルールを身に付ける事も必要ではあるよね。
 でも、あのドラマの繭子のように、
「それでは私にはわかりません、こうしてください。」
 って、堂々と言える環境を作る事の方がその何倍も必要よね。

 てなわけで、一応、この文は省略をしないように書いたつもりだけど、意味不明なら言ってね。


[1172] ううっ、やっぱり・・・ 投稿者:M 投稿日:2000/08/13(Sun) 08:40

私の文は解読が難しいね。
主語が曖昧だし、省略は多いし。 < おまけに誤字もある・・。

>>と言う言葉に応える為のわかりやすい嘘をついたのだけれど。
>あ、あれは分かりやすい嘘だったんですか!

 わかりやすいの主語は ”私”です。
 あ、でも ”視聴者にも” と言う意味もあるかな。

>それと、勿論、自分でも、
>その人の普段の言動不一致の様子を見ていて、初めて下せる判断>でしょうね。
 
 この文の前に”私の場合”が省略されている・・。
 言動不一致 → 言行不一致  (^^ゞ 


>連邦市民のみなさんに混じれば
>間違いなく負けると思いますが、ちょっと自信のあるのが、相貌>失認。

 これは ”へそ曲がり文”
 ストレートな物言いができないのは私の事です。
             < フリーラジカルさん

あ〜あ、朝から落ちこみモード。(;-_-;) (..;)


[1171] Re[1170][1166] [1169]しゃべり方と言えば。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/12(Sat) 23:57

> > 私は、第三者の評判に耳を傾けます。カンニングでんな。
>
> それと、勿論、自分でも、
> その人の普段の言動不一致の様子を見ていて、初めて下せる判断でしょうね。

ふだんの姿はね、やっぱり見てもわからないですね。
でも、このカンニング法のバリエーションがありました、昔。
テレビドラマの本編と、ノベライズ本の見くらべです。

子どものとき、学年別雑誌に連載されているマンガの、柱の部分に載っていた「人物紹介」に書いてある性格と、内容を見比べてみたりね。

そうそう、「先月のあらすじ」を記憶と突き合わせて、「え、私の印象に残っているあのできごとは、重要じゃなかったのか!」と思ってみたり、カンニング法で答えを先に覗くってのは、なかなかいろんな場面で使えましたよ。

インタネ時代になって、ビデオとエピガイを見くらべたり、まだやってるなー。

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[1170] Re[1166] [1169]しゃべり方と言えば。 投稿者:M 投稿日:2000/08/12(Sat) 19:35

> 私は、第三者の評判に耳を傾けます。カンニングでんな。

それと、勿論、自分でも、
その人の普段の言動不一致の様子を見ていて、初めて下せる判断でしょうね。
いくら何でも、見ただけでわかるわけではないので、ご安心を
                 < フリーラジカルさん。

まあ、私の表情の読めなさ具合も程度問題で、連邦市民のみなさんに混じれば
間違いなく負けると思いますが、ちょっと自信のあるのが、相貌失認。

10回以上会っても、まだ覚えていない事もしょっちゅう。どこかの個室で、
対面して長時間話をした事のある相手でも、違う場所で出会うと、
「この人挨拶して下さったけど、私を知っているのかな?」(^^ゞ

ところで、
良くある、犯人のモンタージュ写真作り。あれって世間のほとんどの人はでき
る技なのでしょうかね? どうして一度しか会っていない人の特徴を言えるの
か不思議。私ならズバリ写真を見せられても、わからないと思う、多分。

あ、話しが逸れてしまったのだけど、
顔を覚える事と、表情を読む事ってどちらも顔の特徴を認知するって事だから
関連のある力なのかなとふと思ったものだから・・。


[1169] Re[1166][1165][1164] しゃべり方と言えば。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/12(Sat) 16:56

> そういう人がいることも、話としては聞いて知ってるから、
> 混乱はしないけど、相手がその「へそ曲がり人間」かどうか、なんて
> どうやって判断がつくんでしょうか。これも筋?

私は、第三者の評判に耳を傾けます。カンニングでんな。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1168] Re[1167][1166][1165][1164] しゃべり方と言えば。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/12(Sat) 16:54

↓あ、竹筒じゃ節でふさがれてて見えないじゃないか〜!!
ま、何にも見えてないのに等しいかも。ぐぐぐ。


[1167] Re[1166][1165][1164] しゃべり方と言えば。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/12(Sat) 16:01

やっぱり「視野が狭い」ってことなんでしょうかねえ。
竹筒を通して世界を見てるから、断片的な情報に引きずられるんですよね。
マルチタスクをこなすのは難しいなあ。


[1166] Re[1165][1164] しゃべり方と言えば。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/12(Sat) 15:52

う〜ん、難しすぎます。

> では、雰囲気や人の表情が読めない時は何で補っているか・・。
> 私はひたすら、筋を読みますね。

そのテがあることは、「知って」はいるんですよ。
でも難しすぎて、私には使えないんですねえ、そのテ。筋とか、表情とか、口調とか、雰囲気とか、統一してくれないと。どれか一つでも他のと矛盾した要素があると、混乱して思考停止。

> と言う言葉に応える為のわかりやすい嘘をついたのだけれど。

あ、あれは分かりやすい嘘だったんですか!
あんなインパクトの強い嘘つかれたら、慎一と繭子が会わないための
意識上の取り決めだっていう、虚構の世界だっていう印象が
薄れちゃうじゃないですか。ま、それが本来の狙いだったのかも。

> 他にも悪意はなくても、ストレートな物言いのできないへそ曲がり人間は結構いますよ、多分。

そういう人がいることも、話としては聞いて知ってるから、
混乱はしないけど、相手がその「へそ曲がり人間」かどうか、なんて
どうやって判断がつくんでしょうか。これも筋?


[1165] Re[1164] しゃべり方と言えば。 投稿者:M 投稿日:2000/08/12(Sat) 14:00

私は連邦市民ではないけれど、
場の雰囲気や人の表情を読みとる事は苦手で、その手の失敗は良くしますよ。

だから、井戸端会議風の雑談場面では無茶苦茶、無口です。
共通の関心事や、暗黙の了解事の話題の方向性も読み取れないし、その場にそぐわないとんでもない事を言ってしまいそう・・でね。
苦痛なので、いつの間にかそんな場面は極力避けるようになりました。そう、人付き合いの悪い人です、私は。
    <結構そういう人、いるのではないかな? 私だけ?

では、雰囲気や人の表情が読めない時は何で補っているか・・。
私はひたすら、筋を読みますね。
今、怒ったような顔?をしているその人も、
「以前はこんな事を言っていたな。」
「さっきの発言と今の発言は微妙に食い違うな。」
等の判断材料を合わせて、これは本心ではないかもしれないぞと、ひとり妄想をめぐらす訳です。

結構、当たる事もあるし、勿論、外れる事もあります。まあ、どうせ雰囲気や表情でも読み違えるのだからね。そこへ向けるエネルギーが省略できる分、この方が楽です。私には・・。

それで思い出したけれど、以前、ドラマの場面で慎一の発した”悪口雑言”は”真意”ではないよという事が話題になった事がありましたね。
あの時、私もここで発言したけれど、
”それまで”の慎一のことばを通して”今現在”の心を推し量っていたら、”今”の言葉に隠された裏の思いが読めてしまったのね。

勿論、あの場面の慎一は、繭子の
「嘘をついてほしい」
と言う言葉に応える為のわかりやすい嘘をついたのだけれど。

他にも悪意はなくても、ストレートな物言いのできないへそ曲がり人間は結構いますよ、多分。
     < あ、又、混乱するかな、こんな事を書くと・・。


[1165] Re[1164] しゃべり方と言えば。 投稿者:M 投稿日:2000/08/12(Sat) 14:00

私は連邦市民ではないけれど、
場の雰囲気や人の表情を読みとる事は苦手で、その手の失敗は良くしますよ。

だから、井戸端会議風の雑談場面では無茶苦茶、無口です。
共通の関心事や、暗黙の了解事の話題の方向性も読み取れないし、その場にそぐわないとんでもない事を言ってしまいそう・・でね。
苦痛なので、いつの間にかそんな場面は極力避けるようになりました。そう、人付き合いの悪い人です、私は。
    <結構そういう人、いるのではないかな? 私だけ?

では、雰囲気や人の表情が読めない時は何で補っているか・・。
私はひたすら、筋を読みますね。
今、怒ったような顔?をしているその人も、
「以前はこんな事を言っていたな。」
「さっきの発言と今の発言は微妙に食い違うな。」
等の判断材料を合わせて、これは本心ではないかもしれないぞと、ひとり妄想をめぐらす訳です。

結構、当たる事もあるし、勿論、外れる事もあります。まあ、どうせ雰囲気や表情でも読み違えるのだからね。そこへ向けるエネルギーが省略できる分、この方が楽です。私には・・。

それで思い出したけれど、以前、ドラマの場面で慎一の発した”悪口雑言”は”真意”ではないよという事が話題になった事がありましたね。
あの時、私もここで発言したけれど、
”それまで”の慎一のことばを通して”今現在”の心を推し量っていたら、”今”の言葉に隠された裏の思いが読めてしまったのね。

勿論、あの場面の慎一は、繭子の
「嘘をついてほしい」
と言う言葉に応える為のわかりやすい嘘をついたのだけれど。

他にも悪意はなくても、ストレートな物言いのできないへそ曲がり人間は結構いますよ、多分。
     < あ、又、混乱するかな、こんな事を書くと・・。


[1164] Re[1163][1161]: しゃべり方と言えば。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/12(Sat) 08:56

そうそう、繭子も慎一と話してたときに言ってましたね。
「あ、声が大きくなった。怒ったんですか?」って。
おんなじおんなじ。

トモダチと電話で話してたときに、そのトモダチの声が大きいので
「怒ってるの?」って訊いたこと、あります。
そしたらそのトモダチが答えて曰く
「この部屋ねえ、道路に面してるのでウルサイの〜。
今、窓を開け放してあるので・・・。」

ちゃんちゃん♪ あ〜あ。


[1163] Re[1161]: しゃべり方と言えば。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/12(Sat) 03:53

自分で「わたしゃ、嘘を見ぬけるぞ!」と書いておきながら、
全面否定するようですが、この「少しなら」という部分に
ご注目あれ。

つまり、人間は声の調子だけでコミュニケーションをはかってる
訳じゃないんですよね。表情とか、その言葉が発せられた状況とか、
多種の「記号」を総合判断しなきゃいけないのに、音声情報のみに
しがみつくから、大抵の場合は誤算なんです。

だから声に何か微妙なイントネーションがあると、
訳が分からなくて混乱したり、すぐに「あ、皮肉を
言われた!」になるし、口調が普通だと、嫌味を言われても全く
気付かなくて、周囲から「あれは嫌味だよ」と言われて
崖から突き落とされたような気になる。
繭子も教えてもらってましたね。「あれは嫌味」
おんなじおんなじ。今でも私は第三者に言われないと気付かないし。

ホントは、音だけにしがみついてるから誤算が多いんです。
タチが悪いのは「嘘を見ぬけるぞ〜」っていう自信のほうかも。


[1162] Re[1161]: しゃべり方と言えば。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/08/12(Sat) 01:19

> 少しなら、私にも「他人の嘘を見抜く」ことができます。
> でもこれは正確には嘘を「見抜く」のではなく、
> 嘘を「聞き分けて」いるのかも知れません。

私、これサッパリダメです。

> ホント、声の調子だけがコミュニケーションの手がかりだから、必死になって読み取ろうと耳をすませてるかんじ。
> 耳の不自由なヒトが音感や人の口調を聞き取るのに優れている理由がよく分かる。

私ねー、声の調子を聞きとる所までだったら、うまいんです。人の口調のモノマネとか上手。だけど、「それが何を意味するか」になると、なんにもわからない。解釈の段階でつまずくみたいだ。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1161] しゃべり方と言えば。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/11(Fri) 01:31

少しなら、私にも「他人の嘘を見抜く」ことができます。
でもこれは正確には嘘を「見抜く」のではなく、
嘘を「聞き分けて」いるのかも知れません。
だって口調まで完璧にお芝居されたらアウトだったもの。
音声を消したTV画像から、つまり表情だけからだとどれくらいの情報を読み取れるか、なんて全然自信がないのです。
そもそも、人の顔を見てそこから何かをつかみ取る経験が絶対的に不足しているから。

去年いた職場でのこと。
私が一人で仕事をしていたところへ、その職場の人らしき、しかし面識のない人が話しかけてきました。
後で私の上司にそのことを報告しました。
私「さっき、この仕事の内容や進捗状況を訊いてきた人がいましたよ。」
上司「どんな人だった?」
私「顔は(例によって)覚えていないんですが、フレンドリーなしゃべり方の人でした。言い方を変えれば、『子供に諭すような話し方』の人・・・」

(私ってやっぱりヘン?)
ホント、声の調子だけがコミュニケーションの手がかりだから、必死になって読み取ろうと耳をすませてるかんじ。
耳の不自由なヒトが音感や人の口調を聞き取るのに優れている理由がよく分かる。


[1160] Re[1159]: 美咲 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/10(Thu) 20:36

> 先日テレビを見ていたら美咲を演じていた山口もえがでていました。
> しゃべり方が美咲そのままで「棒読みのようなしゃべり方」は地だったんですね。演技かと思ってました。

わ〜、山口もえさん、オトモダチ〜♪
(私にはあのドラマの中のもえさんのしゃべり方は棒読み調に
聞こえませんでした。私はあの∞倍くらい(といってもゼロを∞倍してもゼロですが)翻訳文棒読み調です。)
と、言うことは、あの肩の高さの変わらない歩き方や、
手の皮をめくるのも、地かしら♪♪(と、勝手に暴走する。)


[1159] 美咲 投稿者:とら 投稿日:2000/08/10(Thu) 12:44

先日テレビを見ていたら美咲を演じていた山口もえがでていました。
しゃべり方が美咲そのままで「棒読みのようなしゃべり方」は地だったんですね。演技かと思ってました。


[1158] 夜驚症 投稿者:ちひろ 投稿日:2000/08/09(Wed) 08:10

> ご存じかとは思うのですが、春と秋は小さな子供でもホルモンバランスが崩れ、精神的なストレスが増幅されてしまうとのことです。

いや〜、ご存知じゃないですよ。
・・・と言う事は、4年半続いてて、今年の6月に突然止まった長男の「夜驚症」は、9月になったら、また再発する可能性も、なきにしもあらずと言う事ね。覚悟しておこう。

娘さんのこと大変でしょうけど、がんばってください。
大きくなったら、普通は自然に消えるそうですから。


[1157] 「もっと知りたい」「片づけられない女たち(仮)」 投稿者:けやき管理人 投稿日:2000/08/08(Tue) 20:58

以下の番組で、ADHD関連の内容が放送される予定。ただし、事情により変更され
る場合もあります。

−−−−−−−−−−−−

番組タイトル:「テ・キーロ・パ・キーロ」

コーナータイトル:

「もっと知りたい」「片づけられない女たち(仮)」
2000年8月16日(水)9:30〜9:45放送(予定)

コーナー送出ネット局:

FM青森/FM岩手/FM秋田/FM山形/FM福島/FM群馬/FM新潟/FM石川/FM三重/
FM岡山/FM山口/FM香川/FM高知/FM佐賀/FM鹿児島/FM沖縄

以上、TOKYO FM系列、ジャパンFMネットワークの16局。地方向けのネット局な
ので、東京では聞くことが出来ません。

−−−−−−−−−−−−−以上番組担当者からの情報。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://www.ne.jp/asahi/hp/keyaki/


[1156] Re[1146]: ドミノ防止 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/08/08(Tue) 17:01

ご存じかとは思うのですが、春と秋は小さな子供でもホルモンバランスが崩れ、精神的なストレスが増幅されてしまうとのことです。
ウチの娘の場合、大問題なのが夜驚症。
そろそろだなあ、と覚悟してますです。ハイ。

去年は8月の末から小規模なものが始まりました。
で、10月に、地獄が地面を割って現れたかのような本格的な夜驚。
一晩中、ベッドや廊下を走り回り、闇の中に何かが見えるように
怯えて叫ぶ、叫ぶ、の繰り返し。本当に地獄です。
今年は3月に始まり、1ヶ月くらい、続いたかな。
去年よりはましでヤレヤレ。

実は私も子供の時に夜驚があったようなのです。
母が「夜泣きがひどいので鍼灸院に連れて行ったのに、
手や足を押さられたら大暴れした。鍼灸師さんに、『こんな子、二度と連れて来るな』と言われてしまった」と嘆いていました。

真っ暗闇の中で、なぜか巨大なジャングルジムみたいなものから
落下する夢を見て何度も飛び起きたような記憶、確かにある。

私にはADHDも合併しているようなので、新学期というのはまさに
「期待と不安が入り交じった」という表現がぴったりでした。
小学校は生徒数が少なかったおかげで、新学年になってもクラスの
顔ぶれは全く同じだったのは救いだったかも。
ひたすら「新しい教科書の手触りと匂い」にしがみついていましたが。


[1155] Re[1154]: 決まり事を作る理由 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/31(Mon) 18:53

>  私も今では幾つかの決まり事を持つようになりましたが,その理由は「楽だから」の一言に尽きます。子供の頃には特に決まりごとを作る必要はありませんでした。


もともと、自分に興味のあることしかやろうとしない&やらされても全く覚えない「自閉症」児も大人になると、「日常生活」を自力でこなすことを要求されます。が、当然のように、やりたくないことだらけ&分からないことだらけです。
衣食住に関することって、普通の人にとっては楽しみであるようですが、私にはほとんどがどうでもいいことだらけです。でも幸いなことに、この分野には制限が多いのです。これこれしか着れない・これとあれしか食べない・雨露がしのげればいいという感じなので、どこどこの店の服・決められたメニューの中での選択・狭い部屋の方が良いのです。
もしこういうことまで「人並み」にやろうとしたら、まずたくさんの知識を仕入れて比較検討するところから始めて、普通なら何かをしながら適当に考えれば済むことを一日がかりで計画を立てて、自分に欠けている能力を総動員してやらないといけません。こういうエネルギーの浪費は、そうそういつまでも持続するものではありません。


[1154] 決まり事を作る理由 投稿者:如月 投稿日:2000/07/29(Sat) 21:00

 私も今では幾つかの決まり事を持つようになりましたが,その理由は「楽だから」の一言に尽きます。子供の頃には特に決まりごとを作る必要はありませんでした。
それに類した事を始めたのは,大学に入って自炊をしていた頃からだと思います。晩御飯のおかずを二週間分ぐらい決めて,それを正確に繰り返していくので,ああ次に豚カツを食べる時はもう夏休みに入っているなあ,とカレンダーがわりに使っていました。
毎日今日は何を食べようかと考えるのはとても煩わしくて,自然とそのようになりました。
一人で暮らしていない時は周りの状況に合わせていたので,決まり事が出来ることもなくその必要もなかったのです。
けれども,段段と自分から能動的に何かをやり始めると,そのために使う体力が増えてきて,決めておけるものは極力決めておき,頭で考えなくても自動的に体が反応できる状態を作るようになりました。
どうも一日に使える体力というかエネルギーが少なくて,体の反射的対応で済ませられる事に割けるような余力はない,となったようです。子供の頃には,ただ息をしてご飯を食べて寝るだけで体力を使わなかったから,決め事の必要もなかったのだと思います。

今では会社から帰ってくると,倒れそうな程に疲れていることがよくあって,文字通りの意味で,目をつぶっていても帰れるぐらいの道筋でないと,危なくて気が休まりません。同じ時間の電車の同じ場所に乗って同じ道順で帰るようにしておけば,目をつぶっていても大丈夫なので安心です。
疲れてくると,目で見て何かを探したりする事とものを言う事がとてもシンドクなって,異常なまでにこれらを避けようとします。電車の扉が何処にあるかを確認するぐらいならばいいけれど,何処行きと書いてある文字を見て乗る電車を確認したりはしたくないのです。
たかが目で見て何かを判断するぐらい何でもないと自分でも思っていますが,それなりの負担があると考えたほうが正しいようなのです。ぐっすり寝て,仕事もしていない休日ならばそんなことはありません。
適当に加減したり,限界の前に止めたりしない体質も関係しているでしょうが,乏しい体力も大きな原因の一つです。一日当たりの体力に限りがあって,なおかつ極限まで使い果たすから,用心のために自然と決め事を作り始めたのだと思います。

 私が同一性に固執するのは乏しい体力を温存するためで,一般的な自閉症の子供の決め事に対するこだわりとは,少し趣が異なります。けれども子供の頃のように,体力を身の周りの出来事のためだけに全て使えば決め事なしでもやっていけるだけのものがあるから必要がないだけで,更にもっと元からの体力が少なければ専念していても足りなくなって,決め事が必要になったのでは,と思います。
要は,乏しいといいながらも日常生活のためだけならば足りているのでしなかったけれど,大人になって他のことまでやりだすと足りなくなった,質の問題ではなく,量の問題ではないかということです。

小さな子供は自分の要求に忠実で,必要もない事を怒られるのを覚悟してまでやったりはしないものです。根回しをして決めるはずのない子供達が,似たような同一性に固執する理由は,「そうすると楽で気持ちが良いから」以外にはありえないと思います。
息があがれば誰でも口からハーハーと息をするように,体力の乏しすぎる子供は自然の知恵で決め事を作って,何とか難局を乗り切ろうとしているような気がします。
奇妙な決まり事はなるべく直すべきだと書いてある場合が多いようですが,反社会的なものはともかくとして,その根拠ははっきりとしません。私には,周囲の目があるからとか,何となく良くなさそうだから,ぐらいしか思い浮かびません。
家族の立場からはとても気になるものでしょうが,大きくなれば大体消えていくものであるし,傍観者の立場からは,その真の理由ははっきりとした根拠なしでは否定できないぐらい深いものではないか,とも見えるのです。


[1153] Re[1150][1147][1148]: ドミノ防止 投稿者:トルネード 投稿日:2000/07/29(Sat) 07:48


> うちの子の場合、小さい頃は行事の翌日熱がでました。
> このごろ(8歳)は、ハイテンションでへらへらしてしまいます。
> 機嫌よく悪乗りしているように見えるので、精神的な負担の結果だと
> わかってもらいにくくて……

私の親もよく、むかし、この事でなげいていました。
どこかに連れて行くと必ず明くる日熱をだす!といって。
ハイテンションでへらへらになるのがいやで、
楽しまないように自分をおさえていたのが、私の子供時代です。
だから、かえってこどもらしくなかった。
成人してコントロールが多少効くようになってきて
楽しむことを自分に許すようになったが、
それでも、はためには、マイペースすぎるらしい。
というわけで、旅行などは、一人にかぎるとおもっている。
ひとりなら、へらへらしても、迷惑は自分にかかるだけだから。
結局、本当にたのしめるのは、一人のときということ
なのかもしれなしい。


[1152] いろいろな生き方 投稿者:ハタミホコ 投稿日:2000/07/28(Fri) 14:37

Lingkoさん、こんにちは。

↓へのコメントです。

> 慣れない所に旅行に行くんだから、かばんは使いなれたものを持って行こう、とか、はきなれた靴をはいていこう、とか、気を使う相手との会食だから、よく知っている店を選ぼうとか、そういうのと似ているんじゃないかな。普通の人でも、何か不確定要素がある分だけ、どこかに「手堅い」部分を残しておこうとしたりしません? それのとても極端なやつなのかもしれない。

私は知らないところに行くときは、かばんも服も靴も新調して、できれば美容院まで行って、新しいものに囲まれて出かけたいなと思うタイプです。知らない人に合うのなら、全く初めてのお店のほうが元気が出てきます。

なんというか、新しいものからエネルギーをもらえるような心の構造をしているのかな。

こういうのも、また別の意味でこだわりなのかも。旅行前はいつもよけいな出費しちゃうのよね。


[1151] 私も、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/28(Fri) 08:54

「こだわり」や「常同行動」を問題視して我慢するどころか、「してはいけないことだ」という罪悪感を持ってしまっていた時期がかなり長くありました。だって、それが「こだわり」や「常同行動」だなんてことさえ知らないのですから…。
でも、何となく他のもので埋め合わせしていたり、時々大爆発を起こしてしまったりしていました。つまり、完全に排斥しようとする方が間違っていた、と言うか不可能だったのです。

でも、「自閉症」だという診断がハッキリついて、一時それまで我慢していた分を一気に取り戻そうと見境がなくなってしまいましたが、最近やっと折り合いがついて、時間の区切りをつけたり切り換えが出来るようになりました。
最初からそうしていれば、余計なことをしなくて済んだのにねえ!


[1150] Re[1147][1148]: ドミノ防止 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/28(Fri) 07:37

埋め合わせではなくて、エネルギーの分配の問題なのですね。
少し前まで、自閉症に関する本にはきまって
「こだわり」や「常同行動」を問題視して書かれてありましたが

>生活の中に適度に「こだわり」を組み込んでやると、その部分は手順を考えなくてすむ。それに、結果がわかっているから、どきどきはらはらしなくてすむ。手順を考えるストレスと、どきどきはらはらのストレスをふたつながらに減らせる、二度おいしいテクニックです。

>常同行動を我慢するのに空費していた膨大なエネルギーを仕事に回したので、「うわ〜〜、私でもお仕事が続くんだ〜」っていうのは、本当に夢のようです。

ということであれば、本人も周りの者も「こだわり」や「常同行動」と
うまく付き合うことを考えたほうがよさそうです。

>子供だと通常、こういう場合はチックがひどくなったり、ボーッとして宙を見つめている時間が長くなったりすることの方が多いと思いますが。あるいは、もっとあからさまに不安げな表情をしたり、イライラして当り散らしたりもするかもしれません。

これだとまだ「ストレスで不安定」だということがわかりやすいのですが
うちの子の場合、小さい頃は行事の翌日熱がでました。
このごろ(8歳)は、ハイテンションでへらへらしてしまいます。
機嫌よく悪乗りしているように見えるので、精神的な負担の結果だと
わかってもらいにくくて……


[1149] ↓助かった、↓ 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/28(Fri) 02:04

みんな一人ずつ違うとわかってはいても、私は私一人のことしか知らないから自分のことしか書けないし、

私の場合はかなり特殊な例だと思うから、これが普通だと思われては怖いなーと思っていたので助かりました。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1148] Re[1146]: ドミノ防止 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/27(Thu) 22:27

> 「決まりごと」の一角が崩れたためにおこる不安定な状態を緩和するには守れる「決まりごと」をより安定させることで、埋め合わせできるということでしょうか?

子供だと通常、こういう場合はチックがひどくなったり、ボーッとして宙を見つめている時間が長くなったりすることの方が多いと思いますが。あるいは、もっとあからさまに不安げな表情をしたり、イライラして当り散らしたりもするかもしれません。
>着る物か、見たり聞いたりする物の方で補うしかないんです。
というのは、代替えの「決まりごと」ではありません。
別の「決まりごと」で埋め合わせするというより、自分が安定できる感覚的な事柄に逃避して不安感を解消したくなります。私は、どんな服を着ても気になるので、安定させるには「音」を使います。


> 2学期は学校行事が目白押しで、一般の児童も大変だろうと思うのですが、うちの少年には、時間割やスケジュールの変更はしっかり伝えてもらうようにお願いしています。
> こういう時期にはうちではできるだけ変わったことはしないほうがいいのでしょうね。

「いつもとおなじ」が崩れると、途中から変更できずに一から予定を組みなおさなければならないので、とても混乱します。
家でも変わった事をしないといっても、全体的な時間の変更があるとそれに引きずられて生活のパターンが崩れてしまったりするわけですから、「これくらいどうってことない」と思わずに精神的にかなりの負担になっている事を理解して欲しいです。


[1147] Re[1146]: ドミノ防止 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/27(Thu) 21:26

> 「決まりごと」の一角が崩れたためにおこる不安定な状態を緩和するには
> 守れる「決まりごと」をより安定させることで、埋め合わせできると
> いうことでしょうか?

私の場合は、ちょっと違うかな。

「不確定な要素」の合計量が、ある一定の線を越えないように、っていう感じの方が近いです。

慣れない所に旅行に行くんだから、かばんは使いなれたものを持って行こう、とか、はきなれた靴をはいていこう、とか、気を使う相手との会食だから、よく知っている店を選ぼうとか、そういうのと似ているんじゃないかな。普通の人でも、何か不確定要素がある分だけ、どこかに「手堅い」部分を残しておこうとしたりしません? それのとても極端なやつなのかもしれない。

自閉症とかアスペとかの人って、何段階もの手順を見とおす力が弱い人が多いのかな? 少なくとも私はそうです。で、もしそうなんだとしたら、こだわりの通りに物ごとを運んだら、少なくともその部分については前例が参照できるから、一回分、見とおす力を使わずにすむでしょう。

「ああなって、こうなって、もしああなるとこうなるから・・・」って頭の中で少し先を読むためには、何段階もの「仮定」を覚えておく力が必要です。私の場合はこの力がとても弱いんです。ただうすらぼんやりと「できない」っていうんじゃない。本当に頭の中の「握力が弱い」という感じです。ものすごくがんばったらできないわけではないんだけど、とにかく疲れる。だから、それ一つだけだったらできるんですよ。でも、その調子で1日の生活を全部やることはできないんです。

そういう人にとっては、生活の中に適度に「こだわり」を組み込んでやると、その部分は手順を考えなくてすむ。それに、結果がわかっているから、どきどきはらはらしなくてすむ。手順を考えるストレスと、どきどきはらはらのストレスをふたつながらに減らせる、二度おいしいテクニックです。

私は、元々はこの種のこだわりが強い方ではありませんでした。というより、「こだわり」という手で刺激の合計量を減らせるんだってことを、ちゃんと意識したことがなかった。そんなことに気づく暇もないほど、頭の中の多動が激しかったのか、物忘れが激しかったのか、気づいても好奇心と衝動性に勝てなかったのか。

そんなわけで、30になるまでは、自閉の要素よりも、ADHDっぽいところ(まあもっと具体的に言っちゃうと、好奇心と、無計画ですね)が暴走しまくってて、日々の生活を組み立てて行くのが、本当に大変だったのです。しんどかった。でもそのころの私は、しんどければしんどいほど、自分が鍛えられると思い込んでいたのですもの。ぐったりして動けなくなるのは疲れたからだとは夢にも思わず、自分は横着で怠け者なのだと信じていましたから、しんどいことをすればするほど鍛えられると思ったし、自分が世間知らずで臆病なのが気に入らなくて、ひどい目に会えば会うほど鍛えられると単純に考えていました。そういった「自分を鍛えよう」という決心と、衝動性・頭の中の多動性(好奇心)はうまくマッチしたものだから、相乗効果で暴走しちゃったんでしょうね。

これではしんどくてやって行けないなあー、という自覚が生まれ始めたのが30ごろ。まだ、ADHDのこともアスペルガーのことも、何も知りませんでしたが、知らないなりにとにかく「自分に向いた楽な生活を組み立てよう」と考えるようになったのです。

このときに、いろいろ実験してみた結果「自分に向いた楽な生活を組み立てるために」と思って導入したのが、今思えば自閉のコダワリっぽい生活スタイルでした。以前はこういうの、ずっと「自分を甘やかすダメな生活」だと思っていたんですよ。

朝はおんなじ時間におんなじシリアルをおんなじカップで量っておんなじ皿に盛りつけ、昼はおんなじマッシュポテトをおんなじカップで量っておんなじカップのお湯と混ぜ合わせておんなじマヨネーズで和えていたら、私にだって他のことをするエネルギーが残ることがわかりました。そうやって私は、勉強を始め、仕事につくことができたのです。

33のとき、診断を受けたばかりのころに、診断してくれた先生にきいてみたことがあります。「先生、同じシャツを5枚買うと、私はダメになりますか?」先生は、「そんなことないよ」とおっしゃいました。「良かったー」私は次の日、その日着ていたのと同じシャツを、あと4枚注文しました。毎日、同じシャツを着ていると、そのシャツの肌ざわりが「ゼロ」になるのです。触覚がそれに慣れてしまうから、触覚からの入力がほとんどなくなるようなものです。そうすると、聴覚や視覚や思考や記憶に回すメモリが増え、何を行なうにも容量の余裕が残ります。

毎日同じマッシュポテトや、毎日同じマカロニを毎日同じ量だけ食べているときは、そのマッシュポテトの味、マカロニの味、その量の満腹感が目盛りの「ゼロ」になります。そこからプラスマイナスのブレがあれば「情報」として入ってきますが、いつもと同じ数値だと、省略されて入ってこないのです。そうするとまた、思考や記憶に回すメモリの余裕が増えることになります。

一分、一秒でも自分の心身を酷使して自分を鍛え、強くならなくてはならない、一つでも多様な経験に身をさらし、多くの情報を浴びることで感覚を麻痺させなければならない、と思っていたころは、普通の生活なんてとてもできませんでした。不快な経験を豊富に積めば、普通の人のように強くたくましくなれ、鈍感になれるだろう、そうすれば何でも普通の人と同じようにできるようになるだろう。そう思ったけど、私には無理でした。もともと不器用な生活がなおさら破綻しただけです。

「もういいやー」と思ってからの私は、たくましくならないままでとりあえず「できる生活」を組み立てることにしたのです。そのときに何も知らないまま取り入れたのが、コダワリ食でした。その後、診断を受けてアスペルガーのことを勉強してから、「ほほー。うまくいったのには根拠があったのか」と思い、衣類にも広げることにしたのでした。

こうして臆面もなく自閉っぽく暮らすようになって、衝動・多動が生活を破壊することはほとんど無くなりました。なんだかなあ〜。まるでADHDを抑えこむのにアスペをケシカケているみたいな気がしないでもないんですけど。

こうして、「臆面もなく自閉っぽく暮らす」という方針は、生活レベルを上げるのには役に立ったし、仕事もだんだん軌道に乗って行ったし、自傷はちょっと増えたけど他傷と物損が圧倒的に減りました。それに、常同行動を我慢するのに空費していた膨大なエネルギーを仕事に回したので、「うわ〜〜、私でもお仕事が続くんだ〜」っていうのは、本当に夢のようです。

だけど、冷静な見かたをする人は、「診断によって暗示にかかったんじゃないか?」と思われるんでしょうね。「演技とどこが違うんだ」と言われると、私もうまく説明できなかった。「アスペルガーっていう役割を楽しんでいるんじゃないのか?」と質問されたこともあるけど、アスペらしい生活を楽しんじゃ、いけませんかねぇ。どうなんだろ。

すみません、コダワリ食生活から話がずいぶん離れてしまいました。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1146] ドミノ防止 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/27(Thu) 09:13

雪印の工場の生産が再開されるようですね。
まず宅配向けの瓶入り牛乳からだそうですが……

「決まりごと」の一角が崩れたためにおこる不安定な状態を緩和するには
守れる「決まりごと」をより安定させることで、埋め合わせできると
いうことでしょうか?

2学期は学校行事が目白押しで、一般の児童も大変だろうと思うのですが、
うちの少年には、時間割やスケジュールの変更は
しっかり伝えてもらうようにお願いしています。

こういう時期にはうちではできるだけ変わったことはしないほうが
いいのでしょうね。


[1145] でも、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/26(Wed) 06:43

「お茶」がダメになったら、「紅茶」に変更するかもしれない。


[1144] ちなみに、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/26(Wed) 06:23

私は、北海道カマンベールチーズとネオソフトと6Pチーズの買い置きで食いつないでいます。
自転車だと雨降りに買物に行けないので、必ず2〜3個はストックするように心掛けています。
(でも、いつも飲んでいるお茶を売っているお茶屋さんが潰れたら、もう一生お茶が飲めないかもしれないという不安をいつも抱えています。)


[1143] 雪印マッシュポテトで思い出しましたが、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/26(Wed) 03:33

今回の件で痛感したのは、私はつくづく、非常時に弱いなあ、ということです。

エアコンが動いていて、冷蔵庫が働いていて、いつもと同じ食べ物、いつもと同じコーヒー豆、いつもと同じ洗濯洗剤、いつもと同じ電球がコンスタントに手に入って、

自分も身内も健康で、

冠婚葬祭も地域の行事もつき合いもなくて、

これが全部揃って初めて、どうにかこうにか、それでも調子を崩しながらもかろうじて進んでいくのが私の毎日です。

停電したら。冷蔵庫や洗濯機が壊れたら。親が病気になったら。町会費の集金係の当番が回ってきたら。生協の班に、気むづかしい人が一人でも入ってきたら。自然災害で、避難しなくてはならないことになったら。そして、夫が転勤することになり、引っ越すことになったら。

上のどれか一つがあるだけで、もう私の生活は立ち行かなくなります。平常時でこそ、ほとんど健常者の生活を送っていますが(だから援助なんて何も要らないと思われがちですし、実際、法律的にも何のフォローもありませんが、そして、それは別に構わないのですが)、何かあったときのウロタエ度は、まさに「どこが軽度?!」でしょう。私は一人で、家電製品の修理の人と応対するなんてできませんし、保険金の請求もできないでしょう。引っ越しの積み下ろしの立ち会いなんて(何度もやったことありますが)、想像しただけで死にたくなります(一度も死んだことありませんが)。

高機能者といえども、こういう「非常時」だけでいいから、スポット的な援助があったらいいだろうなあ、と思います。

雪印製品が手に入らないってだけで、家具や建具への衝突事故が増え、物の取り落としが増え(まだ足の上には何も落としていませんが)、いつも散らかっている部屋がなおさら散らかり、銀行や郵便局へ行けなくなる。そんなものなんです(少なくとも私は)。知らない人は「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話だと思われるかもしれませんがそんなもんなんです。そういう障害なんですから(法律的には障害ではないにしても)。

こういうことがあると、「普通並みの生活」なんてやつが、いかに脆い基盤の上に成立しているかを思い知らされます。

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[1142] むーーん、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/26(Wed) 02:58

覚えること多すぎです。

普通の人の中には、ブランド物がいいと思う人と、あえて避けたいと思う人と両方がいて、そのどちらからも叩かれないようにしようと思ったら、

そのために必要な予備知識は、

さらにそのために必要な予備知識は、

等々、切りがありません。それも、興味があることを覚えるのは楽しいでしょうが、興味もないことを自衛だけのために丸暗記するのはメンドクサイものです。

「天使〜」の輝さんは一応きちんとしたカッコしてましたが(あれがどういうニュアンスで受けとられるカッコなのか、「きちんとしている」以上のことを、私は知らない)、あのスタイルが固まるまでには、買い与えて着せて教えた人がいたわけで、たぶんあのお母さんなのだろうけど。きちんと見えるように、変な目で見られて不利にならないように、選んでくれた人がいたはずです。私たちは、それを一人で二役やらなくてはならない。繭子だって、いくらなんでも入社試験に白のふわふわワンピースで行ったりしない。ちゃんと紺のスーツを着て行くけど、それだってお母さんが買ってるかもしれない。それが私には難しい。難しいけど一人でやらなきゃいけない。私は子どもがいないからいいけど、子どものいる人は、子どもの分まで。

だいたい服は見た目以前に、感触や圧迫や、ハードルが山ほどあります。同じ物を続けて着たいと思えばまとめ買いしないといけないから、安売りが利用できないこともあるし。

着られる物しか着られないとか、食べられる物しか食べられないとか、同じ物ばかり着たいとか、同じ物ばかり食べたいとか、そういう身体と気分の管理だけで大変なのに、その上に見た目まで考えるなんて。チエちゃんやヒラメちゃん、テツはいつも同じ格好でいいなあ!

最近は特に、雪印の件で、食の面で連続性が断たれたので、とにかく着る物に苦労をしています。決まった食べ物が手に入らないというのは大ごとなので、その分、代わりの「変化のなさ」を確保しようと思ったら、着る物か、見たり聞いたりする物の方で補うしかないんです。

全く・・・ 早く何とかなってくれないだろうか、雪印。乾燥マッシュポテトと、ミニパックバターと、切れてるカマンベールだけでもいいから! そうでないと、横じまシャツの洗濯と回転が大変です。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1141] Re[1135]: 自衛のための知識 投稿者:ハタミホコ 投稿日:2000/07/25(Tue) 16:12

Lingkoさん、こんにちは。本論とずれてしまいますが、おしゃれに関する話は好きなので、コメントさせてください。

私はブランドものは、あえて避けるタイプです。理由は3つくらいあります。

●ブランドロゴの大きく入ったバッグや服などが、デザイン的に好きではないってこと(無地のものが好きです)。
●大勢の人が持っているものを持つことがきらいなこと。
●そもそもブランドものに合わせるような服をもっていないから。

こう言える私は、「何がブランドものであるか」をよく知っている人間と言うことになりますね。しかし、こういう観察力を、私はいったいどこで身に付けたのか、よくわかりません。

なにがブランドものかを決めるプロセスというのは、なかなか複雑なものですね。メーカー名を大勢の人が知っていて、なおかつそのブランドに「高級」というイメージを持てることが条件になります。

街を歩けばありとあらゆるマーク類が視覚に飛び込んできます。でも、たくさんあるだけでは、ブランドにはなれません。また、高いものもずいぶんありますが、高いだけで誰も知らなければブランド品にはなれません。雑誌やテレビの情報、デパートの値札などの個別の情報を統合することにより、ブランドというもののイメージができあがるわけで、ずいぶんと回りくどいです。

それで、ブランド品を持っている人を、ときにはバカにしたりすることがありますが、そういう場合は「不釣り合いさ」をバカにするんだと思います。

たとえば、安物の服(何が安物かっていう定義も難しいけど)に合わせていて、ブランド品だけが浮いて見えるとか。化粧なし髪もぼさぼさで、ブランド品の雰囲気に合わないとか。若い子用のブランド品を年齢の高い人が持っているとか、その逆とか。

「釣り合いのとれたファッション」というのを、いつどこで人は学習するのか? ちょっと考えてしまいました。男の人の中には釣り合いのとれた服を考えるのがすごく苦手な人がいますが、女の人は比較的得意みたいですけど。


[1140] たまたま、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/24(Mon) 18:08

ここは「自閉症」について知りたい人が見ているから、「自閉症」のことを大手を振って書いているけれど、日常の生活では「じへいしょう」の「じ」の字も言えない。
ここは、需要と供給の供給側に立てる数少ない場所のひとつであるということです。普段は、もっと謙虚に生きてます。


[1139] ああああ! ごめんね!>フリーラジカルさん 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/24(Mon) 17:35

私がね、自分の診断や告知のタイミングの良さを思うと申し訳なくて自傷したくなって来るっていうのは、特定の誰に対して、とかいう感覚ではなかったんです。

世界中の、いろんな障害の診断や告知のタイミングがアンラッキーだった人たち(本人、親、両方)、あるいは、親しい人との別れのありかた(進みかた)がアンラッキーだった人たち(たとえば、たまたま喧嘩して送り出したのが最後の別れになってしまった人とか)、いや、人に対してというよりも、「そういうものでしかない世界に生きている」という気分が痛くて。そのまんま「こんな世界に居たくないー」という感覚です。

「自分がたまたまラッキーですり抜けてさえ、まだこの程度」っていう世界、っていうんでしょうか。

私はアスペルガーに生まれたことで、よぶんの苦労もしましたが、でも、非自閉に生まれていたとしても、楽に暮らせたはずはないんですよね。この世の中では山ほどの非自閉の人たちが、職場でいじめられたり、親を介護したり、家を失ったり、犯罪に遭ったり、しているわけで・・・ で、アスペルガーだからって別の種類のしんどさが避けて通ってくれるはずはないんだし、何かあったときの行動力とか対応力とかは低いんだろうなあ、と思うと、今、たまたま何とかやっていけているのは、本当にたまたまなんだなあ、なんて考えていたのでした。

私も今ちょっと、落ち込みモードなのだと思います。だけど、平常時はともかく、自閉スペクトルの人々って、非常時に弱い人が多そうな気がするんですよ。毎日のルーティンが崩されたらどうなるんだ、とか。災害で避難所に移ることになったりしたら、私なんか即アウトだと思うんです。そこまで行かなくたって、夫の転勤で転居とか、冠婚葬祭とか、相続とか、そういう場合にはたちまち弱さが露呈するんですよね。何か、自分が毎日生活できている、基盤の弱さのようなものに目が向いてしまって、「こんな世界に生まれてきても生き残れるかどうか自信ないよー状態」なんです。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1138] 結局、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/24(Mon) 17:02

自分の伝えたい中身がわからない、コミュニケーションの枠組みそのものがわからない、という状態がまず先にあるんですよね。

で、中身がわからないから、わからないなりに、言葉の発達もそれに合わせて遅れる子どもたちがいる。

この場合、遅れている部分の発達が進んでいって、伝えるってことはどういうことか、とか、コミュニケーションとは何か、とか、自分は何を伝えたいのか、とかがわかってくると、言葉もそれに合わせて出て来たりする。

ただ、聞こえに問題があったり、知的な障害も重なっていたり、純粋に道具としての言語を操作するテクニックに問題があったりすると、「言いたいことはあるし、言えばいいってことがわかっているのにしゃべれない」状態になって、本人ももどかしくて、苦しいでしょう。

その逆の状態が、「コミュニケーションとは何か」「何のために言語を発するのか」「そもそも自分には言いたいことなどあるのか」がわからないままに、オモチャとしての言語を操作する能力だけが異様に発達してしまうと、「たまたま知っているから、別に言いたくもないことを発音する」状態になります。これがデタラメ語なら無害だったであろうに、なまじ意味のある言葉であるだけに、周囲には通じてしまい(意味がわかっていないのは、発した本人だけ)、本気でそう思っているかのような前提で扱われてしまいます。そして、まさか自分の発音した音列にその原因があるとは思ってもみないので、「させられ感」がつのっていくことになります。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1137] Re[1134]: つまり、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/24(Mon) 16:55

> 何を、どの順番で知るか、という、順番の運不運ってあるなあと思います。
>
> なんだか、私はめちゃくちゃラッキーというか、一人だけ恵まれていたみたいで、申し訳なくて自傷したくなってきます・・・・・・。

ごめん。私自身の体験の順番はリンコさんと同じなの。
このところ、風邪をこじらせて気管支炎だったのと、仕事が超多忙だったので(←誰にも分からないから、誰も言い訳してくれないから、自分でします。)時間の記憶がおかしくなって昔のことを追体験してたの。

とにかく、今、私はとても怒ってて疲れてて、何も考えることができない。今日も何度も気を失いかけたし。
しばらくネット上から消えます。
ごめん。リンコさんが自傷する必要はないんだから。


[1136] オウム返し、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/24(Mon) 16:42

というと「困ったこと」だと思っている人がいるかも知れないけれど、オウム返しが出来るというのは「何かを聞かれている・何かを答えなければならない、けれどどうしていいかわからないから、とりあえず真似しておけばいい」という戦略なので、実はコミュニケーション能力の素地があるっていうことなのです。
それに、その答え方はおかしいというので直される。直されてもすぐには分からないけれど、バランスが悪くて遅れていた脳の機能が追い付いて来ると分かるようになってくる。そうしてだんだん会話が出来るようになって、何となく何とかなって行く。
そうして、使える戦略が増えて行く。でも、もともとの「自閉」状態というのは実質上それほど変わりはないので、良く分からずに使っている場合が多かったりします。そして、実は自分が人の「感情」について「共感」性に欠けていたり「気持ち」の遣り取りが出来ていないことを、後になって「予想外の結果」を突き付けられるという形で思い知ることになってしまいます。

そんな風にして上辺だけ適応してしまうよりは、「できない→できる」に順当に成長して行った方が本当は正直で、理に叶っているのだと思います。
でも、早くしゃべった方がいいとか、早く身の周りのことが出来るようになった方がいいとかいう尺度しかないと、本人の取り残され感だけが残ってしまうような気がします。


[1135] 自衛のための知識 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/24(Mon) 16:34

とばっちりからの自衛、ですね、要は。

たとえば、「市民運動とか、反対運動とかいうものに参加すると、偽善者と見られることになっている」とか。

あるいは、「犯罪者(加害者)の得になるようなことを主張すると、犯罪者の味方をするのか、と言われることになっている」とか。

「ブランド物のバッグを持つと、そういうものを好むタイプの人と見られる」とか。

「ブランド物のバッグのニセモノを持っていると、憧れながら我慢している人と見られてしまう」とか。

そういうことの一切合財を、知らずに生きて行くのは、それも、見かけは健常者だから健常者枠で生きて行くのは、なかなかメンドクサイ。別に文句は言わないけどさ。

何かの反対運動なんて、反対しているからするんだ、としか思ったことがなかった。反対していて、たまたま時間にも恵まれているからやってみよう、としか思わなかった。

ある立場の人たちを「支援する」ようなことをすると、偽善的と思われてしまうことも、考えることができなかった。今はとりあえず、偽善的と思う人と思わない人と両方いて、それぞれに違うタイプの人たちなんだろう(アトランダムに反応しているわけではなく、その人たちの内部にはそれぞれ、そういう価値判断の原理が何かあるのだろう)ということまでは、わかるようになった。

ほかにも、中途半端に学んだことは、いろいろある。

たとえば、「流行なんかを気にしない人」であろうと思ったら、知らずに流行の服を着たりしてはいけないらしい。でも、知らずに流行の服を着ることがないようにするためには、今なにが流行しているかを知っていなくては無理でしょ? 流行のものってのはあふれ返るから流行なんであって、とにかく最盛期には安いものがそこらじゅうに出回るんですよね。「手に入りやすい物」を買ったらそれだけで、知らずに流行の品を身につけることになるわけだ。本当に流行を気にしない人ってのは、かえって知らずに流行のモノを身につけたりするものだと思うんだがなー。

でも私はその昔、そういう事故があるたびに、思いっきり笑い物にされたことがあったけど、あれは「みんなに憧れてすり寄った」と解釈されたせいなんだな、と最近になってやっと解釈ができた。20年くらいも前の話なんだけども、謎が解けるってのはやはりそれなりにおもしろいものであって、出かかったまま止まっていたクシャミが20年ぶりに出たようなスッキリ感と、知的好奇心の満足が同時に味わえます。あれは、すり寄ったと思われたからだったんだー。みんな、自分たちの優越性を確認していたのかー。ぬー。奥が深い。深すぎ。

母もブランド物なんかに無頓着な人だったので、やっぱりありましたね、オリジナルの存在自体を知らずに有名ブランドのパチモンのバッグを「安いし、デザインがありふれていて目立ちすぎないから」と言って買って、海外旅行に持って行ったら金持ちと間違えられて狙われそうになったり、日本では陰で笑い物にされたり。

私も今では著作権と関係のある仕事をしているから、知らずにパチモンバッグなんか持っていたら「知的所有権の意識の乏しい人」という解釈をされるのかもしれない。でもそういう解釈をした人がいたら、陰でこそこそ言わずに私に直接教えてくれたら有難いなあ! だって、かばん買いに行くのに、有名ブランド品のパチモンを避けるため、有名ブランド品のデザインを全部調べ上げていく暇など、こちらにはないのだ!

結局のところ、私は、偽善者と思われたくないとか、流行を追いかける人と思われたくないとかいうのではなくて、そういう人だと思われたがゆえに、トバッチリとして身に覚えのない攻撃をされるのが面倒なのです。

そういう攻撃はたいてい、比較的無害なものだったとあとになってやっとわかるのですが、意味の解釈がすぐにはできないから、意味がわかるまでの間は、必要以上の用心をすることになって、非常に疲れるんですよ。「なんだ、大したもんじゃなかった」とわかって肩の力を抜くためには、一応、何だったのか特定する必要がありますからね。

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[1134] つまり、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/24(Mon) 14:12

私のときは、たまたま、自分の「わからなさ」を知る前に、ひどく絶望してたんですよね。だから、「なんだ、自分がわからないだけだったんだ」というのは、かえって救いになっちゃった。

何を、どの順番で知るか、という、順番の運不運ってあるなあと思います。

なんだか、私はめちゃくちゃラッキーというか、一人だけ恵まれていたみたいで、申し訳なくて自傷したくなってきます・・・・・・。

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[1133] ポツンと放り込まれた感じ 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/24(Mon) 13:41

私は、「原因が自分の読み取り能力の方にある」って知る前に、あちこち寄り道をして、さんざんうんざりしていたので、比較的大丈夫でした。

最初は、みんながいろいろやりとりしていることさえ知らなかったから、自分が違反してても気づかなかった。

次は、みんなもときどきは努力して嘘のやりとりをしているのを知って(気を使ったり、ゴマを擦ったり、とりあえず場を収めて話をさっさと流したり)、大変だ、自分にはできないと落ち込んだ。そういう努力をしているのは「ときどき」であって、ふだんは、自然に普通の交流もしているというのはこれっぽっちも知らなくて、例外だけを見ていた。基礎の部分は見えないで、例外部分だけ見るからアトランダムに見えて、よけい難しそうに見えたんだよ。

基礎の部分を知らないまま、例外部分を「嘘っぽい、ニセモノだ」と思った。そして、自分が「できない」のだとは知らず、自分が正直なのは徳が高いからだと思って優越感に浸っていた。

そのうち、人の行動を時間の流れの中で見ることを覚えた。「最初のうちはこう言っておいて、こんな感じのときはこう言って、」というように、時間の流れの中で使い分けている人がいることを知った。人の意欲を持続させたり、相手の精神状態が時間とともに移り変わっていくのを邪魔しないようにしたり、という目的で(たとえば、子どもが何かに熱中しているのを見て、きっとブームは長く続かないんだろうなあとわかってはいても、せっかく楽しんでいるんだからと思って「どうせすぐ飽きるくせに」とは敢えて言わない、など)。相手の今いる段階に合わせた言葉をかけるのは、嘘とは言わないのかもしれない、などと思うようになった。あるいは、ストレスで完全につぶれている相手と、まだまだがんばれそうな相手とで、言葉を使い分けるのは、嘘とは言わないのかもしれないと思うようになった。要は、相手に役に立てばいい、という言葉の使い方があるらしいと知った。

基本にある、自然な感情の動きについては、それからあと、本で調べた。今度は良いとも悪いとも思わず、「たくさんあって大変そうだなあ。めんどくさいなあ」と思った。大変そうだと感じるのは、私にその動きが自然には具わってないからだとは気づかず、みんながこんな大変なことをしているのかぁと思った(自然に起きているものだとはまだ知らなかった)。これから死ぬまで何10年、ずっと重荷が続くのかなあなんて、悲観的なことも思った。

それから、自分にはそれが自然にはわからないんだと知らされた。

ということは、他の人たちが全員、そんなにひどい重荷を一生背負っていくわけでもないのかあと知って、この世の中はそう捨てたものでもないかと思った。そして、全部自然にわかるようにならなくてもいいや、頭でおぼえるだけでいいにしとこう、と思えたから、課題が減った気がした。




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[1132] Re[1129][1128][1127]: 報復 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/24(Mon) 12:39

また訂正。言葉の正確な意味から言ったら、私の反撃は「防御」でした。いや、「逃避」かも知れない。


[1131] Re[1130]: そうだけど 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/24(Mon) 12:35

あるある。それはしょっちゅう。
訳が分かんなくてトボキョ〜ンだよ。


[1130] そうだけど 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/24(Mon) 12:14

こっちがフツーにしていたのを攻撃かと勘違いする人はいるよ。だから、攻撃しなくても報復はされることがある。

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[1129] Re[1128][1127]: 報復 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/24(Mon) 06:24

あ、言葉の正確な意味から言ったら、私が受けて認識できなかったのは、「報復」ではなくて「攻撃」のほうでした。報復は、攻撃に対する応酬ですもんね。(私が自分から攻撃はしません。するのは反撃です。)


[1128] Re[1127]: 報復 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/24(Mon) 06:12

以下、英国の認知学者チャルマースの論文からの抜粋です。
「白黒の世界しか経験したことのない神経科学者がいるとしよう。彼女は、色を見たときに脳がどのようにその情報を処理するかを完全に理解している。しかし、彼女には、色を見るとはどういう感じなのかを知ることはできない。この話は、脳の仕組みを理解しても、意識の経験を説明するには十分ではないことを示唆している。」

誉められたり贈り物をされたときに、言葉や行為に、それが持つ本来の意味以上の「気持」があることを生来的に知っている人と、言葉で説明されないと分からない私とでは、視覚の健常者(←何て言うんでしょう?)と、この「白黒しか分からない神経科学者」とほどの違いがあるんでしょうね?

正直、がっくり来てます。
と、同時にものすごく怖いです。
言葉もしきたりも違う土地に一人ポツンと放り込まれた感じです。
みんな何を話しているんでしょう?


[1127] 報復 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/24(Mon) 05:53

昨日、報復という欲求についてリンコさんが書かれていたので、ハッとしました。「報復」という言葉は知っていても、誰かに報復したい、とはどういうことか、全く分かってなかったんです、私。

だから誰かに報復されても、「報復されている」ということすら、認識できなかったんです。はあ〜、すごく怖くなってきました。怖くてたまらない。


[1126] お久しぶりです 投稿者:カンガー 投稿日:2000/07/23(Sun) 22:58

こちらの掲示板は毎日見させていただいていますが、少しでも娘を理解するためにと、かなり必死に読ませていただいています。

質問したいこと、ないといったらうそになります。
だけど、なんでもかんでも、聞いてはいけないことが、ようやく鈍い私にもわかってきたところです。
このBBSがドラマと共に終わってしまうかもしれないと思っていた頃は、何となく皆さんの意見をきける機会をもう失ってしまうと焦ってしまって、とくにLingko さんには嫌な思いをさせてしまったことでしょう。
お詫びします。

如月さんのお言葉。
>何かを聞ける人の後ろには、聞きたいけれども言葉にできないような人が必ずいるような気がして、聞いた人よりも、もしかしたらいるかもしれない知りたいけれども声を持たない人に対して、 自分にわかる事ならば教えてあげたい気持ちが強くあります。

絶対に、間違いなく、声を持たない人がたくさんたくさんいます。
どうか今後もよろしくお願いします。


[1125] Re[1110]: ところで、 投稿者:如月 投稿日:2000/07/23(Sun) 20:05

> こういう場所で「○○はできますか?」「○○はわかりますか?」といった質問をされる場合、既にそれまでにヨモヤマバナシの交換をしていた相手にきかれたときはそれほどでもないのに、新しく登場されたかたの、初の書き込みが大きな質問だったりすると、私はどうも悲しくなってしまうらしいってことに気づいたんですが、どうしてなのでしょうね。

 私は初めての人と名前を知っている人の区別は全然しません。仮に名前を知っている人であっても、過去にこんな書き込みをしていたとの記憶と質問との間に何か有機的な繋がりを認めるのはなかなか難しく、的外れな推理(邪推)に終わってしまう場合が多いので、あまり気にしません。
道を聞かれて、知っていれば教えてあげるというぐらいの感覚です。
それに何かを聞ける人の後ろには、聞きたいけれども言葉にできないような人が必ずいるような気がして、聞いた人よりも、もしかしたらいるかもしれない知りたいけれども声を持たない人に対して、自分にわかる事ならば教えてあげたい気持ちが強くあります。

私が嫌だなと思うのは、真剣さに欠ける不真面目な態度を感じた場合です。この掲示板ではその不真面目さを感じた事はありませんが、別の場所では何て不真面目なものの書き方をするのだろう、と思ったことがあります。
何かを達成する能力に関しては、生まれつきの個人差による違いがどうしても存在するので、精一杯やったのであればどんな結果に対してでも胸を張っていいと思っています。それに胸を張れるかどうかの判断は、その人にしかできないものです。
但し真面目と不真面目は、ほぼ全てが本人の心構えや努力にかかるものなので、不真面目である責任は全てその人にあると考えています。だから、不真面目さを感じてしまう場合には、ムカッときます。
でも冷静によくよく考えてみると、一度や二度ぐらいだとムカッとくるだけで怒る所まではいきません。三度目ぐらいになると終にプッツンしてしまい、ここまで我慢したのにもう許せんと、それまでの三回分を運悪く三度目に当たった人に全部ぶつけてしまいます。
周りの人の目には、それまで何もなかったのに突然凄まじく怒り出したと見えるようです。本人は、「ここまで我慢したのだから爆発しても当然だ、正当防衛だ」と思っているので周囲の認識との落差には、かなりのものがあります。
分析したところで何の役にも立ちませんが、おとなしいようで突然烈火の如く怒り出す理由は、たぶんこのせいです。でもこれは自閉スペクトルに関係するのではなく、ひとまず何でも我慢してしまう個人的な性格によるものだろうと思っています。


[1124] Re[1123]: 私ね、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/23(Sun) 14:02

> 「自分の知らない人を殺した人に報復したい」という欲求が薄いらしい。

報復?
そういう欲求が普通の人にあるんでしょうか?それすら知りませんでした。私にはその欲求、薄いどころか、全くありません。

ただね、本来その人が守るべき、というか、守ることを(言い方悪いけど)売り物にしている対象を、その人自身が侮っていたりした場合、私はむちゃくちゃ怒ります。

私の好きな写真家に吉田ルイ子さんという方がいます。彼女は主に米国が活動拠点(今もそう?)なんですが、かつて米国人白人男性と結婚されていて、その人と破綻したイキサツを話してくれました。その男性は黒人に対する差別をなくさせようとする運動家だったそうです。ところが、ある日、ハーレムで暴動が起きたときに、その彼の車が巻き添えになってボロボロになってしまいました。そのときに彼が吐いたセリフは
「Shit! Stupid niggers!」
(くそ!バカな黒んぼどもめ!)だったそうです。
これが、どうしても克服できない大きな心の中のしこりになった、と彼女は言っていました。

私もニュースではなかなか、悲しんだり怒ったりはしないけど、
最近の事件で本当に怒れたのは、例の、血液製剤認可の事件でした。
あの先生は最初からあの製剤の危険性を知っていたんでしょう?
彼が何故、あの製剤の認可を押し通してしまったかを一言で言うと、最初に「安全だ」と判断してしまった自分のプライドを、患者の命より優先させたかったからでしょう?途中何度も側近の医師たちから危険性を指摘されたのに!!
「もしかしたら自分が間違っていたかも知れない」という自分の意識を自分のプライドを守るために自分で欺いていたんでしょう!!何という醜い、自己中心的な自己欺瞞でしょうか!!本来、医師として自分が守るべきものを彼は侮っていたんですから。


[1123] 私ね、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/23(Sun) 13:12

「自分の知らない人を殺した人に報復したい」という欲求が薄いらしい。だから、刑罰とかに関しても、燃えないんだと思う。

類似の犯罪を抑止する目的で刑罰を科すのであれば、類似の犯罪を行ないそうな可能性のある人たちに対して、現実的に抑止力があるかどうか? ということしか、考えることができない。

だからついつい、「損得勘定ぬきで殺人をする人は、量刑の損得勘定はやはり考えないでしょう、と思ってしまうし、カッとなった勢いで殺人をして、済んじゃってからシマッターとかマッサオになるような人は、やっぱり先行事例の判決なんかには動かされないと思う」なんてうっかり口にしてしまって責められる。

昔、市民運動なんてものに関わっていたことがあるのだけれど(そして、「市民運動」って言うだけで、もうじゅうぶん「いやらしい人々」とか「偽善的な人々」というレッテルを貼られてしまいますよね)、それは土曜閉庁が始まろうとしているころのことで(トシがバレるな〜)、私は、土曜日は刑務所や拘置所の被拘禁者の面会ができなくなるっていうのに反対していたのでした。将来の社会復帰のためには、外界との接点を失わないほうが良いわけで、そのためには面会は便利な方がいいから、面会にくる家族が休みやすい土曜日は開けておいた方が良いはずだ! というロボット的な論理で反対運動に参加したのでした。負けたけどさ。

で、そういう運動に賛同しているっていうこと自体、ものすごくスキャンダラスなことだったらしく、身内に(特に母に)知れると、「人殺しの味方をするやつ」「私だっていつあんたに殺されるかわからないわね」と責められたものでした。同級生などにも、「将来、自分が入る場合に備えて準備をしてるってわけ?」と言われた覚えがあります。

で、異常なのは私の方なんだろうなーと思いながらも、それでも私は自分の立場を捨てることができなくて、「おかしいのなら、おかしくてもいいよ。おかしいままでいたいよ」と思い始めたのがちょうどそのころだったんですよね。

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[1122] Re[1121]: 罪は憎んで人は憎まず、ね 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/23(Sun) 12:56

> 私はねー、殺人事件とかの報道に接しても、腹が立たなくて、よく母に「冷たい子ね」とか「人殺しの味方する気?」とか「あんたも大きくなったら平気で人を殺したりするようになるんでしょ」とか言われてきました。だから、母と一緒にニュースを見るのは苦手だったな。

私は、それで毎日母と喧嘩になりました。


> いや、殺された人が、身内とか知り合いとかだったら、悲しいはずなんです。悲しいっていうのとは違うか、くちおしいとか切ないとかいろいろあると思うのですが、それを、「知らない人」にまでやっていたら身が保たない、って思っちゃうんですよね。

誰であろうと、殺される正当な理由があると知ったら納得してしまうので、「何故悲しむのか?」なんて言っていたんだから、毎日喧嘩になったのも無理はなかったと今にして思います。


> 加害者の側が、何か事前にサインを出したり、「止めてほしい」というメッセージを発したりしていて、それに気がついた人がいたのに無視された、とかいった事情を知ったりすると、たまらなく悲しくなります。

私は、こういう人を育ててしまった社会の責任とか、親の育て方の失敗というような社会心理学・教育心理学・発達心理学の問題を考えます。或いは、だんだん様子がおかしくなった行ったはずなのに適切な処置が出来なかったことを悔しく思います。


> で、私はどこで怒るかっていうと、
> ところが、「予算」とか「人事」とかに対しては何か怒ってしまうね。

というところでは、私は怒らない。


> 「防げたかもしれないその道のプロ」の人数

が少ないこと、「防ぐ方法」をみんなが知らないという事実に対して怒って、それから悲しくなります。


[1121] 罪は憎んで人は憎まず、ね 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/23(Sun) 12:37

それは良くわかります。

私はねー、殺人事件とかの報道に接しても、腹が立たなくて、よく母に「冷たい子ね」とか「人殺しの味方する気?」とか「あんたも大きくなったら平気で人を殺したりするようになるんでしょ」とか言われてきました。だから、母と一緒にニュースを見るのは苦手だったな。

いや、殺された人が、身内とか知り合いとかだったら、悲しいはずなんです。悲しいっていうのとは違うか、くちおしいとか切ないとかいろいろあると思うのですが、それを、「知らない人」にまでやっていたら身が保たない、って思っちゃうんですよね。

ワードショーなんかだと、被害者が就職したばかりだったとか結婚を控えていたとか、趣味は何だったとか、そういう個人的な情報をたくさん流しては、視聴者に被害者を「身近な人」と感じさせようとしますよね。私、それに乗っかってわざわざ悲しい思いを増幅させられるのがイヤなんです。人が死ぬのはその人の身近の人にとっては悲しいことに決まっているんで、それを放送とか印刷とかの作為によって人工的に配達されるのはたまらない、って思うんですよね。

そして、加害者にも、思いつきでやった人と、だんだん視野狭窄になっていって「これやるしか助かる道はないんだ」みたいな誤解に自分で追いつめられて行ってやった人といるんじゃないかと思うんだけど、思いつきでやっちゃったって話よりも、だんだん視野狭窄になっていってやっちゃった話の方が、私は悲しく感じられた。

加害者の側が、何か事前にサインを出したり、「止めてほしい」というメッセージを発したりしていて、それに気がついた人がいたのに無視された、とかいった事情を知ったりすると、たまらなく悲しくなります。

特に、気がついて無視したのが、「そんなこと持ちこまれても困るであろうなあ」と思えるゆきずりのシロウトよりも、一応はその道のプロだろうがって思える人だった場合の方が、より悲しいと思う。

で、私はどこで怒るかっていうと、

「防げたかもしれないその道のプロ」の人数を増やしたり、力量を上げたりするための予算増を却下されたら、怒る。きっと怒る。ものすごく怒る。

たぶん私は、個人に対してはあんまり怒らないんだ。公人であろうと私人であろうと。そして、個人の力量不足に対しては、怒る気になれない。

ところが、「予算」とか「人事」とかに対しては何か怒ってしまうね。

こういう私は、冷たいのかもしれない。だけど、平気で人を殺すようようにはなりませんでしたよ>おかあさん

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[1120] Re[1117][1114]: いろいろ考えたけど、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/23(Sun) 06:40

まろんさん、リンコさんはあ〜言っておられますが(←何かヘンな言い方?)、私は完全なゼロ人間、オートマトンなので、「情報ソース」で結構、「回答マシン」で結構、です。

リンコさん、あなたこそいいな〜。私も早く、ゼロから0.5くらいにはなりたいよ。


[1119] 感情のすり替わり 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/23(Sun) 06:16

私の感情のすり替わりは、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の逆バージョンみたいな、「罪は憎んでも人は憎まず」とは違うんです。そんな倫理的・理性的なものじゃなくて、純粋に生理的なもの。

小さなレベルの怒りだったら、有効に感じることができる。
大きなレベルの怒りでも、パターンが頭の中に定着してて、「これを認識する→怒る」みたいな回路が設定されていると、怒りを感じることができる。
だから、車に乗っているときに前の車からタバコが捨てられるのを目撃するたびに、それこそ反射的に「ウ〜、ワウ!」と怒るので、家人は私のことを「火消しイヌみたい」と笑う。(注:火消しイヌとは、前にTV番組で見たものです。火のついたタバコが捨てられるのを目撃すると、走っていって足で火をもみ消すように訓練されたイヌでした。完全にロボットのような反射の仕方でした。)
「怒りを感じられるのは、ここちよいなあ〜」と思える瞬間です。

私の感情のすり替わりが起きるのは、大きな感情の場合です。
悲しみも、怒りも、大きすぎると、それこそ過電流を遮断するブレーカのように、バチッと音が聞こえるぐらいに遮断してしまう。生理的な危険を感じるんです。まさしく、「キレ」そうになる。前にも書いたけど、この「キレ」るのは間違いなく本当にニューロン・ネットワークが切断されてしまう現象だと思うんです。人格崩壊になってしまうのをギリギリで遮断しているんだと思うんです。

映画「レイン・マン」で最後の方で、バスタブに写真を落としたことで子供のころがフラッシュ・バックし、ダスティン・ホフマン演じる主人公が泣き出すシーンがありましたよね。あの、ヒーヒーいう泣き方は、激怒したときの私とそっくりです。

強い悲しみや怒りは、私の脳にとって過負荷なんでしょう。
それとも強い悲しみや怒りの電圧が、普通の人に比べてはるかに高いのかも知れない。
私にとって感情は、村上京子さんの言葉を借りれば、「檻のなかの獰猛なトラ」です。麻酔銃を打ち続けて眠らせておかないと危険なんです。


[1118] Re[1114]: いろいろ考えたけど、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/23(Sun) 05:38

リンコさんが「怒れるからいいな〜」って書いていたので反射的に「いいだろ〜」って書こうとしたけど、これじゃあまりに能がないというか、例によって「行動のルール」に従ってるままなのでやめました。

「怒れない」っていうのは、前にも話題になったよね。
私、有効な怒り方はめったにできないよ〜。

思うに、「怒る」というのはとても多義的に使われるんですよね。
「怒る」という一言を段階的に分解して考えると、
1. 「怒り」を伝えるニューロンが発火する。
2. セルフ・モニタリング機能を介して、「怒りつつある自分」「怒っている自分」を認識する。
3. 自分の「怒り」を言葉や行動で相手に伝える。
になると思うんだけど。
普通の人はこんな段階を感じずに、滑らかに怒れるんだよね。
でも私の場合、セルフ・モニタリング機能がぶっ壊れてる。
全く働かなかない場合が多い。たまに働くと、今度は過剰に働きすぎてしまって「おお、私ってすごく怒ってるう〜。すごい!」と感動してしまい、怒りのパワーが半減してしまう。

自分の感情を「その場で」直観的に感じ取ることができない、というのは本当に情けない。後になってから、場合によっては数ヶ月たってから、理詰めで、「あ〜、私はあのとき、怒ってたんだ〜」とかなる。
情けない限りです。

これは外から見たら本当に「バカ」としか見えない。
中学の時、いじめで頭から牛乳かけられたときも、ボーッとしてたんだもの。
 自分の子供には、不当なことをされたら、お芝居でもいいから、「怒り」の感情を相手に伝えることだけは、教えておきたい。


[1117] Re[1114]: いろいろ考えたけど、 投稿者:まろん 投稿日:2000/07/23(Sun) 02:21

誰に向けてということではないとLingkoさんは書いてくれたけど、私は思い当たる節があるので、本当に申し訳なかったと思いました。私の無神経な質問に、きっと、つらい思いをおして答えてくださってたんですね。ごめんなさい。でも、あのとき、私は切羽詰っていたので、みなさんがいろいろとアドバイスしてくださって、とても、救われたのでした。感謝しています。

どんなにすぐれた専門家よりも、療育者よりも、ここにいらっしゃるみなさんの言葉をききたいというのは、悩める親としては正直な気持ちです。なので、情報ソースという言葉に一瞬ぎくりとはしましたが、この言葉はこの掲示板に対する私の思いとは、かけ離れていると心から言うことができます、、、。


[1116] Re[1103][1099]: 無題 投稿者:まろん 投稿日:2000/07/23(Sun) 01:51


> あ〜、まろんさん、ちょっと待って下さいよ。
> 私、イイカッコし過ぎたみたいですね。違う違う。「自閉症者はピュアだ。」っていう夢を壊すようで申し訳ないけど、私は邪推、計算、根回し、しますよ〜。妬みの感情はまだ発達してないみたいだけど、遅いだけでこれから出てくるのでしょう。

はぁ、やっぱりそうなんですか。私も言いたいこととはちょっとずれてるような気がしながら、つい、きれいに書きすぎてしまいました。
「自閉症者はピュアだ。」なんて、もちろん、思ってないです。私の重度の娘ですら、自分の欲望を満たす為には、嘘をつきますから。(でも、たぶん、嘘という概念はなくて、手段のひとつだと思っているのでしょう)

私も娘をみていて、もともとの性格ということをよく考えます。娘の場合は、自閉症という障害のほかに、知的障害もくわわっているので、ますます判断がつきにくいのですが、、、。


[1115] あ。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/22(Sat) 22:24

かんじんのシメを忘れたー(笑)

つまりー、「こういう状況では答えたくないな」と思っていても、社会的に(子どもたちの生活の質に関わることだから)も、生理的に(頭から情報を追い出したり、気持ちを切り替えたりする力がないから)も、答えないわけにはいかない。

それが悲しいのだと思います。自分の中の矛盾だから、怒るとこじゃないんだよね、やっぱり。

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[1114] いろいろ考えたけど、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/22(Sat) 22:17

私はどうも「怒る」力が弱い。というか、基礎能力が欠けているみたいだ。いいなー、ペンギンさんもフリーラジカルさんも怒れるんだね。私もがんばって練習しようっと!

さて、初登場の人に「大きな質問」(直前の書き込みの中の用語の間違いや説明不足など、表現面に関する質問ではなく、実質的な質問。あるいは、よく考えなくては答えられない質問のこと)をされて悲しくなるのは、その人とまだ「ヨモヤマバナシ」をした実績がないため、どこからかいきなり現れて突然質問されたような気がするからでしょう。

その場合、質問者の意識として、「Lingkoでもペンギンさんでもフリーラジカルさんでも如月さんでもかまわない」、つまり、「連邦市民であれば誰でも構わないから教えて」的な姿勢をかぎ取ってしまうため、「全く別の個性である人々と入れ替え可能な存在として扱われた」気がしてしまうからでしょう。

もう一つは、相手の方が初登場である場合(特に、自己紹介と質問文が同一発言の中に書き込まれている場合)、その方が初めてたどり着かれたのか、ずっとROMしておられたのかの区別が私にはつきません。ですから、もしかしたらこの掲示板そのものを、「ドラマをネタにしてみんなで集まっている場所」ではなく、「本人が大勢いる場所」として見られているんじゃないだろうかとまで思えてしまうのです。どこかで、「あそこに行けば、本人がたくさんいるから、誰か答えてくれるかもよ。あそこ行ってきいてみたら?」という紹介をしている人がいるんじゃないだろうか? などなど、想像したらきりがありません。

そんなわけで、自分が「同じ掲示板につどう仲間」として見られているのか、「情報ソースのひとり」として見られているのか、それがわからなくなってしまうことがあります。

ところが、個人のレベルでは「仲間としてではなく、単なる情報ソースあるいは回答マシンとして求められているのなら答えたくないなあ」とは思っていても、私は二つの理由から、その姿勢をつらぬくことができません。

一つは、私たちや、私たちの若い仲間たち、幼い仲間たちのことは、あまりにも知られていない。情報が足りなすぎる。子どもたちの待遇改善のためだったら、意に添わない質問のされかたであっても、せっかく質問してくれたのだから機会を逃すのは惜しい。この機会を逃したら、説明できる機会など、この次いつ巡り合うかわからない。特に、質問者にも子どもさんがいると思うと、その子のためには答えないわけにはいかない。そう思ってしまうからです。

もう一つは、質問を見てしまうと、頭の中で「そういえばなぜだろう」と考え始めてしまいます。1071で書いたとおり、これを文字にして吐き出してしまうまでは、私は自分の時間を自分の自由に使うことができないのです。晩ご飯を作らなくてはならない、仕事も遅れている、洗濯もしたい・・・ そう思うと、30分でも、5分でも早く、答えを書いてすっきりしてしまうより他、ないのです。

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[1113] Re[1110]: ところで、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/22(Sat) 21:35

> 新しく登場されたかたの、初の書き込みが大きな質問だったりすると、私はどうも悲しくなってしまうらしいってことに気づいたんですが、どうしてなのでしょうね。

でも、私は「事実に反している」とか「情報が正確でない」ことに対しては怒るけれど、「事実に反したことを言っている人」や「正確でない情報を語っている人」を見ると悲しくなる。
これは「感情」のすりかわりではなく、そういう「感情」を確実に持っているのだと思う。


[1112] いや〜、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/22(Sat) 21:14

真相はわからないけど、私はとっても機械的に単純よ。奥深い意識の流れがあるとかいうより、単にキーワードが盲点に入っちゃってるだけっぽいふんいき。

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[1111] Re[1110]: ところで、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/22(Sat) 20:45

私だったらそれは、お得意の感情すり替わり現象なんですけど。

私の感情の図法(「縮尺が狂ったおおざっぱなメルカトル」図法です)
に従えば、
1.本当は怒っている、というか、本来なら「怒り」となって表れるべき感情が「悲しみ」にすり替わる。
または
2.初めての人という不安感と、「答えなくちゃ」という責任感?義務感?負担感?が交錯してジレンマ状態に陥り、このジレンマが悲しい。

かなあ〜。いやあ、リンコさんのことだから、もっと奥深い意識の流れがあったりして。


[1110] ところで、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/22(Sat) 17:37

特に誰に向けて、ということではなく、一般論として聞いてください。

こういう場所で「○○はできますか?」「○○はわかりますか?」といった質問をされる場合、既にそれまでにヨモヤマバナシの交換をしていた相手にきかれたときはそれほどでもないのに、新しく登場されたかたの、初の書き込みが大きな質問だったりすると、私はどうも悲しくなってしまうらしいってことに気づいたんですが、どうしてなのでしょうね。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1109] いやー、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/22(Sat) 14:12

筋道はまちがってないですよ。

何かしら必要な情報が足りないとか、まだ習得されてない概念があるために特定のバグが出るとかいうことはあっても、「先入観」によって恣意的に歪められた筋道ではない。

たとえ警戒過剰で色づけされているにしても、その警戒過剰にはたとえば本当のいじめられ体験など、現実の根拠があったり。

でも、結果として出た結論の内容が「邪悪」なものだったら、一番辛いのはそれを信じている本人ではないでしょうか。付き合わされる周囲は迷惑で辟易するでしょうけどね。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1108] あれ? 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/22(Sat) 09:47

邪推の「邪」の字は「よこしまな」っていう意味?
確かに推論の筋道は間違っていても、その内容が「あまりにも真面目過ぎる」から、「純真」って言われるのでしょうか?


[1107] 付け足し。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/22(Sat) 09:39

> 邪推は、かえって多いくらいかもしれません。

余計なことに、ものすご〜い精神的エネルギーを使って一人芝居しているってことまで含めると、かなりの時間をこれに費やしているような気がする。


[1106] Re[1105][1103][1099]: 無題 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/22(Sat) 08:01

> だって、計算しなかったら何もできないじゃないですか。

そうそう、ほとんどのものが理論と計算です。


> 邪推は、かえって多いくらいかもしれません。

推論しても、当たっている確率が低ければ「邪推」の部類に入るでしょうから。


> 根回しは・・・ したいけどできないだけです。できたらどんなに楽だろう。

根回しをしたつもりでも、バレバレだから逆効果。それ以前に、根回しする為の「人」のネットワークの中にいないのだから。吊るし上げられる材料を自分でばらまきに行くようなものです。
「人」の心情が読めない人の根回しなんて、実際は根回し「したつもり」でしかないから、しない方がマシだと思う。(もう、コリゴリだ!)


[1105] Re[1103][1099]: 無題 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/22(Sat) 05:57

>私は邪推、計算、根回し、しますよ〜。

しますします。

だって、計算しなかったら何もできないじゃないですか。直観がないんだから。計算がなかったら、歩くことだってできません。

邪推は、かえって多いくらいかもしれません。推測の能力が弱いというか、推測するのに使える材料が乏しいと、別に邪推じゃなくても結果的に邪推になっちゃうことだってあるでしょう。フェイルセーフ、フェイルセーフ、ってお題目みたいに唱えながら、とにかく自分の身を守ろうと思っていると、何でも疑ってみるのが安全、ってことになってしまいますから。たとえば人の顔が見分けられなければ、自分をいじめた人と親切にしてくれた人も区別できませんから、とりあえず誰でも「いじめた人」と思っといた方が間違いない、ってことになっちゃいます。

中途半端に目覚めかけた「心の理論」(精度が低い)に、失敗経験や被害経験が入ってくると、素直に邪推してしまいます。

根回しは・・・ したいけどできないだけです。できたらどんなに楽だろう。単に能力がないために身を守れないでいるだけなので、下肢に障害のある子がチョロチョロと走り回らないのと同じで、本人にとってはありがたいことではありません。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1104] Re[1103][1099]: 無題 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/22(Sat) 05:37

他の人に見える「人となり(人格?)」っていうものが、自閉者の場合、
この障害+もともとの性格
なんだと思います。前に如月さんも書いてらしたように、本当の自分を破れ傘で隠してるようなものですから。全部丸見えか、人によっては角度に応じて丸見え〜、ってなとこでしょうか。

邪推、計算、根回し、・・私はします。ただ、この障害(特質)を持った自分を尺度にしてしか、他の人を計れないためか、それとも頭が悪いからなのか、いつも誤算ですが。

そして、「自閉症者は嘘をつかない」という定説(?)がありますが、あれは(特に高機能の人や、年長の人に関しては)違うと思います。現に、私の会った仲間の一人は、相手に対して反感を表現するために、わざと「見え見えの嘘」をついていました。

実は、私がこの掲示板に書き込みしているのも、「一石二鳥だ!」というしたたかな計算があるからです。何が一石二鳥かというと、キレイな方の理由は、私のバカな経験を語ることで、小さな仲間たちを親御さんたちが理解する上での参考になるんじゃないか、というのがあります。
でももう一つは、私が私を知るためなのです。
私には、自分の特徴のどこまでが自閉症によるもので、どこからが自分のもともとの性格によるものなのか、分かりません。
自分が本当はどんな人間なのか、その輪郭を焙り出したいのです。これは誰でもそうでしょう?「自分を知りたい」という願望は。
私は、実はドナさんの本もテンプルさんの本も森口さんの本もまだ読んでいません。自分にないものを「ある」ようにすり込まれたり、「偽りの記憶」を植え付けられたり、等々、誰よりも誘導されやすいタチであることを、よく知っていますから。

いろいろ計算をします。ゆっこさんが、子供さんのことを「私がかわってあげたい、とまで思っていましたが・・・」と書かれたときには、正直、「あ!しまった!」と思いました。
子供さんが将来、「ナンギ」するだろうと常日頃思っていると、何かのキッカケで子供さんに辛く当たってしまうのではないか、と思い、好材料を提供したんです。それだけは避けて欲しいから、計算ずくです。

私にとっては、この障害は対人上の誤解を生みやすい障害でもあります。
まろんさんが、「表現方法が違うんですよね」と書かれていましたが、表現方法が違うと、こうも誤解が生じやすいのか、と思います。


[1103] Re[1099]: 無題 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/22(Sat) 04:54

> 本来は、そうあるべきなんですよね。非自閉症者は隠しておかなければならない感情が多すぎるのだろうと思います。妬み、邪推、計算、根回しなどなど。

あ〜、まろんさん、ちょっと待って下さいよ。
私、イイカッコし過ぎたみたいですね。違う違う。「自閉症者はピュアだ。」っていう夢を壊すようで申し訳ないけど、私は邪推、計算、根回し、しますよ〜。妬みの感情はまだ発達してないみたいだけど、遅いだけでこれから出てくるのでしょう。

私がすっぴんでいたいのは、別に心がキレイなのではなく、別の自分になりきるために必要な精神力が足りないからだと思います。言ってるでしょ〜、シンドいって。


[1102] すっぴん 投稿者:如月 投稿日:2000/07/22(Sat) 00:44

 本当の自分でいられれば気持ちはいいだろうけれど、人それぞれ違う理由でなかなかそうはいかないものです。私の場合は、すっぴんでいると神経が露出状態なので、相手が何故だかわからないけれど触れられても痛くない特異体質の持ち主でもない限り、耐えられないようです。
カタツムリの触覚のようにちょっと触ってみて、痛みを感じれば猫でもかぶっているしかないので、本当の自分になんかなれません。
余計な自分をどんどんとリストラしていっても、最後に本当の自分と、これなら悪くないと思える自分の二つは、どうしても残ってしまいそうです。


[1101] Re[1100][1099]: 無題 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/21(Fri) 22:08

> 一匹オオカミでいきていられれば、これは、強みです。

> なぜか、というと、面子を気にしないと気にしないことに
> 腹をたてるひとが、いるからです。
> そのへんが、ややこしい。ですね。


そうねえ、学校の中では教室の隅や図書室で本を読んでいるというスタイルに救われた。会社は、自分からやめた。
でも、近所からだけは逃げられませんでした。


[1100] Re[1099]: 無題 投稿者:トルネード 投稿日:2000/07/21(Fri) 20:14

> >つまり「表面だけでも普通に応えてくれればこちらも傷つかないのに」とは、私は思わないのです。傷つかない。「クソッ!今度はもっとオモシロイの考えて笑わせてやる〜」と思っちゃう。誉めた場合も相手が嬉しそうでなければ、「あ、ツボをはずしたな。」と思うだけ。
>
> >他のひとが、面子がつぶれたといって、騒ぐことに
> 平気なところも、共感します。
>
> これって、ある意味では、「強み」ではないでしょうか。
> そのように、さらりと生きていきたいとねがう私です。
> 世の中の人みんながこのようであったら、いさかいが
> ずいぶん減る筈ですよね。

一匹オオカミでいきていられれば、これは、強みです。
が、いったん集団の中で生きていかなければならない
となると、結構大変だったりします。
だから、学校の中しかも、学級という狭い世界に
とじこめられている子どもとか、
会社の組織の真ん中にいるとか、そういう状況は
結構たいへんです。
なぜか、というと、面子を気にしないと気にしないことに
腹をたてるひとが、いるからです。
そのへんが、ややこしい。ですね。


[1099] 無題 投稿者:まろん 投稿日:2000/07/21(Fri) 07:12

>つまり「表面だけでも普通に応えてくれればこちらも傷つかないのに」とは、私は思わないのです。傷つかない。「クソッ!今度はもっとオモシロイの考えて笑わせてやる〜」と思っちゃう。誉めた場合も相手が嬉しそうでなければ、「あ、ツボをはずしたな。」と思うだけ。

>他のひとが、面子がつぶれたといって、騒ぐことに
平気なところも、共感します。

これって、ある意味では、「強み」ではないでしょうか。
そのように、さらりと生きていきたいとねがう私です。
世の中の人みんながこのようであったら、いさかいが
ずいぶん減る筈ですよね。

>本当の意味での好感情のアピール法は、「本当の自分でいること」です。

本来は、そうあるべきなんですよね。非自閉症者は隠しておかなければならない感情が多すぎるのだろうと思います。妬み、邪推、計算、根回しなどなど。

>確かに言えることは、私に係わってくる人にアンハッピーな思いはさせたくないこと。それだけです。

基本は同じ。表現方法が違うだけなんですね。


[1098] Re[1096][1094][1093]: もう、この話題は終わっちゃった? 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/20(Thu) 11:09

補足の訂正です。私の文章の中のカタマリがへんな順序になっていたので誤解を招いたかもしれませんが、

最近の私にとって本当の意味での好感情のアピール法は、「本当の自分でいること」です。こっちの段落の方につなげて考えてください。
ラケットで打たれたボールを、バットで打ち返して場外ホームラン!です。

分かってもらえなくてもいい。分かる人だけ分かってもらえば。
大根役者がヘタな演技をしているのはシンドくて、たまらないからです。


[1097] Re[1089]:[1069] ナナさんへ 投稿者:山さん 投稿日:2000/07/20(Thu) 10:51


> 実はもう2年くらい前にこれを本当に作られたお母さんを知っています。母から専門
> 家になられた方ですが…。
> 私もまねをして少し作って去年学年がかわった時に先生に渡しました。先生からは
> 好評でしたが中身は…やはり専門家の先生の様にはいきません。
> でも文章にしてみると自分の見方のおかしな所とかよくわかり今後は少しずつ手直し
> していきたいと思っています。

娘がなかよし学級に入学したときに子供の様子について書き込む用紙をもらいました。下書きのつもりで要求ばっかり書き並べてみて、子供の現状についてはよく把握できていないと思いながら結局そのまま提出してしまいました。夏休みの宿題としては大変ですが、私も少しずつこれに手を加えてみようかなと思います。
子供がまだ小さい頃通っていた療育センターでは半年に一度ぐらい子供の発達状況についてのレポートを頂けて、すごく参考になったんですけどねぇ。親の都合で引っ越して縁がなくなってしまったのがとても残念です。


[1096] Re[1094][1093]: もう、この話題は終わっちゃった? 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/20(Thu) 09:36

補足です。やっぱりくどいな〜。私。

>誉めたり、冗談を言うのは、相手に対する好感情のアピール

このような形の好感情のアピールがあるんですね。
私の好感情のアピールの仕方は少し違うと思いました。特に最近の傾向ですが。
自分にとって見当はずれなことで誉められたり、笑えない冗談を言われたり、欲しくないものを贈られても、大根役者は大根役者なりに、「応えてる」演技をするようになりました。で、なぜ大根役者なのか、考えてみました。

この演技の間中、「私は本当の自分を晒していない。私は嘘を言っている。申し訳ない。」という物凄い罪悪感が0.1ミリ秒ぐらいの間隔で思考の流れの中に割り込んでくるのです。さらに、相手の好意を無にして反感を買った過去の記憶も割り込んでくる。やはり演技に徹することができない。

そんな時に「もう嘘やお芝居は止めよう」「イヤなものはイヤと言おう」そして「お芝居をしないこと、本心をさらけ出す誠実さを選ぼう」を思い立ちました。しかしこれは失敗する場合が多いんですね。私にとってはこの「本心をさらけだすこと」の方が、お芝居をすることより、よっぽど、相手に対する誠意のアピールなのです。まろんさんの言われる「誉めたり、冗談を言うのは、相手に対する好感情のアピール」というそのアピールのボールはラケットで打ち放たれたテニス・ボールだったのに、私はそれを野球のバットで遠くに打ち返して相手に見えなくしてしまったんですよね。何だか、プレイ中のゲームが違うぞお、って感じです。

私に人に対する思い入れがあるのか、ないのか、私には分かりません。確かに言えることは、私に係わってくる人にアンハッピーな思いはさせたくないこと。それだけです。


[1095] Re[1094][1093]: もう、この話題は終わっちゃった? 投稿者:トルネード 投稿日:2000/07/20(Thu) 07:33


> もちろん、最初の会社にいたときに随分と矯正されたんですけど。「おまえは行間が分からんヤツだ。」とか、「質問じゃないのに質問に答える。」とか言われて、一生懸命、周りの人を観察して勉強しましたから。「お、頑張ってるか!」と言われて「はい、頑張ってます。」と答えたり、「やかんが空だね。」と言われて「空ですね」と答えたり、その度に「宇宙人としか思えない」と言われていました。う〜ん、確かに今思えば私自身、そのころの自分は宇宙人以外の何者でもなかったなあ、と思える。だいぶマトモになりましたから。
>

> 似たような例に、これもわたしにとって難題の「もらいもの」があります。
>
> 言葉(及び行為)が本来意味する以上の「気持のやりとり」が、非自閉の人の間にはあるんですよね。私は、自分自身がこれをしていないので、相手からされても分からなかった。
>
> はあ〜、どうりで、レストランなんかでカップルと思しき人同士の間の会話に聞き耳たてても(失礼!)、「つまらない、盛り上がらない会話してるな〜!『結論に至る』とか、『実を結ぶ』会話はできないのかね〜」としか思えなかったんですよね。
>
> あ、話題がそれちゃったかな?でも関係あると思いませんか?
> ないかな〜・・・。
>
上のレストランの話は、ひとりで、ふらふら街へでかける
事の多いわたしが、いつも感じることです。
よくも、あんなにつまらない話をえんえんとできるものだ。
と、でも、そこには、きっと何か意味があるのでしょう。
しかし、私は、つい、そんな時間があるなら、好きな事
に凝っていたいとおもってしまう。
当然、私には付き合いがすくない、、、
こんなところでしょうか。
他のひとが、面子がつぶれたといって、騒ぐことに
平気なところも、共感します。ようするに人にたいする
思い入れがすくないのだろうか?ともおもうのですが。


[1094] Re[1093]: もう、この話題は終わっちゃった? 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/20(Thu) 06:28

いえいえ、まろんさん。私は「議題打ち切り」を宣言するために、「お礼」を言ったんじゃないんです。非自閉の人からも意見をもらって、このところ(特に、この「特質」を知ってから、の意)「もしかしてそういうことじゃないのか」って思っていた点に確証が得られてすごく嬉しかったので、たまらずお礼をしたのです。

あ、ここでもやっぱり、言葉は、その言葉が持つ「意味」以上の、暗黙の「話者の意図」を意味してたんですよね。このことが日常的に、当たり前のように行われてるのに、今の今まで気付かなかったのです。

もちろん、最初の会社にいたときに随分と矯正されたんですけど。「おまえは行間が分からんヤツだ。」とか、「質問じゃないのに質問に答える。」とか言われて、一生懸命、周りの人を観察して勉強しましたから。「お、頑張ってるか!」と言われて「はい、頑張ってます。」と答えたり、「やかんが空だね。」と言われて「空ですね」と答えたり、その度に「宇宙人としか思えない」と言われていました。う〜ん、確かに今思えば私自身、そのころの自分は宇宙人以外の何者でもなかったなあ、と思える。だいぶマトモになりましたから。

でも所詮、今もパターンをなぞってるに過ぎないらしいんです。応用がきかないことから判断すると。
それは、立場を逆にしてみて気が付いたんですが。
つまり「表面だけでも普通に応えてくれればこちらも傷つかないのに」とは、私は思わないのです。傷つかない。「クソッ!今度はもっとオモシロイの考えて笑わせてやる〜」と思っちゃう。誉めた場合も相手が嬉しそうでなければ、「あ、ツボをはずしたな。」と思うだけ。

似たような例に、これもわたしにとって難題の「もらいもの」があります。
私は甘い物が苦手なのですが、「すみません、甘い物、好きじゃないので・・・」と断ると「も〜、人の気持ちを無にしてえ!そういうときは一応、嬉しそうにしてもらっとくモノだよ。」と教えてくれる人がいます。これも分からない。私が相手の立場だったら、「あ、嫌いだったのか。また私らしくも例によってツボを外したな。」と思うだけです。

言葉(及び行為)が本来意味する以上の「気持のやりとり」が、非自閉の人の間にはあるんですよね。私は、自分自身がこれをしていないので、相手からされても分からなかった。

はあ〜、どうりで、レストランなんかでカップルと思しき人同士の間の会話に聞き耳たてても(失礼!)、「つまらない、盛り上がらない会話してるな〜!『結論に至る』とか、『実を結ぶ』会話はできないのかね〜」としか思えなかったんですよね。

あ、話題がそれちゃったかな?でも関係あると思いませんか?
ないかな〜・・・。


[1093] もう、この話題は終わっちゃった? 投稿者:まろん 投稿日:2000/07/19(Wed) 21:38

ごめんなさい、非自閉症者の中でも、はじっこの方にいると意識しているので、いろいろ考えているうちに出遅れてしまいました。誉められたら、嬉しくなくても喜ばなくちゃいけないし、冗談言われたら、おかしくなくても、笑わなくちゃいけないことになっているのは、(いけないというか、そうしないと、気を悪くされてしまう)誉めたり、冗談を言うのは、相手に対する好感情のアピールだからじゃないかなと思います。こっちが好意をしめしているのに、うまくそれに応えてくれないと、やはり、失望するし、拒絶されたというふうにとってしまうのです。つまり、誉める内容とか、冗談のおもしろさとは関係なく、誉める、冗談を言うというその行為そのものを嬉しいと思ってほしいんですよね。たしかに目上の者がこれを行う場合は、相手の反応で、忠誠度をはかるということもあるかもしれませんね。それから、気を悪くしてしまうほうの心理は、まず、反応がかんばしくないことから、自分の好意がはねつけられた→自分のことが嫌い→でも、それをあからさまにすることないではないか→たとえ、表面だけでも普通に応えてくれればこちらも傷つかないのにって感じかな。でも、それで本当に怒ってしまう人っていうのは、私は押しつけがましい人だと思います。


[1092] おっと。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/19(Wed) 14:03

「誉められて喜ばないと憎まれる」の件について、みなさんいろいろと意見を寄せていただいてありがとうございました。

「嬉し〜」の一言です。繭子の母親は「繭子は私たちにとって謎」だからと言ってましたが、私にとっては周囲の人全員が謎です。だから山さんが「君教」の本を読まれて、ご自分が登場人物の心理を理解できてなかったことに「不安になりました」と書かれてたのを拝見したとき、思わず「でしょ、でしょ〜」と言いたくなりました。私はいつもそうなんだから。私のアタマの中の謎を、言葉で解明してもらったのは初めてです。

嬉しい!

問題はやっぱり、私の「演技力」だな。大根役者なんですよ。私。
「アホらし屋の鐘が鳴る」(←何、これ〜!!!爆)っていうのかな?演技をしている自分に熱中できないんですよ。いろんな思いがアタマの中で錯綜しちゃう。「演技」はやっぱり嘘だもの。
普通の人たちが(いつもではないけど)「お芝居」をしているように感じた私の感覚は正しかったんですね。

それにリンコさん、本当にありがとう。何だか私にとって大難題の「心強い」気持が少し分かってきた気がする。本当に本当にありがとう。


[1091] Re[1076][1068]: そう言えば、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/19(Wed) 13:34

ハタミホコさん、ご登場(?)ありがとうございます。
以下、風邪で熱出して寝込んでるので、ちょっと頭がボヤっとしてて、一本筋の通らない文章になったらすみません。

議論がすれ違うのは私にとっては毎度のことなんです。
前にも書いたように、この「経験したことのないことについて、想像できない」というのは、普通の人には分かってもらえない感覚なんでしょうか。自閉症者の特徴のイロハのイなのに。

ハタミホコさんのおっしゃりたかったことの主眼は、娘さんが将来、自閉症のためにいろいろできない、分からないことがあって悩んだときに、「自分はやれるだけのことはやった。恥じることは何もない」と「気持の折り合い」がつけられるか、ということでしょう?
(違うかな?)そしてその気持の折り合いをつけるために有効な「おまじない」は何か、ということでしょう?

率直に言って「自分で自分を褒めてあげたい」にはやっぱり共感(?)できません。長くなるけど、「自分はやれるだけのことはやった。恥じることは何もない」の方が私にはよっぽど分かりやすい。ただし、これまた、「恥じる」という表現は使わないでしょうけど。

気持の折り合い・・・つけられる、と私は思います。
現に、私は今、必死に「折り合い」をつけようとしている最中ですから。
私は多分、アスペというよりは「自閉症」の方にスペクトル上かなり寄っていて、ずっとトンチンカンなことばかりやっては、怒られたり、呆れられたり、笑われたりしてきました。その度に「自分を直し」てきました。で、最終的に知ったのがこの障害(特質とも言いたい)です。
ある人の言葉を借りれば「膝カックン」状態でした。「な〜んだ、今までの私の苦労はなんだったのか!!できなくても当たり前だったんだ!バッカみたい!!」

それまでのバカな苦労の貯金があまりに多くて、気持の折り合いをつけるという精算作業に時間がかかってるんです。
ちょっと前は「障害なんだから、ショウガナイ」という情けない、くだらない、クラいだじゃれを言っては自分をなぐさめていたんですけどね。ちょっとこのおまじないでは、効き目が薄いみたい。

は〜、ちょっと休憩します。




[1090] はーーー その気がなくても集中砲火 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/19(Wed) 13:05

疲れました。我ながら、何やってんだか〜 と思います。

でも、こうなっちゃう理由は、1071に書いた通りです(くうぅっ、惜しい! 1701に似ているけど違うな!)。

以前は、こんな自分は時間の使い方に計画性がなくてダメなんだと思っていました。でも、もういい。こういうふうにできている、って知ったんですから。たとえばまとまった時間が必要だとか、精神の平穏が必要だとかいう事情があるときは、自分の性質を計算に入れた上で、それを前提に対策を立てようと思います。この性質を矯め直すまで人生の本番は始まらないと思っていたら、一生を空費してしまいます。甘えとでも逃げとでも何とでも言ってください。でも私は、「汝自身を知れ」で行くことにします。見ず知らずの人に「自分に厳しい人だねえ」とほめてもらったって別に嬉しくない。そんなことのために、自分の人生を空費するのはもったいないからやめます。「片づけられない女たち」を訳したのは、そのためだったのです。

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[1089] Re:[1069] オーダーメード 山さん へ 投稿者:ナナ 投稿日:2000/07/19(Wed) 09:29

こんにちは 突然横からすいません。
少し気になっていたもので、家にもA-Typeの息子が1人います。

> 娘が通っているなかよし学級の先生から、「夏休みに自閉症について勉強したいので何
> か本を貸してください」と頼まれました。「アスペルガーの本を読んでみたのだけど、
> 娘とは少し違うようだから」と。

とても熱心な先生に恵まれてお幸せですね。

> 私に文章力があれば「娘のためのガイドブック」を書いて渡したいところだけど・・・

実はもう2年くらい前にこれを本当に作られたお母さんを知っています。母から専門
家になられた方ですが…。
私もまねをして少し作って去年学年がかわった時に先生に渡しました。先生からは
好評でしたが中身は…やはり専門家の先生の様にはいきません。
でも文章にしてみると自分の見方のおかしな所とかよくわかり今後は少しずつ手直し
していきたいと思っています。

> アメリカでは個別学習のプログラムを親と教師と専門家が一緒に作り上げていると言う
> 話を聞きます。日本でこんな事を望むのは無理なんでしょうか。

「個別教育計画」も少しずつ広がりをみせているようです。
アメリカのようにはいかなくてもできるところから始めていければいいな…と思って
います。

でも、ここ数年でどうしてこんなにA-Typeの子供達の理解が進んだのか…?実はと
ても不思議でした。
でも、ここをRomさせてもらいそれは御本人様達の発言が非常に大きい事を知りまし
た。ほんと感謝の気持ちでいっぱいです。
まだまだ未熟な親ですが、少しでも子供の良き通訳になれるようがんばっていきたい
と思っています。今後とも御指導よろしくお願い致します。

山さん、お互いに大変ですが同じ悩みを持つ親がたくさんいる…と思うのでなにより
かわいい我が子のためにがんばりましょう。


[1088] 演技から降りていられる時間 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/07/19(Wed) 01:10

自分自身が誰かの視線や注意の矢面に立たなくてはならない場面では、私はどこかしら演技しています。誰でもどこかしら演技しているのではないかなあ。
ただ四六時中演技しているわけではないです。話題があって、その話題に注意が向いている時間、相手自身のことが話題になっている時間、第三者のことを話している時間、それらの間は観察者、傍観者としてその場にいればいいのであって、演技しないですみます。
人の注意はあっちこっち転がっていくもので、自分だけに常にスポットライトがあたっているのではないのだなあ、ということが少しずつ見えてくるにつれ、そうなってきたように思います。


[1087] お粗末な人たちに規準を合わせること 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/18(Tue) 23:36

うーんと、たぶん私は警戒過剰なのでしょう。

ただ私は、誰もがそう簡単にムッとするほど、○○の穴の小さい人たちだと決めてかかっているわけではないんですよね。

自分に余裕のある人、自信のある人、満たされている人は、そう簡単に度を失ったりはしないことも知ってはいます。ただし、情報としては、です。

ところが私には、自力で相手の器量を見分ける能力はありません。

では代わりにどうするかというと、他の人がその人を陰で評価している「コトバ」を収集するわけです。もちろん「他の人たち」の判断力だって全面的に当てになるわけではありませんが、大勢の証言を収集すれば、それなりの参考にはなりそうな気がします。

でも、そこまでわからないことが多いです。ですから、「どんなにお粗末な人でも怒らせずにすみそうな対応」というのを工夫して、それをどこへでも持って行こうと考えます。

(こういう「対応」は、すべて人工的に考え、稽古する「演技」なので、仕込みには大変な労力がかかります。そのため、何パターンも用意する余裕なんてありません。だから、なるべく少ない数で間に合わせようと考えるわけです)

ただし、このような「演技」には、短所はいくつもあります。

一つは、自分の実感に基づいていないので、演技をしている間じゅう、常にウッスラと屈辱を感じています。「向こうは自然にやっているだろうに、なぜ、準備して、練習して、演技するのはこちらなんだ」という思いですね。ともすれば「ふん、アホらし屋の鐘が鳴るわ」という意識が頭をもたげそうになるところを、もぐら叩きのように叩き叩き、がんばるわけです。

もう一つ、このような演技が通用しすぎてしまった場合の、罪悪感です。私は演技をしているのに、相手が本気にして喜んでくれてしまったりすると、「だましてしまった!」「ごめんなさい」になってしまいます。このような場合は、ひそかに軽い自傷などを行なえば、その場では比較的容易に抑えこむことはできます。ただ、抑えこんだ罪悪感がどこかへ消えてなくなるわけではないので、相手と別れて一人になったとたん、激しく落ち込むこともあります。ですから、それを防ぐため、なるべく、帰りの道中用に、漫画やお気に入りの本など、ただちに夢中になれるような素材を用意しておき、相手と別れたら間髪を入れずとり出して読むように心がけています。そして、家に着いたら、すぐに郵便をとり込んで読むか、メールをチェックするなどして、急いで意識を次の場面に流してしまいます。

そしてさらに、「どんなお粗末な人でも大丈夫な対応」を誰に対してもすることによって、「相手を、お粗末な人並みに扱ってしまった」という申し訳なさも生じます。これは特に、「もしかしたらこの人は、そう簡単に怒ったりしない、できた人である可能性もあるなあ」と思ったときに起こります。対応策は、ほぼ上と同じです。

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[1086] あ、でもね 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/07/18(Tue) 22:48

「非自閉者の中に、私たちとは別の理由から、相手の期待するような反応をしない人たちがいるからではないでしょうか。」というLingkoさんの仮説は、たぶんその通りでしょう。とばっちりを受けてしまうわけですよね。

「期待通りでない反応」が返ってきたからといって原因を相手だけに押しつけてけなすっていうのは(フリーラジカルさんの高校の先生みたいなのは)、ずいぶんお粗末だと思うんですが。

フォーマルな場面で、筋違いな、居心地の悪いほめられ方をしたときにどう対処するか、を考えてみたのですが・・・
「ありがとうございます」といったん相手のほめ言葉を受けておいて、なるべく早く相手の話題にもっていく、っていう方略をとるような気がします。なぜならば、ほめ言葉に対して相手の期待に沿った答を返す、って私にとってずいぶん居心地が悪いことが多いのです。無理して失敗して、期待通りの答を返せずに、あきれられたことが何度もあります。


[1085] Re[1076][1068]: そう言えば、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/18(Tue) 22:46

> > その状態を表す言葉に、「ほめる」という用語が含まれていることが必要なのでしょうか? 
> > 同様の状態であれば、「ほめる」という用語の含まれない表現でも構わないとお考えですか?
>
> 「ほめる」以外のことばでもよいと思いますよ。でも、「自分で自分をほめる」ってのは短くてわかりやすい表現だなあ、と思います。

なるほどー。ハタミホコさんには、わかりやすい表現だったんですね。私には、別にわからないことはないけれど、借り物の言葉に借り物の概念を重ねて、と言いますか、外国語で数式を解くような、もどかしい表現なのです。

子どもさんが、ハタミホコさんがこの言葉で感じるのと同じような効果を感じることさえできたら、表現の形式はどうでもよいのであれば、子どもさんご自身の発想に合った表現を工夫することを許しておあげになってはいかがかと思いました。

一方、ハタミホコさんが、とにかく子どもさんがその言葉を発音するのを聞かせてほしい、聞きたいというのであれば、丸暗記させて言わせれば簡単に済むことなのに、なぜだろう? と思ったのです。

>
> ●[1050]について。
> >ご自分が聞きたい一言以外の言葉はとにかく読みたくないのかと感じてしまいました。もし、すれ違っていたとしたら、説明がどうとかいうよりも、あたかも「聞きたい一点にさえ答えてくれればいいんだ」と思われているかのように伝わってしまったことです。
>
> うーん、でも、自分の知りたいことは、やっぱり知りたくありませんか? 

いえ、知りたいことは知りたいでしょうけれども、知りたいこと以外の言葉は聞きたくないかのように思えてしまった、という意味です。

「とにかくきかれたことにだけ答えればいいんだ」という意味に、私が誤解してしまったのだ、ということを、お伝えしたかったのです。その理由は後で説明します。

>私の発した質問の意図とずれた答えが返ってきたら、言葉を補ったり、言い回しを変えたりして質問の仕方を変えてみるでしょう? 

それはね、質問の意図が伝わらなかったというより、質問の成立する基盤が共有されていなかったという状況だと思います。

電車の中で、イヤホンを耳に入れて、ラジオの英会話番組を聞いているときに、見知らぬ人に「どっちが勝ってますか?」ときかれたら、「あ、野球じゃないんですよ」と答えませんか?

アメリカに行って、「中国では○○をしますか?」ときかれたら、「いえ、私は日本から来たので中国のことは良く知りません」と言いませんか?

そういう状況で、「だからヤクルトですか巨人ですかってきいているんですよ」とか「だから中国では○○を××するかってきいているんですよ」とか言われたら、「なぜ、私が?」と思いませんか? 

>私はごく当たり前のことをしていると思っているのですが。この場合は、「自分で自分をほめるということに共感できるか?」という問いに対して「それほどの努力をしたことがないので答えられない」という回答をいただき、「いや、ご自分の経験でなく、もしそうなったとしてそういう心の持ち方に共感できるか知りたいのです」と説明を加えました。

その、「ご自分の経験でなく」というのが、〈「質問の成立する基盤が共有されていないんですが」とせっかく言っているのに、質問自体を見直してもらえない。同じ質問をますます詳しくくり返してくる〉という状況のように思えたのです。

なぜかというと、自分の経験したことのない範囲のことは、想像することさえできないので、共感するかしないかを考えることができないからです。

フリーラジカルさんがどうお感じになるかはともかくとして、私だったら耐えられない状況だと思ったのでした。

お望みの返答が返ってこないのは、質問に無理があったからなのに(質問の意図はどうしたってわからないものなのに)、同じ質問をますます詳しく説明してくれるばかり。

今回のお返事をいただいたことで、初めてわかりました。ハタミホコさんは「質問自体が無理です」ということが本当にわからなかっただけなのですね。質問に含まれている概念自体が共有されていないことが、わからなかったのですね。だから、質問の意味が伝わらなかったのは、単に表現がまずかっただけなのかと思って、同じ質問をくり返されただけだったのですね。

私は、同じ質問を何度も詳しくくり返す姿を拝見して、ハタミホコさんが、苛立っているのかと誤解したのです。「早く要点を言ってほしい」「そちらの事情になど興味はない。きかれたことにだけ、手っとり早く答えてほしい」という意味かと誤解したのです。そして、「もし、そうだとしたら、あまりにも不公平だ」と思ったのでした。

でも、結論にとびつくほどの自信はありません。自分の理解力には遅れがあることは良く自覚していますから。だから、「まずは本人に確かめてから」と思ったのでした。

(もちろん、フリーラジカルさんがどう感じられたかは知りません。これは単に、私個人がこれまで、そういう扱いを受けることが多かったので、「ああ、またかよ!」と思っただけでした)

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[1084] そういえば、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/18(Tue) 21:22

相手と対等の場合について、あるいは、友だちや家族、また相手は仕事関係者であっても趣味の話や私生活の話をしているときなどのような、インフォーマルな場面での、「ほめる・ほめられる」については、そうひどい緊張関係を感じることがないせいか、あまり深く考えたことがありませんでした。

ただ、フォーマルな場で、目下の者が目上の者をほめるには、いろいろと回避テクニックを使っている人が多いような気がしていました。

何を回避しているんだろう、とずっと考えていたのですが、目上の人の、個々の業績のできばえを、一回ずつ評価・採点する(というのか、採点の目で見る)のを避けているんじゃないかと・・・

ほめることはしたいのだけれど、個々の業績をほめるということは、「場合によっては、けなすことになるかもしれない目で見た」「一度は疑いの目で見た」ことになってしまうから、だからしかたなく、その代用として、いろんなテクニックを使っているのかなあと思うのです。

たとえば、「さすがですね」とか「相変わらず」とか言うのは、相手の業績をほめながらも、〈おできになるだろうというのは最初からわかっていました。だから、改めて採点しようという目で見たわけではありません。疑いの目で見ませんでしたよ〉という姿勢を演出しているのかなあ、と。

あるいは、「いやあ、勉強になりました」「ためになります」とか言っているのは、実質的には相手の仕事をほめていながら、自分のことに表現をすり替えている、つまり、「ほめ言葉」を「お礼」にすり替えることで、評価する目の危うさを回避しているのかなあ、と。〈私などにはとてもとても、たった今うかがったお話の客観的できばえの良し悪しを評価・採点する力などありませんが、少なくとも私個人には役に立ちましたよ〉という、安全装置なのだろうか、と思ってみたのです。

そして、本業の業績を採点するのははばかられるので、ネクタイなど、仕事と関係ないものをほめてみる、子どもの顔立ちや、趣味など、インフォーマルな領域に属することをほめる。あるいはどうしても本業のことでほめたいことがあるときは、冗談にまぎらせて、「場」の方を、インフォーマルな場にしてしまう。

何となく、観察して想像してみたものです。でも、例によって大間違いかもしれませんので、仲間の皆さん、ぬか喜びしないでください。

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[1083] Re[1079][1078][1077]: ↓仮説。 投稿者:とら 投稿日:2000/07/18(Tue) 20:42

非自閉者の雑感です。
まず、フリーラジカルさんの高校の先生との件ですが、先生はフリーラジカルさんの回答をせいぜい二つしか考えていなかったと思います。一つは嬉しがる事で、もう一つは謙遜する事です。嬉しがった場合には先生は「他の生徒も君みたいに覚えてくれると先生も嬉しいんだが」、謙遜したら「いやいや、本当に先生はいつも感心しているんだよ」のように言うつもりだったのでしょう。ところが返ってきた反応がそのどちらでもなかったのでお気に召さないわけですね。それは単に自分の予想が外れたということに加えて、自分が評価した相手がその評価を受け入れてくれなかった(と思った)場合に逆に憎く感じてしまうという感覚が有るように思います。Lingkoさんの「非自閉者で期待と異なる反応する人に似ているから」という仮説はそういった意味では当たっており、「評価を受け入れなかった人」に似ていたのだと思います。ただし「期待と異なる反応をする人」は実在しない場合も有るでしょう。裏返すと単に「話者が期待する反応を聞き手がしなかった事そのもの」がお気に召さないこともあるようにも思います。私達は話をするときに相手の反応もかなり予想しています。それで次の会話を無意識に組み立てる事も有れば、準備をする事も有ります。それが否定されていしまうわけですから。
そしてさらに、
>私「持って生まれたものですから、別に。
>努力したそうなったのであれば、嬉しく感じるかも知れません。」
という回答で、自分が期待(予想)した反応・回答でないことが2回立て続けにおこるわけです。正直な所、誉め言葉を嬉しく感じないのは致仕方が無いかもしれませんが、こちらの方はちょっと気持ちをストレートに言いすぎたようにも思います。相手を誉めると言う事は、単に相手を賞賛するだけがすべてでは有りません。誉める事によって相手が喜ぶ姿を見て、また自分も嬉しいのです。こういうと「結局は自分のため」と批判を買うかもしれませんが、人間関係とはその繰り返しのように思います。
もうひとつ、忠誠心や友好度を図っていると言う話が有りましたが、以下のような事実は有りますね。例えばカップルで、仲の良いときには冗談を言い合って共に受け入れますが、喧嘩などをした際に一方がいつもの乗りで冗談を言うと「何、くだらない事言っているの?」と急に手のひらを返してしまうわけです。これは本当は面白いのに、怒った勢いで否定してしまう事も有れば、「実は前からくだらないと思っていたけど」「愛情が有ればなんとなく受けいれていた」という場合(人)も有るように思ってしまいます。

P.S.書いている間に屁こきのプーさんが書き込まれていましたね。
解釈が似ている所も有れば、違う所も有るかも...


[1082] 屁こきのブーさんありがとうございました。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/18(Tue) 20:40

助かりました。またゼロから出直します。
何か、偉そうに書かなきゃ良かったなー(笑)

たぶん私ね、フリーラジカルさんの挙げておられた例の、
相手の方が「先生」だったもので、それに引きずられてしまったのですね。

それと、おそらく私は、長年のあいだに、「不確かな時はフェイルセーフで」というルールを作っていたみたいです。

世の中の人たちには個人差があるのに、自分にはそれを見分ける力がない。だから無難な方、無難な方でいこう、と考えてしまう。それが今回のように、誤解の元になるんですね。

はー。頭まるめて、出直してきます。

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[1081] ↓というわけで、↓ 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/18(Tue) 20:17

フリーラジカルさん、やっぱり間違いだったようです。
ごめんなさいね、ぬか喜びさせて。
やっぱりしょせんバカだからな〜♪

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[1080] Re:[1077] ↓仮説。 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/07/18(Tue) 19:33

屁こきのブーでございます。
以下は私の考えです。

Lingkoさんのおっしゃるようにかつては、「他人をほめるというのは、目上の人だけの特権」、であったのでしょう。ただ現代では、「ほめる・ほめられる」という行為は、必ずしも上下関係、権力関係と直結していないと思います。
「いい服のセンスしてるね」なんてのは別に友達同士でも使いますよね。「課長、今日のネクタイ似合ってますよ」なんて部下に言われて喜んでる上司とか、「今夜のおかずはおいしかったよ」と子どもにほめられるとか、よくある光景でしょう。学校でも最近は、生徒による授業評価が広まってきましたから、「いい授業でしたよ」と生徒から言われると教師も喜びます。

むしろ日常生活の場面では、ほめるという行為は、「あなたの行動、言葉、性格・・・・を私は認めていますよ」というメッセージであることがほとんどではないかと考えます。
であるならば、ちょうど出会いの挨拶のように、
「よかったよ。」「ありがとう。あなたもよかったよ。」「まあうれしい。」
てな具合で、ほめ言葉(相手を認める言葉)のキャッチボールが続けられることを、非自閉者は、無意識に期待するのではないでしょうか。
したがって、
”AさんがBさんをほめる”場面で、
”Bさんがほめられて喜んでいる”ということは、
Aさんから見ると、Bさんから(喜ぶという形で)認められた、
と解釈されるのではないでしょうか。
逆にBさんが喜んでいないと、Aさんは、「Bさんから認められていない」と判断し、「どうしてだろう?」「きっと嫌われているのだわ」などと解釈する可能性もあるでしょう。

挨拶に返事を返さない人がそうであるように、ほめ言葉に反応をsめさない人も、「自分を嫌っている人」「常識のない人」と思われてしまう傾向が、あるのかもしれません。

余談ですが、
昔の人は、ほめるということを今ほどしなかったようです。明治生まれだった祖父を思い返すと、そんな気がします。一方、ほめた相手が喜んでいるかどうかを気にして、喜んでいないと不機嫌になる、なんてこともなかったようです。父の話を聞いても、滅多にないことで呼ばれて「よくやった」とほめられ、それで終わり。もちろん、家父長制という身分制度に支えられた権力があってのことでしょうが。Linkoさんが挙げられた例は、部下が喜んでいるかどうかで、部下に認められているかどうかを気にせずにはおられない、自信に欠ける情けない上司の姿なのでしょう。


[1079] Re[1078][1077]: ↓仮説。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/18(Tue) 16:33

> あ〜、ありがとう!リンコさん。自分で「どうしてなんだろう」と考え込んでいたテーマに答を出してもらって、私、ラクしちゃったみたい。

いや〜〜、せめてラクしましょうよー、お互いー。
だって日ごろこんなに考えこんで頭ばっかり使ってるんですから。

ただ、下の仮説が当たってるかどうかは、私にはサッパリ???です。誰か、非自閉の方に聞いてみるまで、楽しみに待ちましょうね。

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[1078] Re[1077]: ↓仮説。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/18(Tue) 15:02

あ〜、ありがとう!リンコさん。自分で「どうしてなんだろう」と考え込んでいたテーマに答を出してもらって、私、ラクしちゃったみたい。

そう、忠誠度を計られてるんじゃないかという気は何となくしてた。
それと友好度ね。

非自閉のトモダチの間で冗談を言って笑い合ってるのに、
私にはそれのどこがおかしいか、分からなかった。
するとそのトモダチのうちの一人が言った。
「ほら、あなたが下らない冗談を言うから、○○ちゃん(←私のこと)がため息ついたよ。」
すると最初に冗談を言ったトモダチが言った。
「だって私、○○ちゃんに嫌われてるから。」

違うんだってば!
「あ〜、また私に分からない冗談を言われてしまった!窮地だ!」って
思ってたのに。


[1077] ↓仮説。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/18(Tue) 13:47

> 冗談も誉め言葉も、相手の期待するような反応をこちらがしないと、
> まず嫌われますね。どうしてなんでしょう。

それはきっと、非自閉者の中に、私たちとは別の理由から、相手の期待するような反応をしない人たちがいるからではないでしょうか。私たちの反応(というより無反応)は、その人たちの行動とたまたま表面的に似ているために、混同されて嫌われるのではないかと思います。

日本社会では、他人をほめるというのは、目上の人だけの特権と考えられています。つまり、社会的に優位の者は劣位の者をほめることができるが、劣位の者が優位の者をほめることは許されない。おそらく、ほめ言葉を口に出すということは、その前提として「高く評価した」ということがあるはずです。高く評価したということは、その前に、値踏みをしたということです。それは、強者にしか許されないことらしい。

英語圏の他の国ではどうなのか知りませんが、少なくともアメリカ合衆国とカナダでは、目上の人をほめても全然さしつかえないそうです。そのため、英語で書かれた日本語学習者向けの教科書には、「日本では、目上の人をほめてはいけません」と書かれています(実際、アメリカやカナダの日本語学習者は、わかりやすい授業に感動したりすると、「先生は今日、じょうずに教えました」なんて平気で言ってしまうらしい)。

つまり、ほめるという行為には、権力関係が内在しているのですね。だとすれば、「ほめられたら(たとえ本当は屈辱でも)喜んで見せる」という行為が、相手の権力を認める、「あなたの支配を受けますよ」という意思表示にもなりうるのだと思います。

そして、おそらく、非自閉者の中には、自分の気に入らない人に対して(たとえば、自分が長年苦楽を共にしてきた創業者を追い出して会社を乗っ取った新経営者とか)に対して「あんたなんかにほめられても嬉しくないぞ」という意思表示の手段として、ほめられても喜ばないで見せる人たちがいるのではないでしょうか。「あなたなどに、私を評価する資格は認めませんよ」「私はあなたの意見など重視していませんよ」とかね。

私たちは、本当に嬉しくないために喜んだ表情を作りそこねることで、その人たちと混同されてしまうのではないでしょうか?

冗談についても同様に、お追従の手段として、「たとえ面白くない冗談であっても笑って差し上げる」という行動が存在します。この場合、面白くない冗談を飛ばす側は、相手が笑うかどうかを通して、相手の忠誠度を測っているのだと思われます。

だとすると、言語理解や感情理解に遅れがあったり違いがあったりするために、「どの発言が冗談であるのか」を識別できず、相手が冗談を言ったことに気づかなかったとすると、「こいつは私の権威を認めていないな」と判断される可能性があると思います。

これは私が、これまで読んだ雑誌記事や小説、エッセイ、川柳、語学教科書、心理読み物などを元に立てた仮説なのですが、残念なことに私は、仮説は立てたものの自力で真偽を確かめる方法を持ちません。これをお読みの非自閉の方、どなたかフィードバックをお願いできませんでしょうか。

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[1076] Re[1068]: そう言えば、 投稿者:ハタミホコ 投稿日:2000/07/18(Tue) 13:30

コメント書くよって言いながら、時間がたってしまってすみません。フリーラジカルさん、集中砲火だなんて思ってませんよ。私は大丈夫。

私はLingkoさんが、[1071] で書いていらっしゃるのとは違って、推敲して推敲して文章を書くのが好きです。これまでの話の流れから、「こう書いたら、こうとられるかもしれない。こう書いたほうが私の知りたいことにストレートに答えてもらえるんじゃない?」とかいろいろいろいろ考えてしまうんですね(私は文章を書くとき、常に読者のことを意識しています)。

●まず、[1049]について。引用が長くなりますが……
> 私は有森さんのことばに、とても勇気づけられました。私の娘はこれから、周りから浮いてしまったり、いじめられたりという目にもあうかもしれない。そんなとき、「私がだめだからこうなるんだ」となるんじゃなく、自分のできること/できないことを自分で納得したうえで、「私はやることはやった。何も恥じることはない」と、気持ちの折り合いをつけ、人間としての向上心を捨てずにいてほしいな、娘もああいうことばを、さらりと言ってのけられる女性になってくれたらなあという気持ちからだったんです。

> その状態を表す言葉に、「ほめる」という用語が含まれていることが必要なのでしょうか? 
> 同様の状態であれば、「ほめる」という用語の含まれない表現でも構わないとお考えですか?

「ほめる」以外のことばでもよいと思いますよ。でも、「自分で自分をほめる」ってのは短くてわかりやすい表現だなあ、と思います。

●[1050]について。
>ご自分が聞きたい一言以外の言葉はとにかく読みたくないのかと感じてしまいました。もし、すれ違っていたとしたら、説明がどうとかいうよりも、あたかも「聞きたい一点にさえ答えてくれればいいんだ」と思われているかのように伝わってしまったことです。

うーん、でも、自分の知りたいことは、やっぱり知りたくありませんか? 私の発した質問の意図とずれた答えが返ってきたら、言葉を補ったり、言い回しを変えたりして質問の仕方を変えてみるでしょう? 私はごく当たり前のことをしていると思っているのですが。この場合は、「自分で自分をほめるということに共感できるか?」という問いに対して「それほどの努力をしたことがないので答えられない」という回答をいただき、「いや、ご自分の経験でなく、もしそうなったとしてそういう心の持ち方に共感できるか知りたいのです」と説明を加えました。そこから広がっていった話から、私も娘の将来のこと、私自身のこと、いろいろと考えさせていただいています。


[1075] ↓補足。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/18(Tue) 13:14

冗談も誉め言葉も、相手の期待するような反応をこちらがしないと、
まず嫌われますね。どうしてなんでしょう。


[1074] 誉められたときに喜ばないと憎まれる、の話。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/18(Tue) 12:48

閑話休題。

高校のときの実話です。
A先生「しかし、コマカイことをよく覚えてるね〜。
私「はあ」
A「あれ、全然嬉しそうじゃないねえ。」
私「嬉しがるべきところですか?」
A「誉められて嬉しくないの?」
私「持って生まれたものですから、別に。努力したそうなったのであれば、嬉しく感じるかも知れません。」
A「可愛くないやつだな〜。ヘリクツばかり言って。」
これ以降、この教師はことあるごとに「ヒネたやつだ」と私を言うようになりました。

で、私の方は、これ以降、「あ!私を誉めている」と察知したら素早く作り笑いをする習慣がついてしまいました。とってもシンドイ話です。
おしまい。


[1073] 説明するまで、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/18(Tue) 09:52

仕事にかかれないからです。

そう。あれこれ必死で書き込むのは、書いた後の時間を、自分の手に取り戻したいからなのでしょう。「何かに接してから、反応し終わるまでの時間」は、私のものであって私のものではないのです。

もしかしたら、私がメールアドレスを公開していないのも、メールで同じことが起きないようにしたいからかもしれません。

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[1072] Lingkoさ〜ん。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/17(Mon) 13:36

それ(↓)を説明できる、アナタは偉い!


[1071] なぜそんなつもりがなくても集中砲火になっちゃうか 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/17(Mon) 12:16

テーマが頭の中で片手のとどく範囲をウロウロしている間に書かないと、書けなくなってしまうからじゃないかと思うのです。

どっかの掲示板で気になる書き込みを読む。それに対していろんな思いが湧く。そしたら、誰かに話してしまうか、どこかに書くかしないかぎり、頭の中からその件は出て行かない。

どこかに書くっていうのは、別にどこに書いたっていいんです。当の掲示板に書いても、どこかよそに書いても。ただ、どこかよそに書こうと思うと、最初の背景説明、状況説明から書き始めなくてはならない。それは面倒だし難しい。私のアタマには向いてない作業。いきなり本題から書き始めたい。そのためには、その書き込みを見た掲示板で書くのが一番。だって背景説明はもうできているから、自分の思ったことをいきなり本題から書けるから。

で、書き終わっても、すぐにすっきりするとは限らない。何か言い残しがあったり、考え残しがあったりすると、そのテーマがいつまでもアタマから出て行かない。

「あーだっけ?」「こーだっけ?」と考えてしまう。「あ、さっき書いたのはまちがってた」とか考えてしまう。これがすっきりするまで、なにもできない。仕事も家事も勉強も、なにもできない。

しかたがないから、徹底的に考える。気が済むまで、というか、次のことに気が移る条件が整うまで。しかたがないから、何度も続きを書く。補足を書く。訂正を書く。

そんな、何度も「続き」「訂正」ってやらないで、最初から推敲に推敲を重ねて言い残しのないのを書けばいいのに、と思われるかもしれませんが、私にはなかなかそれが難しい。最初の思いつきだけでも書いてしまわないと、頭の中の圧力が高すぎてダメなんですよ。とりあえず思いついた分から順番に、頭の外へと流していかないと。

こうやって、ひとしきり書いたら、頭の中からすーーっと抜けて、そのテーマは次のテーマに席を譲ります。そうなってしまうと、もう、そのテーマについて書くことはできません。新たな刺激で改めて意識に引っかかったりすることでもないかぎり。

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[1070] Re[1069]: オーダーメード 投稿者:山さん 投稿日:2000/07/17(Mon) 11:12

>「アスペルガーの本を読んでみたのだけど、
娘とは少し違うようだから」と。
^^^
↑この娘は私の娘のことです。なかよし学級の先生の娘ではありません。
紛らわしい書き方してごめんなさい。


[1069] オーダーメード 投稿者:山さん 投稿日:2000/07/17(Mon) 10:10

娘が通っているなかよし学級の先生から、「夏休みに自閉症について勉強したいので何か本を貸してください」と頼まれました。「アスペルガーの本を読んでみたのだけど、娘とは少し違うようだから」と。

書棚を引っかき回して、取り敢えず3冊選びました。
でも、やっぱり一人一人違うんですよね。
「この本のこのページのここだけは少し娘と似ている」とか、「大体はそうなんだけど、娘の方はもう少しこうなんだ」とか。

私に文章力があれば「娘のためのガイドブック」を書いて渡したいところだけど・・・「夏休み中」には間に合いそうにはないし、私の見方が娘の現状を正しく把握しているかも判りません。

アメリカでは個別学習のプログラムを親と教師と専門家が一緒に作り上げていると言う話を聞きます。日本でこんな事を望むのは無理なんでしょうか。


[1068] そう言えば、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/17(Mon) 07:58

ハタミホコさん、どうされっちゃったんでしょ〜ね?
集中砲火を浴びたような気になっちゃったのかしら。

一つ、(脱線するけど)面白いな、と思ったのは、
ハタミホコさんが
>ひとの心に土足で踏み込むようなコメントかもしれないので、もし気に障ったら、ごめんなさい。
と書かれていたことでした。

やっぱり普通の人は自分の心の動きを解剖してみることって嫌いなんですね。道理で私はみんなから「人の心に土足で入り込むな」って言われてきた訳だ。

私は何かというと
「どうしてそんな風に感じるの?」
「どうしてそう、考えるの?」
と訊いてたから。
私は漫画「一休さん」(だったかな?)の「どちて坊や」みたいだと言われました。
「分からないから、訊いてるのに。」


[1067] だって、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/16(Sun) 19:12

聴覚過敏一つ取ったって、何に・どのような反応をするか一人一人全く違います。
それに、丸暗記したって、相手のもくろみを読めなければ逆効果になるのは目に見えています。
どれか一つを覚えさせるだけでなく、なるべく安全な形で場数を踏ませることも必要だと思いますよ。


[1066] だって、丸暗記で使えないからこそ、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/16(Sun) 17:53

繭子はホテルに連れこまれることになったわけでしょう?

「ええ、まあ、何とか」
「いえ、私なんか、まだまだですー」
「○○は、ちょっと」(婉曲な断り)
「そうですねえ」(すぐに飛びつかず、遠慮を含んだ応諾)

生兵法って、怖いですからね。

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[1065] Re[1063]: コミュニケーションブック 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/16(Sun) 14:46

例えば、『海外旅行のための英語・必携ブック』みたいなものだと
割り切って受け止められるのなら、提供に協力したいな、とは思います。
ほんのまれにでもシチュエーションが合えば使えるけど、ほとんどの場合、丸暗記では使えない表現ばかり載ってるでしょう?

私の出会った仲間二人を思いだしても、それぞれ固有の問題を抱えていたのですから、作るのなら、それぞれにオーダーメードのものを作るしかないし、そうなると親が一人一人、子供が抱えるであろう問題を見極めていかなくてはならない。この見極めの作業は、普通の人ではさぞかし難しいだろうな、と思います。

あのドラマでも、雑誌記者に
「自閉症の人が抱える生き辛さを教えて欲しいの」と訊かれた繭子が言ってましたよね。
「言っても分からないと思います。」って。
一つ例を挙げるのなら、「非言語性コミュニケーション・シグナルの不理解」が実際にはどんな状態になるのか、普通の人に想像できるでしょうか。


[1064] それは、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/16(Sun) 13:59

一人一人違うから、一人に一冊作ってあげてください。


[1063] コミュニケーションブック 投稿者:sippona 投稿日:2000/07/15(Sat) 23:31

この話題時々出てきますね。
私も欲しいと思っています。
それは「どんな事が困るのか」それを知りたいのも有ります。
娘はまだ小さいので先の事が良く解りません。
ただ社会性がガタンと落ち込んでいるのを見ているとこのままでは
苦労するかもしれない事だけは・・・想像出来ます。

これを「こうするとこうなる、そうすると相手は嫌な思いをするのでこうしてみよう」だけの
自閉症児、者に対して負担を掛けるものでは無く、反対側に対しても
『自閉症の方がこういう事をするのにはこういう理由が有るのです。
もしこういう事が起こればこうして下さい』のような物が出来ればいいなと思いました。


[1062] 誉めない理由 投稿者:如月 投稿日:2000/07/15(Sat) 00:47

 きっと基本的な立場、「原点」に違いがあるのだと思います。私はいつも塀の中に落ちるか外に落ちるか、という観点からしか物事を考えていません。一般常識の上からは、かなりの業績と評価しても良いような仕事をこなした時でも、自分の自然な気持ちでは「ああ塀の外に落ちて良かった」となります。
無理をするのではなく、ごく自然な感覚としてその程度の評価しかしませんので、周りから良くやったと言われると、違和感を感じてしまいます。単なる性格なのか自閉スペクトルの影響なのかはわかりません。でも「自分で自分を許してやる」は、かなりその時の気持ちに近いものがあります。

エンジニアという仕事は、雨乞いに似たものだと思っています。うまくいくまで、雨が降るまで、何も考えずに続ければいいのです。そんな鼈のような性格なので、人並み以上の仕事が出来ます。
けれど、誉めるというような前向きな自己評価はどうしても出てきません。その類の事には興味がないからというのも一つの理由です。誉めてる暇があるのならば、手を動かしてるほうがいいわな、と思ってしまいます。きっと周りの人の目には、とても扱い難い変人に見えていることでしょう。
無理して喜んだりした事もありましたが、今は素直に気持ちのまま、無表情で通しています。嬉しい時には笑いますが、例の如く周囲の笑いの感覚とはズレがあるようです。


[1061] 前にお礼を言いたくなったのは、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/14(Fri) 23:37

「自分で自分を褒めてあげる」という表現が、たぶん、ハタミホコさんの言われる「私はやることはやった。何も恥じることはない」という「気持の折り合い」をつけるための一種の「おまじない」としての効果を持っているということに、私の眼を向けてくれたからなんだと思います。

でも私だったら、「褒める」というプラスの評価を暗に意味する表現じゃなくて、「自分で自分を許してやる」くらいの表現になるだろうけど。でもこんな表現じゃ魔力が小さそう(笑)。

如月さんも書いておられるように、ある一つの言葉を、その言葉の持つ本来の意味を離れて使うことができないんですよね。それにリンコさんも書かれたように、結果が「失敗」だったのに、そこに至る過程に目を向けて「自分を褒める」だなんて器用なことは、かなりの離れ業です。



[1060] 君教の本 投稿者:山さん 投稿日:2000/07/14(Fri) 09:51

君が教えてくれたことの本を読みました。
いろんなシーンが思い出されて目がウルウルになって困りました。
(通勤電車の中でしたので)

読んでいて気がついたのですが、繭子と慎一の慎一の心の動きはTVで見ていてもすごくよく判ったのに、周りの人(潤、リナ、洋平)の心がつかみ切れませんでした。それが本を読んでやっと理解できました。
いろんな掲示板を見ると、ともさか・上川さんの演技は絶賛されています。二人以外の出演者の演技力の問題?。それとも普通の人には伝わるのに私には今ひとつピンとこなかったのでしょうか。

少し不安になりました。


[1059] Re[1058]: 質問 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/12(Wed) 13:13

> 一度こちらにいらっしゃい、とお誘いくださったアドレスを教えて
> 下さい。
はい、メールしました。


[1058] 質問 投稿者:トラポン 投稿日:2000/07/12(Wed) 10:31

一度こちらにいらっしゃい、とお誘いくださったアドレスを教えて
下さい。


[1057] 誉める 投稿者:如月 投稿日:2000/07/12(Wed) 02:28

 ふと考えてみると、私は今までに誰かを誉めた経験がほとんどありません。この言葉の本来の感覚を掴みきれていないので、借り物の言葉は使えないからです。誉められると何か場違いな居心地の悪さを感じるし、その理由は何度かこの掲示板にも書かれている通りです。
付け足すと、誤解で誉められたりすると、誤解で貶されてもしようがない、となってしまうからです。誉められようが貶されようが本当であれば全然気にしないけれど、誤解が元になっているのには耐えがたいので、それならばどちらも止めてくれと言いたいわけです。
私も本来の用法では、誉めるは他人に使う言葉だと思います。有森さんは多くの人同様に自己を肯定できる人だろうから、ここまで出来た自分に対して他人がどう言おうが、私は私を誉める、と言ったのだと思います。当然、他人を誉めた経験があると思います。
自分を肯定して、その延長線上に向上心やプライドを持って来る方法は一般的で、わかりやすいものです。自己の肯定は、まず最初にあらねばならないものとして考えるのが普通でしょう。
しかし、個人的な考えであると断っておきますが、自己肯定がそうすんなりと行かない人もいます。出来ない理由も色々あって一口では言えませんが、自閉スペクトル圏の人はその傾向があると思います。
私は自己肯定が最終目標だとは思っていないので、どうにもならないのならば、それは枝葉の部分として捨てても良い、と考えています。誤解を怖れずに言えば、最終目標は他人の評価とか誉められるとかには関係なく、自分は間違っていないと自分で断言できればそれで良い、ということです。自己中心的だと言われそうですが、そこが一番重要な点です。
しかし、これは決して自己肯定ではありませんので、論理的な間違いがなければ良い、と言い換えたほうがいいかもしれません。自己肯定は出来なくても、この最終目標の上に前向きな姿勢や矜持といったものが乗っかってきます。だから自己肯定にさほどの未練はありません。
それが自分のやり方であって、それがある限り、古い言い方をすれば「お天道様に恥ずかしくない」気持ちでいられるのです。