autismドラマに関するBBS 過去ログ(2000年6月25日〜7月11日分)


[1056] あらー 投稿者:ハタミホコ 投稿日:2000/07/11(Tue) 23:26

うわ…
発言が爆発している。
どこからどう手を付けてよいのやら、おろおろしております。
実はひとつ文章を書いたのですけど、なんだか、旬を逃しちゃったみたいなので、また出直してきます。

ペンギンさん>ごめんなさい。
実は[1048] の発言は、ペンギンさんの[1041] を読んでからすぐに投稿したつもりだったんですけど、ちょっと出遅れたみたいで、場にそぐわない内容になってしまいましたね。

Lingkoさん>初めまして。
そういうわけで、「褒める」ということばの必要性についてご質問をいただいてますが、もう少し意見が出そろうのを待ってから、自分の考えをまとめることにします。

如月さんも初めまして。
コメントをいただきまして、ありがとうございました。私は自分で自分が好きな人です。私がつきあっている普通人がどう思っているかは知りませんけど、私はそう。でも13歳〜18歳のころは自分で自分が嫌いでした。


[1055] でも、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/11(Tue) 22:31

やっぱり、全く違うシステムで稼動している人に、「普通」の手順で動くように要求されている感じは拭えません。

「浮いている」「いじめられる」は、「私はダメだ」に直結するしかないし、「できないこと」はやりようがないし、自分は普通の「人間」じゃないとしか思って来なかったから。

でも、「みんなと同じ」になることよりも「みんなと違うまま」で、「だったらどうすればいいか」考えるしか方法はないんじゃないですか?
「浮いていても」「いじめられても」「普通に出来ない人間」でも、「私にできることをやっていけばいいんだ!」って思える人になって欲しいです。
そういう自分なら、自分で自分を褒めることが出来るんじゃないでしょうか?


[1054] Re[1048][1041]: ↓への注。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/11(Tue) 22:11

> 私は有森さんのことばに、とても勇気づけられました。私の娘はこれから、周りから浮いてしまったり、いじめられたりという目にもあうかもしれない。そんなとき、「私がだめだからこうなるんだ」となるんじゃなく、

私の場合は、「いつも浮いている、たま〜にイジメ」「私はダメだ」が常の状態で、それと「だからこうなるんだ」との間の因果関係は全くありません。
とにかく、「私はダメ」だから「こうしなければいけない」という図式しかないので、そこに固執し続けるだけです。


> 自分のできること/できないことを自分で納得したうえで、「私はやることはやった。何も恥じることはない」と、気持ちの折り合いをつけ、人間としての向上心を捨てずにいてほしいな、

いつもいつも「自分のできること」をやっているだけだし、「恥じる気持ち」はもともとないし、「向上心」は「これではいけない」に翻訳されるので、自分のやっていることが上の文句に当てはまっているかどうか照合する手段がないので、確かめようがありません。


>娘もああいうことばを、さらりと言ってのけられる女性になってくれたらなあという気持ちからだったんです。

何か、いつもそんなことばっかり「さらり」と言ってのけているような気がしますが、そういうことを言った3時間後にはたいてい落ち込んでいるので、「さらり」と言うことに価値があるとも思えません。
更に、「女性」らしくなっていないことも確かです。


[1053] もちろん、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/11(Tue) 22:09

1050の内容は、私の読解力不足によるものだろうと思っていますが。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1050] 回りくどいかどうかというより、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/11(Tue) 21:24

ご自分が聞きたい一言以外の言葉はとにかく読みたくないのかと感じてしまいました。

もし、すれ違っていたとしたら、説明がどうとかいうよりも、あたかも「聞きたい一点にさえ答えてくれればいいんだ」と思われているかのように伝わってしまったことです。

ボタンを押したら、その部分だけの回答が出てくる説明機械ではないのに、と思ってしまったのです。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1049] Re[1048][1041]: ↓への注。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/11(Tue) 21:12

>
> 私は有森さんのことばに、とても勇気づけられました。私の娘はこれから、周りから浮いてしまったり、いじめられたりという目にもあうかもしれない。そんなとき、「私がだめだからこうなるんだ」となるんじゃなく、自分のできること/できないことを自分で納得したうえで、「私はやることはやった。何も恥じることはない」と、気持ちの折り合いをつけ、人間としての向上心を捨てずにいてほしいな、娘もああいうことばを、さらりと言ってのけられる女性になってくれたらなあという気持ちからだったんです。

その状態を表す言葉に、「ほめる」という用語が含まれていることが必要なのでしょうか? 

同様の状態であれば、「ほめる」という用語の含まれない表現でも構わないとお考えですか?

そこがどうしてもよくわかりません。「自分をほめる」という表現は、他人にほめられるとか、他人をほめるとかいった概念の、いわば転用だと思うのです。他人にほめられるとか、他人をほめるとかいうことの持つ意味が違っている(さらには、その意味を感じない人さえいるでしょう)人々が、わざわざ、自分にとって異質な表現を転用した表現を考えつくでしょうか。

http://web.archive.org/web/20011006200852/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1048] Re[1041]: ↓への注。 投稿者:ハタミホコ 投稿日:2000/07/11(Tue) 20:50

ペンギンさん、どうも、いっぱい書いてもらっちゃってすみません。

> 何かすれ違っているのは、「他人にどう見えているか自然に配慮する心のシステムがもともと無い」人に、「他人の評価とは無関係に自分を評価する」ことがあるかどうか尋ねているところにあるような気がしますが、どうでしょう?

私も、なんかすれちがってるかなーという気はしてたんですが、私の質問の仕方が何かヘンなのかも、ということで、いろいろ考えてしまいました。

「他人にどう見えているか自然に配慮する心のシステム」があろうとなかろうと、他人というものは常に勝手に評価してくれます。他人から悪い評価を得た場合、それを雰囲気から気づく人もいれば、具体的な行動やことばをつきつけられることで気づく人もいるでしょう。あるいは、悪い評価を得そうなことをあらかじめしないようにする能力の高い人もいることでしょう。

で、私が知りたいのは、「他人の評価とは無関係に自分を評価する」ことの「ある/ない」ではなく、そういう気持ちになれるだろうか/そういう気持ちにはなれないだろうか、というシミュレーションの問題だったのです。すいません、回りくどくて。

私は有森さんのことばに、とても勇気づけられました。私の娘はこれから、周りから浮いてしまったり、いじめられたりという目にもあうかもしれない。そんなとき、「私がだめだからこうなるんだ」となるんじゃなく、自分のできること/できないことを自分で納得したうえで、「私はやることはやった。何も恥じることはない」と、気持ちの折り合いをつけ、人間としての向上心を捨てずにいてほしいな、娘もああいうことばを、さらりと言ってのけられる女性になってくれたらなあという気持ちからだったんです。


[1047] ただし、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/11(Tue) 20:05

> > >自分を評価し積極的に自己イメージを高めたいという気持ち

は、私の場合、これからの行動の原動力として使える段階にはなっていません。

あくまでも、終わってしまってから、できたのが嬉しいという気持ちは一応あるから、それを拾い上げて、「いい気分」を味わうために再利用しているに過ぎません。

これはたぶん、記憶力がネックになっているのではないかと思うのですが(だからもしかしたら、アスペのせいじゃなく、注意力の不足のせいかもしれないんですが)、何かができて嬉しいときに、嬉しいという気分は残っているのだけれど、なぜ嬉しくなったのだったか、もう覚えていないことがあります。

何かいい気分であることは自覚しているんだけど、原因が何だったかよくわからなくなってしまうこともあります。そんなときに、あまり必死で「すぐに思い出さないと!」と思ったりすると、恐怖から、軽い前パニック状態になってしまうこともあるので、それを防ぐためには、なるべく「そのうち思い出すだろう」と構えてしまうように心がけています。

こんなありさまですから、過去の「できた」と「嬉しい」さえきっちり結びついてないのに、それを未来に応用することができるかどうか、私にはよくわかりません。

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[1046] Re[1038]: 努力家についての一考察 投稿者:如月 投稿日:2000/07/11(Tue) 19:57

> 私が「有森さんの言葉に実感が感じられるか?」と書いたのは、いやなことでも、とりあえずやるための原動力として、責任感以外に、自分を評価し積極的に自己イメージを高めたいという気持ちがあると思うのだけれど、それに共感できるかどうかを知りたいな、と思ったからです。

私の場合「自分を誉める」は、ほぼ絶対にありえないことなので、冗談として「思わず自分を誉めそうになってしまった」という言い方をする場合はありますが、勿論本気ではありません。
「自分を誉める」は「まず自分を好きになりなさい」と似たような意味合いの言葉なので、自閉スペクトルの住人には、だいたい縁遠い表現ではないかと思います。自己評価がとても低いので、なかなか誉めたり好きになったりは難しいのです。だから異質な響きがあって共感は持てません。
[921]の近辺にも、ちょっと関係のある書き込みがありますよ。


[1045] Re[1042]: あ〜! 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/11(Tue) 19:55

> >「責任感」でしょう。裏を返せば「それをやらないと、他人に何を
> 言われるかわからない。他人に迷惑をかけて自分の評価が下がるのは苦痛である」という計算でしょう。
>
> そんな風に責任感を捉えたこと、ありませんでした。「自分がやらないと迷惑をかける」という風にしか、捉えたことがないです。その意味では充分に責任は果たしてきた、と思います。

私も似たようなもんです。「やらないといけない」っていうのは、絶対的なものであって、他人が何を言おうが関係ありません。

ただ私の場合、やる気がしないとなかなかできないもので、そうなると、「絶対善」のはずの仕事をやらないことになり、自分の中での矛盾に苦しんできました。怠け者のくせに理想が高いというやつです。

しかもその「やらなければいけないこと」の内容は、本当に他人に迷惑をかけることばかりではなく、どこかで聞きかじったものであったり、他人の単なるワガママであったり、そんなものも混じっていたので、ずいぶん損をしたものだと思います。「他人の目」を規準に置いていたら、せめて、「絶対善」の暴走を防ぐことができて好都合だったのではないかと思います。

他人に迷惑をかけて自分の評価が下がっても、そのこと自体は苦痛ではありません。迷惑をかけるであろうことをしたこと自体が苦痛だったりということはありますが。

ただし、自分の評価が下がることによって、次の注文が入らなくなり、やりたい仕事を逃すのは嫌です。つまり、商売の上での「信用」ですね。これは、良い信用そのものが嬉しいのではなく、良い信用によって良い注文が入ってきたり、企画が通りやすくなったり、意見を聞いてもらえたりすることが好都合だし、嬉しいのです。これなどは冷たい計算というのでしょうか?
>
> ハタミホコさんの言われる、
> >自分を評価し積極的に自己イメージを高めたいという気持ち
> 全く、自分にはありません。普通の人には当たり前のようにそのようなシステムがあるのでしょか?率直に言って、驚きました。

私は、その原始的な芽生えかもしれないもの、持ってますよー(えへん)

私の場合は、もともと、とても時間感覚がコマギレなので、一瞬一瞬を何とか気分良く過ごしたいと思い、いつも目先の気分にとらわれている(調子が悪いと、いつも何か気分を変えてくれるものを探している。どうせ失敗するんだけど)ので、何かに成功したら、その「やたー、済んだー」という気分はそれっとばかりに消費しますよ。

ただ、忘れっぽいため、持続力はないんですがね。積み上げていくことはできませんが、ほんのしばらくは、「えへえへ」という気分にひたることができます。

もしこれを、積み上げていくことができたら、あるいは、覚えていることができたら、「自己イメージを高める」っていうのに進化することがあるかもしれません。(全然ちがってたりして)

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[1044] うーん 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/11(Tue) 19:37

イヤなことをやり終わったときに経験するプラスの感情は、「わーい、これでもうやらずにすむ」です。

やった分、これからやる量が減った。
全部やった場合は、ゼロになった。嬉しいことじゃありませんか?
もしかして、普通の人は、これが嬉しくないの?

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[1043] 補足。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/11(Tue) 19:29

>じっさいに努力したことがあるかどうかより、「自分で自分を褒める」という気持ちについて、共感できるかどうかをお聞きしたいのです。

私に限ってのことかも知れませんが、自分で実際に経験したことのないことについて、共感できるかどうか、想像ができないのです。「仮定の話には答えられない」が私の18番の決め台詞ですから(笑)。


[1042] あ〜! 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/11(Tue) 19:23

考え込んでいる間にすっかり浦島太郎になってしまいました、私(笑)。

>「責任感」でしょう。裏を返せば「それをやらないと、他人に何を
言われるかわからない。他人に迷惑をかけて自分の評価が下がるのは苦痛である」という計算でしょう。

そんな風に責任感を捉えたこと、ありませんでした。「自分がやらないと迷惑をかける」という風にしか、捉えたことがないです。その意味では充分に責任は果たしてきた、と思います。

ハタミホコさんの言われる、
>自分を評価し積極的に自己イメージを高めたいという気持ち
全く、自分にはありません。普通の人には当たり前のようにそのようなシステムがあるのでしょか?率直に言って、驚きました。

私の中にあるのは、自己欺瞞をしていないかを自己検証する、あるいは、自己実現のためにわざわざ何かの大義名分を大上段に掲げていないか、をチェックするシステム、です。

>いくらがんばっても他人の評価を得られない人たち

私のことのように思えます(自嘲)。

>「そうか、自分で自分を褒められればそれでいいじゃないか」というちょっとした救いになったんじゃないかと思います。

私には、救いを与えてくれる思考回路が内在してなかったんですよね。

こんな考え方が、こんな楽になる思考方法が存在するなんて!
よく噛んでみないと本当の意味では理解できないかもしれないけど、なぜかお礼が言いたくなってきました。ありがとう。



[1041] ↓への注。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/11(Tue) 18:41

「価値評価」や「点数」がつくのは、あくまでも「私のしたこと」に対してであって、「私」に対してではありません。

ところで、これって質問の答えになっているのでしょうか?
何かすれ違っているのは、「他人にどう見えているか自然に配慮する心のシステムがもともと無い」人に、「他人の評価とは無関係に自分を評価する」ことがあるかどうか尋ねているところにあるような気がしますが、どうでしょう?


[1040] 蛇足ながら、補足です。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/11(Tue) 17:02

「人に誉められる」と、「うれしい」と言うより「恥ずかしい」「やめてくれ」という感じです。

「誉めなくっていいから、点数だけつけて! その点を見て、自分で考えるからいーの!」ってところです。

他の人はどうか知りませんが…。


[1039] Re[1038]: 努力家についての一考察 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/11(Tue) 16:35

>「自分で自分を褒める」という気持ちについて、共感できるかどうかをお聞きしたいのです。
> 「頑張っている私って健気。すごい」と自分の行動を自分で評価し、自己イメージを高めたいという気持ちだと思うのです。

自分で自分に「感心する」という意味の「誉める」なら、あります。
「頑張っている私」は、きっと、頑張っている時には「がむしゃらなだけ」、後で振り返れば「イヤな思い出」かなあ? 


> 「いやなこと」でもやり続けるには何かじぶんを突き動かす衝動というかきっかけのようなものがあると思うのです。その1つは「責任感」でしょう。裏を返せば「それをやらないと、他人に何を言われるかわからない。他人に迷惑をかけて自分の評価が下がるのは苦痛である」という計算でしょう。
> いやなことでも、とりあえずやるための原動力として、責任感以外に、自分を評価し積極的に自己イメージを高めたいという気持ちがあると思うのだけれど、それに共感できるかどうかを知りたいな、と思ったからです。

何かをやっている最中に、「いやなこと」だと自覚していることって少ないと思います。「どうしてもやらなければならないこと」か「やらなくてもいいこと」の二者択一しかなかったような気がします。
「他人に何か言われること」と「他人に迷惑をかけること」とは、強迫観念的に感じられることが多かったと思います。
「他者による自分の評価」はもともと「無い」し、「自己による自分の評価」はだいたい「最低」です。


> 彼女のことばは、いくらがんばっても他人の評価を得られない人たちに、「そうか、自分で自分を褒められればそれでいいじゃないか」というちょっとした救いになったんじゃないかと思います。

「(認めてもらえることを自分の心の中に取り込むという)超自我の働きによる他人の評価」などもともと念頭に無いので、「自分で自分を誉める」か「自分で自分をけなす」か「他人に自分の価値の決定権を委ねる」かのどれかじゃないでしょうか。


[1038] Re: 努力家についての一考察 投稿者:ハタミホコ 投稿日:2000/07/11(Tue) 15:33

フリーラジカルさん、ペンギンさん、私の唐突な質問に、早速答えていただき、どうもありがとうございました。おふたりの短いコメントのなかに、いろいろと考えさせられることがありました。うまく文章にできないのですが、お礼かたがた書いてみますね。

ちょっと長くなりますが、ご勘弁ください。

> う〜ん、ハタミホコさんの質問には、自分で自分を褒めたくなるほど、嫌なことや、直観的に「おもしろそう」と思えないことでも取り組んだ経験が私にないと答えられませんよね〜。
>
> 果して私にそんな経験があるのか、ちょっと考えてみます。

じっさいに努力したことがあるかどうかより、「自分で自分を褒める」という気持ちについて、共感できるかどうかをお聞きしたいのです。

「いやなこと」でもやり続けるには何かじぶんを突き動かす衝動というかきっかけのようなものがあると思うのです。その1つは「責任感」でしょう。裏を返せば「それをやらないと、他人に何を言われるかわからない。他人に迷惑をかけて自分の評価が下がるのは苦痛である」という計算でしょう。

それともう1つが「自分を褒めたい」という気持ち。ちょっとひねくれた見方をすれば、「頑張っている私って健気。すごい」と自分の行動を自分で評価し、自己イメージを高めたいという気持ちだと思うのです。

私が「有森さんの言葉に実感が感じられるか?」と書いたのは、いやなことでも、とりあえずやるための原動力として、責任感以外に、自分を評価し積極的に自己イメージを高めたいという気持ちがあると思うのだけれど、それに共感できるかどうかを知りたいな、と思ったからです。

有森さんは、金メダルをとれなかったことでがっかりしてるんじゃないかという周囲の勘ぐりとは異なり、「私は他人に褒められるために走っているのではない。自分ががんばったことは自分がよくわかっている。がんばった自分を褒めたい」そんな気持ちになったんじゃないかと思うのです。彼女のことばは、いくらがんばっても他人の評価を得られない人たちに、「そうか、自分で自分を褒められればそれでいいじゃないか」というちょっとした救いになったんじゃないかと思います。


[1037] Re[1035][1033]: 努力家についての一考察 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/11(Tue) 13:46

> で、以前、マラソンの有森裕子(字、ちがったかも…)さんが、「自分で自分を褒めたい」という名コメントを残しましたが、フリーラジカルさんは、あの言葉にはあまり実感を感じられないのでしょうか?

「自閉症」者が何かに固執て熱中する時は、「頑張る」とか「努力する」というよりも「憑かれるように」とか「追い立てられるように」という状態に自然になっているという表現の方が適切です。


[1036] Re[1035][1033]: 努力家についての一考察 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/11(Tue) 13:32

う〜ん、ハタミホコさんの質問には、自分で自分を褒めたくなるほど、嫌なことや、直観的に「おもしろそう」と思えないことでも取り組んだ経験が私にないと答えられませんよね〜。

果して私にそんな経験があるのか、ちょっと考えてみます。
何か、ないみたいだけど。
家事は嫌々ながらでもやるんだけど(笑)、そんなことで普通の人は「自分で自分を褒めたく」はならないんですよね〜?


[1035] Re[1033]: 努力家についての一考察 投稿者:ハタミホコ 投稿日:2000/07/11(Tue) 11:51

こんにちは、フリーラジカルさん。通りすがりにこの掲示板を読みました。娘が自閉スペクトルらしく、ただいま医者さがしをしているものです。

> 「嫌いなことをやれるのは、ほめてもらえたり、認めてもらえることがあるからである。認めてもらえない状況でも嫌なことがやれるのは認めてもらえることを自分の心の中に取り込むことが出来ているからである(超自我とよばれる)」(p.143)
>
> へえ〜!!普通の人の努力家って難しいことをやってるんですねえ!!
> 自分を認めてくれる他者を自分の中に設定する、ってことでしょ?

について、ちょっと思い出したことがあるので書きます。ひとの心に土足で踏み込むようなコメントかもしれないので、もし気に障ったら、ごめんなさい。

で、以前、マラソンの有森裕子(字、ちがったかも…)さんが、「自分で自分を褒めたい」という名コメントを残しましたが、フリーラジカルさんは、あの言葉にはあまり実感を感じられないのでしょうか?

私自身のことをいえば、私は努力家ではありません。ものごとの好き嫌いがとても激しいです。直感的に「おもしろそう」と思ったこと以外は、やる気を出すために長い助走が必要です。しかし、ときには投げ出したい気分であっても何かをやり続けるときもまれにあり、そんなときは「自分は、こんなにがんばっている」という、自分を強く肯定する気持ちが支えです。


[1034] Re[1027]: 少なくとも私は、 投稿者:ゆっこ 投稿日:2000/07/11(Tue) 10:11

> 生まれ変われるんだったら次に生まれてくるときも自閉スペクトルの住人として生まれて来たいです。
>
> だって・・・ こだわりないのって、薄そうでしょ、時間の流れかたが。

私が変わってあげたいとまで、思ったんですが、息子も大きくなって
そう思ってくれるような人生を送ってほしい です
心のどこかで、ごめんね
そんな気持ちがあったんでしょうね


ペンギンさんもありがとうございます


[1033] 努力家についての一考察 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/11(Tue) 09:57

杉山・辻井両先生編著による『高機能広汎性発達障害』に
次のような下りがあります。
「嫌いなことをやれるのは、ほめてもらえたり、認めてもらえることがあるからである。認めてもらえない状況でも嫌なことがやれるのは認めてもらえることを自分の心の中に取り込むことが出来ているからである(超自我とよばれる)」(p.143)

へえ〜!!普通の人の努力家って難しいことをやってるんですねえ!!
自分を認めてくれる他者を自分の中に設定する、ってことでしょ?
やっぱりこんな想像力も自分には完全に欠如しています。

私の場合、他人が認めてくれようがくれまいが、ほめてくれようがくれまいが全く関係なくて「ハマッたらとことんやる」、ただそれだけ。「ほどほど」もいまだにうっちゃられてしまいます(その結果、家の中が悲惨なことになるけど)。


[1032] Re[1031]: あれ? 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/11(Tue) 04:57

> 時と場所をわきまえることではなく、ハマった状態になること自体が悪いことなのだと思ってきました。
> 誰も、これが標準なんだとは教えてくれなかった。

そうそう、まずは「生活リズム」をきちんとして、「身の回りのこと」をちゃんとやって、「ほどほど」にやらなければいけないと言われますから。でも、その一番最初の「生活リズム」の習得だけで一生を終えてしまいそうに大変なのに、「身の回りのこと」までやっていれば、「ほどほど」どころかそこまで頭が回らなくなってしまいます。
「生活リズム」とか「身の回りのこと」は最初からマニュアルがあって構造化されていて、それを覚えるだけでいい状態からスタートできれば、「ほどほど」に何かにのめり込むことも出来ただろうにと思います。


> 伝統芸能の世界は、礼儀作法など、型が決まっているから、私でも型をなぞって暗記すれば生きて行けるだろうと思ったのが甘かった。

しかも、芸的には型が決まっているからその通りになぞればいいけれど、人付き合いは「普通」にあるんだってことがわからなかったりしてね。
まあ、歌舞伎や能(たまたまLingkoさんが伝統芸能と言ったので)の道なら型が決まっていて覚えやすいと思って入門したのはいいけれど、いつもいつもあの装束をつけてあの口調でしゃべっているわけではないってことに気づかなかったとでもいいましょうか。つまり、対人関係まで楽にはならず、やっぱり自分で判断してやっていかなければならなかったってこと、私も知りませんでした。


[1031] あれ? 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/10(Mon) 22:32

続きです(笑)

私は、一体何が起きているのかわからないままに祭り上げられ、やはり何が何だかわからないままに「裏切り者」と責められていました。追い出されないためには、逃げ出すしかなかった。私の20代は、こうやって終わりました。

自分のハマりかた、さめかたの加減を測ることまではようやく覚えたものの、それが地球人の目にはどう見えるかまで計算することはできなかったのです。

それに、「そんなんじゃありませんよ」といくら言っても、謙遜としか聞いてもらえないってこともわからなかったし、「楽しくてやっているだけです」という言葉がイヤミに聞こえるということもわからなかった。

伝統芸能の世界は、礼儀作法など、型が決まっているから、私でも型をなぞって暗記すれば生きて行けるだろうと思ったのが甘かった。芸能集団というのは、「中小企業」でもあるんだってことを知らなかったがゆえの失敗でした。

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[1030] Re[1018]: でも楽しいです、間違いなく。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/10(Mon) 22:23

> 努力家だとも言われるけど、私は「自分に鞭打って、努力して」何かを習得したことがないんです。何かにとんでもなくハマりこんで、気がついたらその道のエキスパートになっていたんですから。だから本当の努力家の人には申し訳ない気がします。

私は、これを周囲の人が知らないため、ひどい目に遭いました。

つまり、好きで勝手にハマっているのを、努力家なのだと誤解されたため、「それだけ熱心なら、これくらいの忠誠心はあるだろう」という計算をされ、複雑な人間関係の中で当てにされてしまったのです。

それに私は、いくら何でも自分の持続力なら、最高潮にハマっていられるのは数か月単位だと知っていましたから、「飽きる前に習得してしまわなくては! これは時間との闘いだ!」「飽きる前にコツをつかんでしまい、うんざりしないぎりぎりのポイントで力を抜けば、後は慣性で進んでいけるぞ」なんて計算をしていたのですが、見ていた人はそうは思っていなかった。私が一生そのペースのままで努力を続けるのかと思っていたらしい。

そうして、周囲が勝手に盛り上がって、勝手に私には分からない課題を決めて、勝手に幻滅して。私は一体・B


[1029] Re[1025][1024][1018]: でも楽しいです、間違いなく。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/10(Mon) 22:07

> 私がハマルと、それこそ○○○○のようにのめり込むので、傍目には脅威らしい。

私は子どものとき、自分が連邦市民だとは知らなかったばっかりに、自分ののめりこみ方を、○○○○の兆候かと思いこんで、ひどく怯えたものです。何で怯えたかって・・・ 進行性のものかもしれないって思ったので。

「今のこの状態が○○○○というものなのだとしたら、私は現にちゃんと何とか生活できているんだから、○○○○だってそう捨てたものではないはずだ。みんなが騒ぐのは大げさだ」と思いましたが、「これが○○○○の兆候なんだとしたら、これから進行するってことだから、これからはどんどん生活が大変になっていくのだろう」と思ったのです。

分厚い「家庭の医学」をこっそり持ち出して、布団の中で懐中電灯で照らして読みましたよ。覚えてしまうほどに。小学生のときのことでした。

私は、いろんなものにハマるたびに、そのことを周囲に叱られたり笑われたりしてきました。時と場所をわきまえることではなく、ハマった状態になること自体が悪いことなのだと思ってきました。

誰も、これが標準なんだとは教えてくれなかった。

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[1028] Re[1026]: なんだか悩ませてしまったようで 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/10(Mon) 22:05

> ごめんなさい

謝らなくても大丈夫ですよ。だって、本当に悩んだら答えも書けないのに、「書いている」ということはある程度精算できている証拠ですから。(中には、いつまでも当たらず触らずでいるよりも、ちゃんと思い出してしまった方が良い場合も有るので。)
でも、何だかんだ言ってるけれど、いつもいつも何かyしいことや打ち込めることに夢中になって、それをいっぱい繋ぎ合わせて来ているうちに、良い方にも悪い方にも「とんでもないこと」が起きてしまっていて、「あれ?」と思う。その繰り返しですから。


[1027] 少なくとも私は、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/10(Mon) 21:54

生まれ変われるんだったら次に生まれてくるときも自閉スペクトルの住人として生まれて来たいです。

だって・・・ こだわりないのって、薄そうでしょ、時間の流れかたが。

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[1026] なんだか悩ませてしまったようで 投稿者:ゆっこ 投稿日:2000/07/10(Mon) 21:39

ごめんなさい


[1025] Re[1024][1018]: でも楽しいです、間違いなく。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/10(Mon) 09:40

> > 努力家だとも言われるけど、私は「自分に鞭打って、努力して」何かを習得したことがないんです。何かにとんでもなくハマりこんで、気がついたらその道のエキスパートになっていたんですから。

> はまったときのうれしさは、普通の人には
> あまりない感覚なのだと、最近知りました。

私がハマルと、それこそ○○○○のようにのめり込むので、傍目には脅威らしい。この3ヶ月間、口を開くとドラマの話ばっかりしていました。(と言っても、実際に話をする相手はほとんどが子供。あとは学校の先生とか数人の療育関係者だけですが。皆さん、ご迷惑をお掛けしました。)


> 私の場合は、はまったことが、職業にむすびついたので
> なんとか、人生の綱をわたっていけているようです。

これって、大切なことですよね。
(私の場合は、仕事の話にハマルことはありません。さっさと片付けて楽しいことをやらねばとは思うのですが、どうしても楽しいことを先にやってしまいます。)


[1024] Re[1018]: でも楽しいです、間違いなく。 投稿者:トルネード 投稿日:2000/07/10(Mon) 05:24


>
> 努力家だとも言われるけど、私は「自分に鞭打って、努力して」何かを習得したことがないんです。何かにとんでもなくハマりこんで、気がついたらその道のエキスパートになっていたんですから。だから本当の努力家の人には申し訳ない気がします。

これは、確実にそうです。
見た目は、根気が良い努力家と同じでしょうが、
はまったときのうれしさは、普通の人には
あまりない感覚なのだと、最近知りました。
わたしも、かなりの年ですが、
やりたいこと、しりたいことが常にあって、
ひとりで暇をもてあます、と言う感覚は
どうしても、わかりません。
私の場合は、はまったことが、職業にむすび
ついたので逆に、同僚からちょっとうっとおしい
目で見られることをのぞけば(これも、ほぼ
ひとりでする作業が多いのでそんなに、苦になりません)
なんとか、人生の綱をわたっていけている
ようです。


[1023] Re[1012]: しつこく、「ショートして黒焦げ」 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/10(Mon) 01:58

私は恵まれていませんでした(笑)。
一人目の仲間とは、ほんの小さな違いが「こんなに共感できるのに、なぜこんな違いがある?!」と針小棒大に思えて許せなくなり、
二人目はあまりに私に似すぎ、「もう一人の自分」を見ているようで「ヤだ!こんなの嫌い!」とこれもまた許せなくなりました。
人間関係までスイートスポットが狭いんですよね。
「誰とでもうまくやっていく」という嘘が尽き通せない。
普通の人から見たら、「大げさな!何をそこまで深刻に」と思われるかも知れないけど。とにかく嘘は嫌いです。

あ!如月さん、メールありがとう。失礼かも知れないけど、返事はここで書きます。
「古傷が開いたじゃないか」という恨みつらみがましい書込みをしてごめんなさい。かさぶたを自分で何度も取ってしまい、そのたびに「あ!血が出た!まだ治ってないじゃないか!」と確認するという、自傷行為の一種みたいなものだと、自分では思っています。


[1022] 黒こげ 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/10(Mon) 01:03

私は恵まれていました。

私は、先輩たちがきちんとセッティングしておいてくれた場所で仲間に会ったので。

先輩たちが、自分たちがこれまでに黒焦げになった教訓を活かして、しっかり作り上げておいてくれた場所でしたから。

仲間が何十人かいれば、安全そうな人とだけつき合うなんてこともできちゃいます。成文化されたルールもありましたし、何のスケジュールもなくただ遊ぶなんてできない人もいるから、ちゃんと「話題」になってくれるプログラムもあったし。

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1021] フ〜ッ 投稿者:トラポン 投稿日:2000/07/09(Sun) 22:41

今日も同じ質問や話を3時間も投げかけてきます。
いいかげんこちらも気がまいってきます。
でも、息子に接していると本当に心が透明なのだなと感じます。
それだけに、キズつきやすくもあるようです。むつかしいですね。


[1020] あっ、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/09(Sun) 08:39

だから、「自閉症」の子供に注意する時に「○○してはいけない」とか「○○はダメ」というような、文の最後で否定する言い方をすると、最初の「○○」と語尾の否定詞が別々のものとして印象に残ってしまうことがあるので気をつけた方がいいと思います。
例えば、「列に割り込んではいけない」ではなくって、「ここにいなさい」という風に。


[1019] Re[1017]: 本当に勉強になりました 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/09(Sun) 07:25

> こんな大変な思いをしても、生きていってほしいと言わなくてはならないのかと・・・

すみません、私はすぐに言葉を丸呑みしてしまうので、これをそのまんまま頭の中でエコラリアしそうで怖いです。


>でも楽しいです、間違いなく。
私の場合は、得してると思うのは、何があってもCD聴いていると全部ご破算にできるってことかな。


[1018] でも楽しいです、間違いなく。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/09(Sun) 06:19

ゆっこさんの書込みを見て反省しました。確かにネガティブなことばかり書いてたので。でも生きてるのは間違いなく、楽しいんです。ときどき(私の場合)「消えてなくなりない」と思うけど。

狭山先生がドラマの中で言っていました。
「君は知りたいことや、やりたいことがいっぱいあるんだね。」って。
普通の人はそんなことないんでしょう?特に私の歳になると。
私は知りたいことややりたいことがまだまだいっぱいあって、目的なしにTVをつけておく、とか、用事もないのに友達に電話したり、とか、できない。忙しくてしかたがない。時間が欲しい。こうやって、遠くの「小さな仲間たち」の何かの役に立ちたいし。

ここから自慢話です。
私が自閉であることで得をしている面はたくさん、あると思います。
何かに夢中になったら、とことん追い詰めないと気が済まない。
何をやっても「一曲決め聞き」です。「普通」のトモダチから「そのエネルギーはどこから来るの?」とよく言われます。
努力家だとも言われるけど、私は「自分に鞭打って、努力して」何かを習得したことがないんです。何かにとんでもなくハマりこんで、気がついたらその道のエキスパートになっていたんですから。だから本当の努力家の人には申し訳ない気がします。


[1017] 本当に勉強になりました 投稿者:ゆっこ 投稿日:2000/07/09(Sun) 00:16

ご本人様のご意見本当に参考になりました
ありがとうございました
どんなに大変な思いをして、生きているか?がとってもよくわかりました
4歳の自閉の息子を育てている親として、実は苦しくもなりました
こんな大変な思いをしても、生きていってほしいと言わなくてはならないのかと・・・
学校へ行きなさいといわなくてはならないのかと・・・

でも、皆さんに負けずに頑張ろう!!!


[1016] よろしかったら 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/08(Sat) 09:53

お気持ちわかります。うちの掲示板へいらっしゃいませんか?
http://web.archive.org/web/20011006202048/http://village.infoweb.ne.jp/~tinker/ghouse/ghouse.html
書き込みだけではわかりませんが、
息子さんはうちの子より年齢が上ではないかと思います。
よろしかったら、いろいろお話を聞かせてください。

この掲示板は、ドラマを通して
立場を異にする、家族・指導者・ご本人・その他の方が一緒に
自閉症の本質、特に「子どもたち」の幸せのための意見や情報の
交換をする貴重な場になってきたと思います。>よね、sipponaさん。

親や指導者がROMしていることをわかった上で
辛い思いや心のうちを語ってくださるご本人たちの
「子どもたち」や「仲間」への思いを大切にしたいと思うのです。

フリーラジカルさん wrote
>親御さんには何の得にもならない話題ですが
そんなことはないです。自閉症の人同士は強く共感することもある、とか
ショートして黒焦げになるほど「共感」への渇望が強かったのかなぁとか思いました。
共感するポイントは違っても、共感したい気持ちは同じなのかなぁって。
そういうことはどんなえらい先生も話してくれませんし。


[1015] 初めまして 投稿者:竹林 裕子 投稿日:2000/07/08(Sat) 08:45

誰かとしんどさを、わかち合いたいです。


[1014] どこまで心配かけたら気がすむの 投稿者:竹林 裕子 投稿日:2000/07/08(Sat) 08:40

初めまして、私の息子は、超多動な高機能自閉症です。
もう私なんかよりも背も高いので、ついていく事もかないません。
それで、毎日一人でどこかへ遊びに出かけてしまうのですが、
何事もなく無事に帰って来てくれればいいのですが、そうは問屋が
おろしてくれません。多い時には、月に3回は警察や救急病院から
連絡が入ります。おかげで私は携帯が手離せません。
もうすぐ夏休み、どうか何事もありませんように、祈る毎日です。


[1013] 私の場合は、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/07(Fri) 12:45

最初に会った自分の仲間が自分の子供で、2番目が人様の子供だったら、とことんのめり込んでも害は有りませんでした。
でも、大人だったら、きっとフリーラジカルさんと同じ結果になっていたでしょう。


[1012] しつこく、「ショートして黒焦げ」 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/07(Fri) 12:15

すみません、シッポナさん、親御さんには何の得にもならない話題ですが、これを読んでいる仲間の何かの参考になるか、と思いますので。

私のときの「ショートして黒焦げ」は、私の満腹中枢がうまく機能しなかったために起きたのです。
普通の人との係わりは、まるで表面をなぞるような付き合い方しかできないのに、「仲間」とだとグッと接近した、それこそ「魂が触れ合う」ような、眩暈がするような、心が通じ合う感覚に飲み込まれました。何しろそれまで経験したことがありませんでしたから、これにはヤミツキになりました。「もっと、もっと分かり合いたい」と、「テープ1曲決め聞き」みたいなことが、相手との間に起きてしまいました。その反面、私の中で「ウップ、もうたくさんだ〜!」という感覚がありました。不幸にも、私の遭った仲間は私にとって同僚と上司でしたので、イヤでも顔を合わせなくてはなりません。「しばらく会わない」という時間的距離を取る選択肢もありませんでしたし、仕事上のやり方では「意見が違っていてもいい」なんて呑気なことは言ってられませんでした。自分の中でとんでもない二律背反が起きていることにも気が付かなかった・・・。

いくら自分にとって好物のおいしい食べ物でも、いくらでも食べられるというものではないのに、私は吐くまで食べてしまった。

よく考えたら、私にとって、相手との考え方や趣味(?笑)の違いのような、普通の人が問題にする「違い」は問題ではなかった。それまでイヤという程、「自分の考え方、感じ方は他の人と違っている」ということを認識させられていたので、これは大前提でしたから。

要するに「吐くまで食べない」というのが、私が得た教訓でした。
何だかギャグみたいだけど、でも今、痛いほど実感しています。


[1011] Re[1010]: クランクアップ 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/07(Fri) 09:11

> 私の記憶が確かならば、エンディングテロップの
> 脚本が武田さんでなかった回があるように思いますが、

3回ほどありましたよ。


[1010] クランクアップ 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/07(Fri) 08:43

クランクアップに際してのスタッフやキャストのコメントが
http://web.archive.org/web/20011006202048/http://www.tbs.co.jp/kimioshi/back/12.html

にありました。

その後の繭子と慎一を描くつもりがあるように見えます。
脚本の武田さんはかなり苦しまれたようです。

私の記憶が確かならば、エンディングテロップの
脚本が武田さんでなかった回があるように思いますが、
そのことには触れられていません。

続編にしても、スペシャルの2時間ドラマにしても
また、「ドラマ」にするために何を切り捨てるか
難しいところでしょう。


[1009] 慎一の資料 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/07(Fri) 08:36

最後のほうに映った「『自閉』を活かす上・下」(石井聖著)も学苑社でした。

でも、繭子が手にとったのは「自閉症の才能開発」(学習研究社 テンプル・グランディン著)だったし、
慎一が読んでいる場面があったのは「発達障害の豊かな世界」(日本評論社 杉山登志郎著)でしたから、

ある出版社に肩入れしているということはないと思いますが。
学苑社が自閉症関連図書をたくさん出版していると
いうことなのではないかと思います。


[1008] Re[1002]: 本の書名 投稿者:かめ 投稿日:2000/07/06(Thu) 19:21

書名教えていただきありがとうございました。
学苑社の本が多いのは理由があるのでしょうかね?



[1007] そうそう 投稿者:QP 投稿日:2000/07/06(Thu) 16:19

>老婆心というか老爺心で言いますと、共通部分があるにしても共通しない部分も多々あるので、適度な距離を取っていないと電気のブラスとマイナスのように、ショートして黒焦げになったりもします。引き合う力は強いけれど、最低限の距離が必要です。

これ、私も「ふんふん。」って思った一人なんだけど。
言っちゃっていいのかな、誰かを傷つけたりしないかなと思った
んだ。
私もショートはしなかったけど、こげこげぐらいにはなったこと
あるから、わかるなあ。

ただ、どう接したらいいのか直感でわかるから(わかりにくい人も
いるけど)普通の人みたいにヘマはしない。
適度な距離をとりそこねて困ってる普通の人をたくさん知っている
から。


[1006] そうね、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/06(Thu) 15:32

「自閉性障害者」同士なら、繭子と美咲みたいにすぐに「お友達〜♪」状態になれるだろうって、安易に考えられても困るしね。


[1005] Re[1004][998]: 「コミュニケーション辞典」 投稿者:如月 投稿日:2000/07/06(Thu) 13:08

> この表現の衝撃が今ごろになってドカ〜ンと来ました。

 無神経とはわかっていましたが、事実は事実だし知らない方は知っておいたほうがいいと思いましたので。
近づきたくても距離を取らざるを得ないのは、たぶん別人に成りすますよりも辛いことです。


[1004] Re[998]: 「コミュニケーション辞典」 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/06(Thu) 12:26

> 電気のブラスとマイナスのように、ショートして黒焦げになったりもします。引き合う力は強いけれど、最低限の距離が必要です。

ショートして黒焦げ・・・。
この表現の衝撃が今ごろになってドカ〜ンと来ました。
はははは(泣笑)。


[1003] 「君が・・・」で使われた参考図書 投稿者:けやき管理人 投稿日:2000/07/06(Thu) 07:38

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://www.tbs.co.jp/kimioshi/books.html

このサイトに、「君が・・・」で使われた参考図書の
リストがあります。

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://www.ne.jp/asahi/hp/keyaki/


[1002] 本の書名 投稿者:けやき管理人 投稿日:2000/07/06(Thu) 07:25

書き込み者本人による転載

-------------

「自閉症の最前線を行く(対談)」1990年
阿部 秀雄 /桑田 和幸 聞き手 302頁 (税別):\1,942
ISBN 4-7614-9008-X 学苑社

「僕と自閉症」 1989年
片倉 信夫 著 4-6 274頁 (税別):\1,500
ISBN 4-7614-8903-0 学苑社

「精神医療における家族療法」 1994年
アンドルフィー,M. 著/石川 元 訳 308頁 (税別):\3,680
ISBN 4-7911-0274-6 星和書店

「アメリカ障害児教育の魅力−親が見て肌で感じた−」 1998年
佐藤 恵理子 /佐藤 裕 著 4-6 178頁 (税別):\1,400
ISBN 4-7614-9803-X 学苑社

雑誌「臨床精神医学」 国際医書出版

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://www.ne.jp/asahi/hp/keyaki/


[1001] Re[1000]: 狭山先生が読んでいた本が知りたい 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/06(Thu) 02:50

> 突然、乱入して申し訳ありませんが…
> TBSのドラマで上川さん(狭山先生)が読んでいた、
>
> 過去のカキコにもあったと思うのですが

459ですね<過去ログ

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[1000] 狭山先生が読んでいた本が知りたい 投稿者:かめ 投稿日:2000/07/05(Wed) 22:08

突然、乱入して申し訳ありませんが…
TBSのドラマで上川さん(狭山先生)が読んでいた、
本棚、テーブル、研究室にあった
自閉症の専門書、調べてある方、書名だけ教えて
下さいませんでしょうか。
『自閉症の言語治療』は確認できたのですが。

過去のカキコにもあったと思うのですが


[999] Re[993][992]: コミュニケーション辞典 投稿者:如月 投稿日:2000/07/05(Wed) 14:35

> 私は、もとが天真爛漫なキャロルだったので、監視役のウイリーに「私」を乗っ取られ、そこに社会的人格が押しかけて来たので、「自己否定&実体無し」タイプです。(←えっ、誰も聞いてないって?)

 どちらか一つではなくて、誰でもが両方を持っているのでしょうね。


[998] 「コミュニケーション辞典」 投稿者:如月 投稿日:2000/07/05(Wed) 13:29

 私にとっては鉢合わせが最もまずい状況なので、「キャラクター」の存在に気付いてからはだんだんとその数を減らそうとしてきました。数が少ないほど鉢合わせの可能性も減りますし、それまで無条件に譲っていた方針を変えて自分の主張もするようになったので、減らせるようにもなりました。
自分の同類が他にもいると知らない間は、流石に自分の我を押し通す勇気が無くて、世間の常識をひとまずの正解として、それにあうような「キャラクター」に成りすましていました。自己主張をするようになると、得るものもあれば失うものもあって、得失は五分五分です。
呑気な性格なので、そうして「キャラクター」の数が減っていけば、最後に残ったのが一番自分の好きな自分で、本当の自分と言うやつではないか、と思っています。選ぶのではなく、一つ一つある程度の時間をかけてより不必要なものを消して行き、最後に残った一つを長年かかって探し出した本当の自分にするのが、私にあった方法のようです。
中島みゆきが「一番好きな服を着て、一番好きな私でいよう」と歌っています。だんだんと一番好きな私、もしくは一番自然な私には近づきつつあります。だから、知ったことの得失は先を考えるとプラスかな、と思っています。

>精神の安定を保つために、たくさんのアスペの仲間を作っておくというのも重要なことなのかな、と思いました。

 老婆心というか老爺心で言いますと、共通部分があるにしても共通しない部分も多々あるので、適度な距離を取っていないと電気のブラスとマイナスのように、ショートして黒焦げになったりもします。引き合う力は強いけれど、最低限の距離が必要です。
繭子の場合は、ドラマでこれをやってしまうと視聴者は混乱するだけなので、あれで良かったと思いますが、必ずしもうまく行かない場合もあるでしょう。


[997] Re[996]: コミュニケーション辞典 投稿者:QP 投稿日:2000/07/05(Wed) 11:17

> >自閉症スペクトル圏の住人でありながら、何とか仕事をこなして自立している人は、必ずこの>「コミュニケーション辞典」を持っていると思います。
はい。もっています。ごく最近、気がつきました。

> そうなのですか。自己を押し殺してしまうという弊害や苦しみがあったとしても、自分なりの「コミュニケーション辞典」を持ってる人が多いのですね。
私にとっては、弊害や苦しみがあったことさえ気がつきませんでした。
ただ、「コミニケーション辞典」が、分厚くなればなるほど、自己を
喪失していきました。

> これも人それぞれなんですね。本当に色々なタイプがあるのだなと勉強になります。
そうですね。

> >これを眼鏡のように好きな時だけ使うようにすればいいのでは、という発想は経験的にとても>不可能だと思います。大体はまだ自己がしっかりとしていない頃にこれを始めるので、仮の>>自己が本来の自己の場所に居座ってしまい、つけると取れなくなる面のように仮と真の立場>が変わってしまいます。取り外しが可能なほどに軽い存在には留まってくれないのです。
そうです。全く、そのとおりです。

> >その時点で追い出さなければならない程に強い自己を持っていれば、強烈な自己否定をしな>くてはならないだろうし、空家であればたまたま入って来る仮の自己が全てになって、実体の>無いNO BODYになるのでしょう。
自己否定をし続けることで私はすっかり自分をなくしてしまい、仮の
キャラクターに居座り続けられてしまいました。
これは、ひどく自分を混乱させ長い鬱常態をひきおこしてしまい
ました。

自分がアスペびとだと理解できた今でも、仮のキャラクターに占領
されてしまう時があって、ひどく落ち込んでしまいます。
40年近い年月は、仮面をしっかりとつけてしまい、なかなかはずす
ことは難しいのです。
でも、素の自分でいられる時を重ねていくことで、自己を取り戻そうと
しています。これを書いている自分は素の自分です。
ただ、その自己がどこにあるのか分かりません。NO BODYなの
です。

> >「コミュニケーション辞典」には一筋縄で行かない複雑な背景があります。これを作ってきた人>には、それぞれ独特の苦い思いがあるだろうなと思いました。
そう思います。

> 子どものことで色々雑事に追われているので、ひとまずROMに戻りたいと思います。
私も雑事に追われながらも、ここに来る事によって癒される部分が
あるのでやっぱり来てしまいます。

お互いの事を思いやりながら、理解しようとする気持ちがあるならば、
きっと共存していけると信じたいと思います。





[996] コミュニケーション辞典 投稿者:komi 投稿日:2000/07/05(Wed) 07:58

如月さん、
>自閉症スペクトル圏の住人でありながら、何とか仕事をこなして自立している人は、必ずこの>「コミュニケーション辞典」を持っていると思います。

そうなのですか。自己を押し殺してしまうという弊害や苦しみがあったとしても、自分なりの「コミュニケーション辞典」を持ってる人が多いのですね。

>私の性格では、「コミュニケーション辞典」的なものがもたらす悪影響は、この鉢合わせさえ回> 避すればそれ程ではありませんでした。

これも人それぞれなんですね。本当に色々なタイプがあるのだなと勉強になります。

>これを眼鏡のように好きな時だけ使うようにすればいいのでは、という発想は経験的にとても>不可能だと思います。大体はまだ自己がしっかりとしていない頃にこれを始めるので、仮の>>自己が本来の自己の場所に居座ってしまい、つけると取れなくなる面のように仮と真の立場>が変わってしまいます。取り外しが可能なほどに軽い存在には留まってくれないのです。
>その時点で追い出さなければならない程に強い自己を持っていれば、強烈な自己否定をしな>くてはならないだろうし、空家であればたまたま入って来る仮の自己が全てになって、実体の>無いNO BODYになるのでしょう。
>「コミュニケーション辞典」には一筋縄で行かない複雑な背景があります。これを作ってきた人>には、それぞれ独特の苦い思いがあるだろうなと思いました。

異文化の中で生活するために、皆さん苦い思いをしながらもコミュニケーション辞典を使っていらっしゃるのでしょうね。
 一方でコミュニケーション辞典を使わなくてもいい場、それがアスペの仲間同志ということなのでしょうか。
精神の安定を保つために、たくさんのアスペの仲間を作っておくというのも重要なことなのかな、と思いました。

子どものことで色々雑事に追われているので、ひとまずROMに戻りたいと思います。
色々な方の心の内面を教えていただけて、本当に勉強になりました。ありがとうございました。


[995] Re[994]: それ以前に、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/05(Wed) 05:50

> 「人が」「人に」「伝えたいことがあるから」言葉を話す、

こんな基本的なことさえ私にはまるで分かってなかったことを、この障害を知って痛いほど思い知らされました。

私にとって、言葉は、コミュニケーションのための道具ではなくて、
「何か判然としないもの、分からないもの」を「自分が」理解するための記述の道具だった。そうでないときは、言葉というレゴブロックをもてあそんでいただけだった。

> ほどほどでいいから、言葉が遅れていたら・・・ せめて、理解が追いつくまで、話し始めるのを待っていたら・・・
>
私の場合、35歳になっていました(笑)。私は自分の独り言を相手にうむを言わさず聞かせていた。ウタ・フリスの言葉を目にしたとき、35年間かけて進めてきたコマをスタート地点に戻されたような気がしました。
「伝えるということは、相手の注意に値すること」


[994] それ以前に、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/05(Wed) 03:33

私は、

他の要素の育ちかたに比べて、相対的に言葉の獲得が早すぎたのが悪かったような気がしています。

「人が」「人に」「伝えたいことがあるから」言葉を話す、ということを理解するためには、自分が「人」になってないと無理だし、相手が「人だ」とわかってないと無理だし、「伝えたいこと」がわかるようになってないといけないのに。

私はその順番を逆にしてしまった気がする。使いみち(用途、機能、使用者との関係)を知らないまま、道具のデザインと性能だけに注目してしまったような感じ?

ほどほどでいいから、言葉が遅れていたら・・・ せめて、理解が追いつくまで、話し始めるのを待っていたら・・・

こんなボタンの掛け違いは起きなかったかもしれない。こんな悪循環のスタートボタンは押されなかったかもしれない。そんなことを考えてみたりも。

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[993] Re[992]: コミュニケーション辞典 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/04(Tue) 23:36

> その時点で追い出さなければならない程に強い自己を持っていれば、強烈な自己否定をしなくてはならないだろうし、空家であればたまたま入って来る仮の自己が全てになって、実体の無いNOBODYになるのでしょう。失礼ながら文章を読んでいると、ああこの方は自己否定タイプ、この方は実体無しタイプとはっきり分類出来ます。

「自己否定」タイプは、「自我」の中にキャラクターを作ってしまうのです。ドナさんが、知的な対応を迫られた時にはウイリーに成り、人と交流する為にキャロルになったように。
一方、「実体無し」タイプは、ドナさんが結婚したイアンがこれです。こちらは、空家に社会的な人格が住んでいるようなもので、
> 唯一つ困ったことは、会社用の「キャラクター」と家用の「キャラクター」のように別々の存在が同一場所にいなくてはならないような場合でした。
という状態になります。

私は、もとが天真爛漫なキャロルだったので、監視役のウイリーに「私」を乗っ取られ、そこに社会的人格が押しかけて来たので、「自己否定&実体無し」タイプです。(←えっ、誰も聞いてないって?)


[992] コミュニケーション辞典 投稿者:如月 投稿日:2000/07/04(Tue) 20:15

 自閉症スペクトル圏の住人でありながら、何とか仕事をこなして自立している人は、必ずこの「コミュニケーション辞典」を持っていると思います。人により表現の仕方は「キャラクター」や「顔」であっても、内容的には同じものでしょう。
私は95年の確か8月にドナ・ウィリアムズの番組をテレビで見てゲゲゲッと驚き、「NOBODY NOWHERE」を読んで、自分もそれまで別人に成りすますことで内面を隠してきたのだ、と初めてわかったのでした。自閉症スペクトルに関する知識がほとんど知られていない頃に育った旧世代の人達は、誰から教えられることも無く独力で自分なりの「キャラクター」を作っていくのだと思います。
他の方の文章を読んでいると、作り上げた内容はほぼ同じだとしても、作り方や「キャラクター」に対する思い入れは随分と違うのだなあ、と感慨深いものがあります。私は自己がとても薄い存在だったので、そこに異質なものを入れることにほとんど抵抗が無かったようです。
雨が降ってきたので濡れるのは嫌だから傘をさそう、というぐらいの軽い気持ちで「キャラクター」を作ってしまうので、本来の自分は何処にいるのだと虚しさを感じたりもしません。もともと空家なのだから入ってくれる人がいればこれは幸いだ、と言うような感じでしょうか。
唯一つ困ったことは、会社用の「キャラクター」と家用の「キャラクター」のように別々の存在が同一場所にいなくてはならないような場合でした。例えば最初の会社は一度転勤をすると社宅に入れるシステムになっていましたが、社宅の近くで会社の人に会ったりでもしてしまうと、どちらの「キャラクター」になったらいいのかがわからず凍り付いてしまうしかありません。
その頃にはまだ自分の取っている方法を頭では理解していませんでしたが、ふとそんな状況を想像すると、根源的な恐怖を感じたものです。身の破滅だなと体が怯えていました。会社を辞めた理由の一つに、社宅なんか冗談じゃない、がありました。
私の性格では、「コミュニケーション辞典」的なものがもたらす悪影響は、この鉢合わせさえ回避すればそれ程ではありませんでした。

これを眼鏡のように好きな時だけ使うようにすればいいのでは、という発想は経験的にとても不可能だと思います。大体はまだ自己がしっかりとしていない頃にこれを始めるので、仮の自己が本来の自己の場所に居座ってしまい、つけると取れなくなる面のように仮と真の立場が変わってしまいます。取り外しが可能なほどに軽い存在には留まってくれないのです。
その時点で追い出さなければならない程に強い自己を持っていれば、強烈な自己否定をしなくてはならないだろうし、空家であればたまたま入って来る仮の自己が全てになって、実体の無いNOBODYになるのでしょう。失礼ながら文章を読んでいると、ああこの方は自己否定タイプ、この方は実体無しタイプとはっきり分類出来ます。
「コミュニケーション辞典」には一筋縄で行かない複雑な背景があります。これを作ってきた人には、それぞれ独特の苦い思いがあるだろうなと思いました。


[991] Re[988][985]: マニュアルを作るにしても、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/04(Tue) 18:42

> 理解できるようになったらなったで、今度は、「自分」がそれなりに育っている人であれば(つまり「自己」の発達が順調だった人であれば)、「だからどうした?」「それが何なの?!」という思いを常にチカラワザで押さえ込み続けるという重労働が待っています。

あ〜、これ、モロッと20代前半の私の姿です。

> だって、自分がされたらイヤだなと思うことを、周囲の人は望んでいたり、自分が言われても意味が分からないから平気なことや、自分が言われたら嬉しいようなことが、「人を傷つけるから言ってはいけないこと」だったり、なんてのは珍しくないわけですから。

私の場合、「意味がわからないから平気」ってのとはちょっと違ったな。分かっても(いや、分かったつもり、だけかもしんないけど)本来、自分が怒れるようなネタじゃないから怒らなかった。その調子で、「もし自分が相手の立場だったとしても、怒れないネタ」に相手が怒ったりすると、「何でこんな下らないことで感情的になるんじゃ〜」と一蹴していた。もしかしたら相手にとっては重大なことかも知れない、という可能性が全く見えなかったから。

そんな意味で、「相手の立場に立ってモノを言いなさい」という常套句は私には全く無効だった。そもそも、「相手」とは違う心の動き方をする人間だから。

> 「なぜ譲るのは常にこちらなんだ」という内からの声を押し殺すのが、フルタイムの仕事になってしまってる人もいます。

うん、確かに一時期、そんな不遜な心境だった。

それがいつの間にか、「私のものの考え方、判断は間違い」にすりかわってしまったのは、何度も周りからそんな風に言われてきたからだろうか。う〜ん、分からない。どこでどう間違ったんだろう。


[990] 初めまして 投稿者:ハタミホコ 投稿日:2000/07/04(Tue) 14:53

初めまして。こんにちは。
この掲示板、ちょっと前から読んでいます(過去ログは全部読んだ)。というのも、ウチの娘(5歳)が、どうやら自閉スペクトルのどこかにいるらしいことを認めざるを得なくなってきたので、「これからどうしたらいいの」を知りたくて、あっちこっちのホームページを訪ねてまわってたんです。療育センターにはもう2年くらい通わせています。でも、正式な「診断」は受けていません。もうそろそろ行かなくちゃね。単なるユニークな性格と思おうとしたけど、「ウチの子はこーゆー子なんだから、ちゃんとやってよね!」と先生たちに主張できるためには、やっぱり診断名は必要と思うようになりました。

ウチの子は知能も人並み(たぶん以上)だし、電話での会話もできるし、こだわりもないし、最近は人の目を見てしゃべれるようになったし、多動でさえありません。まわりからは「いい子だね」と言われます。でもどこかヘン。同年齢の子どもたちに対してかばうような、いたわるような、まるで保護者のような態度と言葉で接している。それで鬱陶しがられてケンカになる。じぶんのお膳立てどおりに他人を動かそうとして、単なる遊びがバトルになる! あああ。

こういう、やたらと他人のうえに保護者然と君臨し、干渉したがるというオトナを知っています。その人はみんなの嫌われものでした。「ねえ、自分の仕事以外、あんまり口出ししないほうがいいんじゃない?」とやんわり指摘しても、全然なおらない。妙に馴れ馴れしいか、よそよそしい会話しかできない人でした。あの人は、たぶん自閉スペクトルの上にいた人だったんだなと今は思います。娘もあんなふうなオトナになるんだろうか?

専門家の書いたページはそれなりに知識としては役に立つけど、このホームページほど実感をもって読むことはできませんでした。ここのページには「ああ、わかるわかる」ってことが多すぎて、娘の姿にかぶるだけでなく、自分の子ども時代のことを思い出し、ちょっとなつかしいような、不思議な気分です。

私には他人の心の動きや、ものとものとの「常識的な」結びつきも、わからない時代がたしかにありました。14歳くらいのときに突然自我が芽生えました。25歳のときには「人は相手の目を見てしゃべるのだ」ということを他人の指摘により学習し、じぶんの行動を徹底的に洗い直し、いまは立派な?社会人です。なんの苦もなく世間で暮らしています。

それでも、小さいころから群れて遊ぶのが嫌いです。自分のひいきのチームを応援するという気持ちがまったくわかりません。認知にも問題があるらしく、重症の方向音痴です。ト音記号の譜面はすらすら読めるのに、ヘ音記号の楽譜は1つ1つ音符を数えないと何の音かわかりません。右と左は直感的にわかるけど、東西南北は頭で考えないとわかりません。

しばらく、この掲示板とおつきあいさせてくださいませ。


[989] マニュアルの効用と弊害 投稿者:komi 投稿日:2000/07/04(Tue) 14:00

ペンギンさん、
>あんまり早くに「世の中」辞典を作り上げすぎてしまうと、今度はそれに縛られて
>自分自身を抹殺してしまう。
>「世の中」のことを教えて、失敗をしなくてすむように指導しながら
>「ありのままの君でいい」って言ってくれる人が、身近にいないとダメ

Lingkoさん、
>「なぜ譲るのは常にこちらなんだ」という内からの声を押し殺すのが、フルタイムの仕事になっ>てしまってる人もいます。

コミュニケーションマニュアルっていうのは、結局アスペの人だけに努力を求めるようなものなんですね。
使いたければ使うし、使いたくなければ使わない、という自由度の高いものにしておけば、
それなりに存在価値はあるということでしょうか。
いくら表面上うまく取り繕えたとしても、回りの理解なくしては、アスペの方々の内面の苦しみが和らぐことはないと受け取りました。

もうこうなったら「アスペルガー」という言葉をとことんポピュラーにし、世の中の人みんながアスペという言葉を聞いただけで対応を変えてくれるようにした方がいいのかな。
でも、どこかで読んだ記憶があるのですが、アスペルガーの人の中にも色々なタイプがいて、
回りに知ってもらったことで楽になれる人もいれば、あくまでアスペであることを隠し通して
回りと同化したいと思う方もいるとか。・・・

そういうタイプの方がいることを聞くと、むやみに啓発していいものか、頭がぐるぐる回ってしまいます。(私には難しすぎる(ーー;))

フリーラジカルさん、
>このマニュアルを作る、という発想こそ、もしかしてkomiさんもそのケがあったりして・・・。

そうかもしれません(^^ゞ。自閉症スペクトルの概念を知った時から、自分もきっと自閉症スペクトルの線上のどこかにいるのではないかという気がしてなりませんでした。
白か黒かつけたがるし、同時に二つのことができないし、そのケがあることは十分考えられるかも(^_^;)


[988] Re[985]: マニュアルを作るにしても、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/04(Tue) 11:41

> 行動のパターンを教えるのではなく、どんな行動が「なぜ」好ましいのか、あるいは「なぜ」好ましくないのか、の「なぜ」の部分に重要なポイントがあるような気がします。従って、その抽象的な部分を理解できるようになってから、という時期も重要になってくると思います。

理解できるようになったらなったで、今度は、「自分」がそれなりに育っている人であれば(つまり「自己」の発達が順調だった人であれば)、「だからどうした?」「それが何なの?!」という思いを常にチカラワザで押さえ込み続けるという重労働が待っています。

だって、自分がされたらイヤだなと思うことを、周囲の人は望んでいたり、自分が言われても意味が分からないから平気なことや、自分が言われたら嬉しいようなことが、「人を傷つけるから言ってはいけないこと」だったり、なんてのは珍しくないわけですから。

「なぜ譲るのは常にこちらなんだ」という内からの声を押し殺すのが、フルタイムの仕事になってしまってる人もいます。

一方、私みたいに、状況ごとに「顔」が入れ替わってしまうのに忙しくて「自分」が育つ暇がなかった人の場合は、人を怒らせないためには、(こだわり以外の)自分の希望を感じとる、探るというステップをすっ飛ばした方が効率的に済むわけだから、「たまたま目の前にいる人を怒らせないこと」が最優先課題になってしまうこともあります。

「は?」と気がついてみたら、これまでずっと「たまたまそのとき目の前にいた人を怒らせないこと」と「こだわり」との両立しか考えてこなかった・・・ これじゃあまりにも空しすぎる!

そしてもう一つ、覚えたマニュアルのとおりに、あるいは抽象的に考えて理解したとおりに、「他人がていねいと感じるであろう行動」「他人が優しくされたと感じるであろう行動」を正しくとれたとします。すると時には、相手が本気で感動してしまうことがあります。私には、これが恐怖なんですよ。

必死で考えて、「きっとこう言えばいいに違いない」と思って、「優しい言葉」とされているものを口にする。「合ってるといいな」とどきどきしながら相手の採点を、じゃなかった反応を待つ。ところが、これがあまり上手にできてしまっていたら、相手は、私が頭で考えて(あるいはパターンに従って)言ったことに気づかず、本気で感激してしまった・・・。

そもそも、「感激」なんていう激しい感情はそれだけで不快だし、苦痛です。その上、「謙遜」なんていう、もっと難しい技を(自信もないのに)試さないといけない立場に追い込まれる。その場を無事にやり過ごしても今度は「人をだましてしまった」という罪悪感と、「相手が喜んでくれているのは本当の私ではない」という痛さと、「能力を過大評価された(逆に言えば、障害ゆえの困難を過小評価された)しんどさ」の三段重ねが待っています。

ただでさえ、長期的な嘘をついたり秘密を守ったりするのが苦手だというのに、自分が嘘をついたわけでもないのに先方が勝手に自分を買いかぶってくれて、「この秘密を一生背負っていかなければならないのか・・・」と思うとパニックに陥って、そのまま相手との関係を絶ってしまう。どんな顔をして接したらいいかわからないから、逃げ隠れする。

あるいは、相手に自分の困難を過小評価されて、どんどん要求が高くなってしまう。できもしない課題を、当然のように要求されていることに気づき、圧倒されてしまう。

そりゃ、元はと言えば、見栄を張ったのはこっちなんだから、自分がまいた種だとも言えますが、「実感が伴わないまま礼儀にかなったふるまいをする」っていうのが、そもそも「常識辞典」「マニュアル」の目的だったわけでしょう? 自分が威張りたくて見栄を張ったわけではない。必要に迫られてやったことなのに。

うまく通用してしまったら通用してしまったで、その「お釣り」は、自分の身を削って支払うことになるのです。

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[987] Re[986][961][949][936][920]: 「障害」か「個性」か? 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/04(Tue) 11:19

フリーラジカルさんへ。

> もしかしたら三つ組の障害のうちで私にとって最重度になっているのは「心の盲目」と呼ばれる「想像力の欠如」ではないか、と考えるようになってきました。

と言うより、「想像力の欠如」していることに必要以上の罪悪感を持って来たことが、一番の「障害」だったのでは?


[986] Re[961][949][936][920]: 「障害」か「個性」か? 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/04(Tue) 10:35

> しかし謝りながらも能天気な性格なのか、9割こちらに責任があるとしても、1割は向こうにも非があると思っています。

びえ〜ん、9割も自分に責任があれば充分じゃないですか!
でも私にとっての問題は、責任のありかの比率じゃないんです。
自動車事故の賠償じゃないんだから(笑)。

如月さんに答えようと内省するにつれ、
もしかしたら三つ組の障害のうちで私にとって最重度になっているのは
「心の盲目」と呼ばれる「想像力の欠如」ではないか、と考えるようになってきました。

自己イメージが悪いことが(多分)原因で、人の好意や関心や愛情を受け取ることができない。それに加え、「心の盲目」があるために、そんな人の好意や関心や愛情を、頭の中で安く買いたたいていたんじゃないかと、思う。

あ〜〜〜〜、ごめんなさい。考えてるとどんどん落ち込んでいきます。
この辺でやめときます。

とにかく、血の涙を流せるものなら、それで罪を償えるものなら、私が今まで嫌な思いをさせてきた人に泣いて謝りたい。


[985] マニュアルを作るにしても、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/04(Tue) 10:11

行動のパターンを教えるのではなく、どんな行動が「なぜ」好ましいのか、あるいは「なぜ」好ましくないのか、の「なぜ」の部分に重要なポイントがあるような気がします。従って、その抽象的な部分を理解できるようになってから、という時期も重要になってくると思います。
でないと、私のように猿真似マシーンになってしまう。みっともないですよ〜。猿真似マシーンは。自分のみっともなさを客観できたことはないけど、私の出会った「仲間」の猿真似は、目を覆いたくなるぐらいのみっともなさでしたからね〜(K.A.さん、これ、読んでたらごめんなさい!!)。


[984] 全然関係ないみたいな話題だけど、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/04(Tue) 09:58

自分の娘の姿を見ていると、本当は自分はどんな人間なのか、考えるヒントになるとつくづく思います。

私はずっと昔から、小さな子供が嫌いでした。
なぜなら、小さな子供はぐいぐいとこちらの目を見てくるから。赤ん坊ですら生後1ヶ月くらいになると刺すような視線で私の目の中を覗き込もうとする。それこそ「心の中に入り込む」ような感じで。
そこで、「人の目を見ることができない」ことを実感していた私は、
「赤ちゃんの目をどこまで見ていられるだろう」と実験(笑)していた時期があります。すると、大人の目を見る程には苦労しないことに気が付きました。でもそんなときの赤ちゃんは例外なく、泣き出してしまう(ゴメンナサ〜イ)。多分、モノを見るような「冷たい」目つきをしてたんでしょう。

娘の保育園の子供たちも、私に向かって親しげに何かを話しかけてくるのですが、そんなときも、やはり食い入るように私の目を覗き込んでいる。自分の放つ言葉に対する反応を、私の表情の中に読み取ろうと必死なようです。(片や、私の娘はやっぱり、他のお母さん方が話しかけると『あさって』の方向を見てしゃべっている。)

普通の人がソーシャル・スキルを獲得していくスタート地点はここにあるんじゃないか、と思っています。相手の反応をうかがいながら話す、相手の気持を汲み取りながら「語りかける」・・・。

話かわって・・・。
「コミュニケーション辞典」。私も自作のものを頭の中に持ってますが・・・。他の人にも鈴木健二(敬称略)の「気くばりのすすめ」を贈られたりもしましたが・・・。

このマニュアルを作る、という発想こそ、もしかしてkomiさんもそのケがあったりして・・・。


[983] Re[980]: コミュニケーション辞典!? 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/03(Mon) 13:15

> 最終的に“臨機応変に対応を変える”という領域に到達できないのであれば、なるべく
> アスペの子ども達が傷つかなくてすむように、マニュアルを作ってあげるのが究極の
> 方法なのかもしれません。
>
> 目が悪い人にはメガネ、耳の聞こえにくい人には補聴器、
> それならアスペの人には、世に出ている「エチケット百科」のような「コミュニケーション
> 辞典」みたいなものを作ったらどうだろうか、とハタと思いつきました。

森口奈緒美さんも、全く同じことを言っていました。本当にこれが必要な人って、たくさんいると思います。
でもねぇ、私やドナさんみたいに、あんまり早くに「世の中」辞典を作り上げすぎてしまうと、今度はそれに縛られて自分自身を抹殺してしまう。
「きみは一体いつ舞台を下りているの?」
「これほど長時間演技し続けることのできる人には、会ったことがないんだよ。」
(『自閉症だったわたしへ』P233)

やっぱりねえ、「世の中」のことを教えて、失敗をしなくてすむように指導しながら「ありのままの君でいい」って言ってくれる人が、身近にいないとダメなんですよ。


[982] Re[981][977]: そういう気持ちで…… 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/03(Mon) 13:01

> 泣いている子のそばにいるとその子以上に泣き出すのは
> 「共感」したと思われる事が多いのですが、
> これは「天使が消えた街」風美しい誤解ではないかと思います。

普通の意味での「共感」と言うと、「感情」の共有です。
けれど、私の場合は「同化」です。怒っている人を見ると怒ってしまう。笑っている人を見ると笑っている。そんなものです。

で、私が、生まれて始めて「共感」出来た人は、ウチの息子でした。「自閉症」の子供達が「自閉症」らしい事をしているのを見ると、とってもうれしくなります。


[981] Re[977]: そういう気持ちで…… 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/03(Mon) 11:08

1年生のとき、クラスの子が口ゲンカをすると、そばにいたうちの少年が
パニックになり、ケンカした当人はあっというまにけろっとしているのに
少年はしばらくしくしく泣いていたということがありました。

今年になってからも、班の女の子が別の子のきれいな髪留めを
A「ちょっと見せて」
B「……もう返してよ」
A「いやん、もうちょっと見せて〜」
それを見ていたうちの少年が「意地悪しないで〜〜〜〜!!」と
泣き出したそうです。

算数のプリントを解くのに時間のかかるお子さんをみんなで応援していたら、
そのお子さんが辛くなってしゃくりあげ始めた。
それでも何とかがんばって最後の問題まで仕上げて
みんなニコニコしたとたん、そばにいたうちの少年が「うわぁ〜〜」と泣き出したそうです。

泣いている子のそばにいるとその子以上に泣き出すのは
「共感」したと思われる事が多いのですが、
これは「天使が消えた街」風美しい誤解ではないかと思います。
それで今まで、吐いている人を見ているだけで吐き気がするのと同じような
生理的な不快の反応のように考えてきました。
(彼は優しいし、思いやりもある子です、念のため。)

>私の問題ではない。それは頭ではわかっているのに。
>なのに怖かった。そのときは、死んでお詫びしなくては、としか思えなかった。
>怖かった。

恐怖だったんですね。(ToT)


>人間が、交渉によって適当に決めればいいものであることを知っている。頭では。
>でも、言葉がまるで「自然科学の法則」のように絶対的なものに
>聞こえてしまうことは変わらない。
>だから、「両方が正しいなんて無理」と思って、
>世界全体が怖くなってしまう。
>
> 耳から入った言葉が、何でもかんでも「自然科学の法則」のように聞こえるから、たとえば誘われただけなのに「既に決まっている予定を教えてもらった」かのように感じてしまう。頼まれただけなのに「既に決まっている用事を教えてくれた」と感じてしまう。何かきかれたら、答えたくなくても答えてしまう。義務のように思えてしまって。


1組の王様は誰?と聞かれたら「僕で〜す。」といっちゃダメよ。
「王様は秘密だよ」と答えるのがルールだからね、と
朝、私が言ったことを守って、王様ドッジボールに参加した
彼の努力をもっとかわなくちゃいけませんね。


[980] コミュニケーション辞典!? 投稿者:komi 投稿日:2000/07/03(Mon) 10:19

色々なヒントがいただけて、大変ありがたく思いました。

結局どんなにスキルを積み重ねたとしても、最終的に「その場の雰囲気を読んだり」
「臨機応変に相手の表情を見ながら、対応を変えたり、言葉を選んだり」という領域
には到達できないのが、自閉症スペクトルというものの本質的なハンディなのかな、
という気がしました。

最終的に“臨機応変に対応を変える”という領域に到達できないのであれば、なるべく
アスペの子ども達が傷つかなくてすむように、マニュアルを作ってあげるのが究極の
方法なのかもしれません。

目が悪い人にはメガネ、耳の聞こえにくい人には補聴器、
それならアスペの人には、世に出ている「エチケット百科」のような「コミュニケーション
辞典」みたいなものを作ったらどうだろうか、とハタと思いつきました。

できるだけ視覚的にわかりやすいようにマンガ形式にし、右のページが回りから誤解
されやすい会話(失敗編)、左のページが摩擦を起こさなくてすむ会話(成功編)なんていう
編集にしてあったら、すごく助かるんじゃないだろうか。

こんなことを思ったのも、うちのPくんが自分の言動で回りを怒らせてしまうことが続いて
本人の方から「ぼく、“言っちゃいけない新聞”を作りたい」と言い出したからです。
我が子のケースで言えば、たとえば右のページに
来たばかりのお客さんに「いつ帰るの?」と質問して嫌な顔をされるマンガがあり、左に
「来てくれて嬉しいな。ずっといてほしいんだけど、いつ帰るの?」という誤解を受けない会話
が載っているようなのがあったらすごく便利だと思います。

そんなアスペの人対象の「コミュニケーション辞典」を、どなたか専門家の方が作って出版してくださったら、とても助かるのですが、夢物語でしょうか・・・。
色々なハンディキャップの人にメガネや補聴器や車椅子があるのと同じ感覚で、アスペの人にコミュニケーション辞典があってもいいんじゃないかな・・・。
それこそ色々なケースがあるでしょうから、ネットでみんなで出し合ったりして共同作業したら、
とてもいいものができるような気もするのですけど。(とりとめのないことを書いてしまって
スミマセン)

Pくんは2日前にもお化粧をしていないお母さんのことを、「あのお母さん、顔が真っ黒だね」
と言っていたので、またまたギョッとしてしまいました。(ご本人がいらっしゃらない所だった
ので良かったですが)

Pくんは自分が言ったことで回りが傷つくことが多いので、「担任の○○先生は美人だね。
だけど、ぼく○○先生に美人って言ってないよ。言わない方がいいよね」と、言っても構わない
ことの判断がつかず、混乱しています。
きのうは飼い犬が犬小屋の前でウンチをしてしまったのを見て、「うわぁ,汚な〜い!・・・・・
あ、シロ傷ついた?ゴメンね。・・・お母さん、ぼくシロを傷つけちゃったから謝ったよ。謝ったら
ウンだって。」
というような、思わず笑いが出てしまうものもありますが、本人はとても真剣です。

それから、megumiさんの書き込みを見て、思わず共感してしまいました。

>過保護だ、考えすぎだ、第一差別者だと言われて

この一文に、やはり同じ経験をしてこられたんだなぁと何ともいえない思いが込み
上げてきます。
「普通の子なのに、親が障害児にしたがっている。」なんて話も聞こえてきたりして、
ならば回りに言わない方がいいのか、と悩んでしまいます。
目に見える障害なら、こんな言われようをすることはないのにね。

本当に、「君が教えてくれたこと」をきっかけにして、世の中が自閉症スペクトルの
存在にもっともっと理解を示して欲しいと思わずにはいられません。
(いつも長文で申し訳ありません)


[979] そう、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/03(Mon) 08:59

人が二人以上いて、それぞれが違う意見を言っているという状況を、見ているだけで混乱してしまうんです。


[978] Re[976][974]: 通訳 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/03(Mon) 08:46

> そこで、その原因に「自閉性の障害」があって、黙らせることはできなくても、少なくとも時と所をわきまえる事を学習して行かないと、後々それが全部トラウマになって、もともと上手くない人間関係が更に悪化してしまうのです。
> つまり、この場合は、それが本人を守る事になるのです。臨床像が違えば、対応の仕方が違うということで、ご理解下さい。

流暢ならなおさら……と書きかけて消したんですよ。
2年前に、みんなでトン汁を作ったときに
「このトン汁には砒素もアジ化ナトリウムも入ってませんよ〜。
美味しいですよ〜。」という笑えない冗談を繰り返している子がいて
担当の先生も親も、「そんなこといわないで」と声をかけただけだから
全然やめないの。言っている事は正しいけれども、今ここでそれを
言いつづけることはふさわしくないことを教えてあげればよかったですね。

6/29のNHK「今日の健康」でも言っていたように、

本人に対して……
 具体的な社会行動を教える
周囲に対して……
 症候群の特徴をよく理解してもらう

両方への働きかけが必要だと思いますが、どちらも難しいです。


[977] 自分ができていない 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/02(Sun) 23:38

やってしまいましたよー、またしても。

今日、実家の父の定年退職のお祝いで、両親と、私たち夫婦と、4人で食事に行ったんですよ。夫は、父が主賓なんだから自分が招待したつもりでいた。父は、退職金が出たばっかりだから自分が払おうと思っていた。そこで、食事が終わって、夫と父の間で勘定書きの奪い合いが始まった。どこでもある話ですよ。ところが、

>「見たもの」「読んだもの」「聞いたことば」がそのまま自分になってしまう

という段階の私は、もうだめだー死んでお詫びしますー状態。でも、母の前で頭や顔を叩くとこっぴどく叱られるし、使用済みのフォークとかナイフとかはあまり使わない方がいい(感染症を起こし易いから)し、しかたがないからテーブルの下でお腹の皮を思いっきりつねり上げて耐えるしかなかった・・・ 

勘定書きをひったくり合う男二人と、眺めている母は、まだ余裕があったらしい(と夫に後できいた)。母なんか、ほほえみながら、まるで余興のように眺めていたらしい(と夫に後できいた)。でも私には、他の三人には余裕があることがわからなかった。事態が緊迫していないことがわからなかった。

父が払おうが夫が払おうが、私の問題ではない。それは頭ではわかっているのに。なのに怖かった。そのときは、死んでお詫びしなくては、としか思えなかった。怖かった。

年中さんのとき、年長さんが二人で「サンタクロースはいる」「いや、そんなのいない」と論争しているのを目の前で見たときと同じ恐怖。もっと小さいとき、父と母が、荷物を前に「重すぎるだろう、ぼくが持つよ」「いいや、私でも運べる」と言い合うのを見たときと同じ恐怖。

論争していたのは二人とも年長さんなのだから、年中さんである私より年上。だから賢いはず。だから正しいことを言うはず。なのに、「サンタクロースがいる」と「サンタクロースはいない」が両方とも成立するなんてあり得ない。

父も母も大人なんだから何でも知っているはず。なのに、同じ荷物が「母には重すぎる」と「母にも運べる」が両立するなんてありえない。どうしよう。父か母かどちらかが、嘘つきになってしまった!

そのときと同じ感覚。

私は大人になったのだから、もう、「誰が払うべき」というのが「自然科学の法則」でも「宇宙の真理」でもないことを知っている。人間が、交渉によって適当に決めればいいものであることを知っている。頭では。でも、言葉がまるで「自然科学の法則」のように絶対的なものに聞こえてしまうことは変わらない。だから、「両方が正しいなんて無理」と思って、世界全体が怖くなってしまう。

耳から入った言葉が、何でもかんでも「自然科学の法則」のように聞こえるから、たとえば誘われただけなのに「既に決まっている予定を教えてもらった」かのように感じてしまう。頼まれただけなのに「既に決まっている用事を教えてくれた」と感じてしまう。何かきかれたら、答えたくなくても答えてしまう。義務のように思えてしまって。

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[976] Re[974]: 通訳 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/02(Sun) 21:59

> うちの子は話し言葉に流暢さがないので、同じことを言ったり
> したりしていても、風当たりはましだと思います。
> それでも、やはり傍にいて血の気が引くようなことはあるんですね。

あの〜、それがですねえ。積極奇異型のアスペの場合、それが一日中続くのですわ。なにしろ、もっのすごーいおしゃべりなもので。それで、いろいろと差し障りが出まして…。
それで、親がアスペのことを知らないでいると、口を開けば叱られることになります。でも、本人は何の深い意味もなく頭に浮かんだこと(思ったことというよりも、それ以前の事)をただベラベラしゃべっているだけなので、どうしてだか分からないのに叱られる状態が慢性的に続く事になってしまうのです。
そこで、その原因に「自閉性の障害」があって、黙らせることはできなくても、少なくとも時と所をわきまえる事を学習して行かないと、後々それが全部トラウマになって、もともと上手くない人間関係が更に悪化してしまうのです。
つまり、この場合は、それが本人を守る事になるのです。臨床像が違えば、対応の仕方が違うということで、ご理解下さい。
(私が息子にウルサク言うのは、ひとえに自分の失敗経験を繰り返させないためです。)


[975] あ、いや 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/02(Sun) 20:08

>過保護だ、考えすぎだ、第一差別者だと言われて

面と向かってはっきりこういう事を言う人はいませんが
私は心の理論過剰適応(被害妄想?)気味なもので。


[974] 通訳 投稿者:megumi 投稿日:2000/07/02(Sun) 20:04

うちの子は話し言葉に流暢さがないので、同じことを言ったり
したりしていても、風当たりはましだと思います。
それでも、やはり傍にいて血の気が引くようなことはあるんですね。

それで、療育センターを出る前にkomiさんがなさったような
質問をしたんです。
(komiさんほど、冷静に観察分析してソーシャルスキルトレーニングに
結びつけようと建設的に考えていたのではなくて、
ただ、困惑している……という、とほほ状態だったのですが。)

そうしたら、全面的に子どもの側に立っている園長先生は
「お子さんは**で☆☆で&&という状態だからそのことを
相手にわかってもらうように説明してください」とおっしゃいました。
正直なところ、私も周りのお母さんたちも目が点になって、
「はあ……」とうなずいたあとで、
(子どもに対してどうしろこうしろというのはないのかぁ……)と
頭の上に「?」をいっぱい飛ばしたものでした。

>「わからなくていいんだよ、わかる感覚がないんだから、
>わからないのは自分のせいじゃないんだよ。
>代わりに、別の方法を使って暗記したり、計算したり、
>測ったりして補えばいいんだよ」

それがどういう「別の方法」かは人それぞれなのでしょうが、
それを考える手伝いは私にもできるだろうと思うのです。

そして、それを編み出すまでの教習期間をできるだけ平和にするために
周囲の人に理解を求めることは本人ひとりではできないことでしょう。
過保護だ、考えすぎだ、第一差別者だと言われて
へこんでしまわなくて済んでいるのは
自伝や、ネット内で発言して下さっているご本人の皆さんのおかげです。


[973] そうねぇ、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/02(Sun) 18:32

係わられても影響されないとか、聞かれても答えないとか、ついついポロリと実直な感想を言いたくなる衝動を押さえるとか、危険な人物を回避することもソーシャルスキルなのだろうけれど…。
これが、一番ムズカシイ!


[972] Re[945][939][934]: いや、その前に、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/02(Sun) 15:15

>
> 繭子の場合は、ドラマの進行上、はじめから「かかわり障害」が除外されていましたが、実際にはこれが一番重要で深刻な問題のはずです。つまり、子育ての最初の頃は、係わることが出来ない・係わり方がおかしいというところから取り組まなければなりません。

結局、繭子が美しすぎる、可愛らしすぎる、あれと比べられたのでは現実の私の立場がない、って思えたのは、そのせいだったのかもしれません。

「人とのかかわりかたが変」っていう人は、あんなに可愛く見えないのですよ。

ふつうの視聴者が、繭子が可愛い、純粋、けなげと誉め称えるのを公式サイトの感想欄で見るたびに、「繭子がエリートになっていくー」と思っていたんでしょう、私は。

ふつうにしていたら「人をモノ扱いしている」「自分のことしか考えていない」「わがまま」「冷淡」と叩かれ続け、しかたがないからとりあえず人を大事にするテクニックを身につけてそれを忠実に実行すると、今度はそれを本気にした人にほめられるので、「自分は人を騙しているだけ」「買いかぶられているだけ」「いつボロが出るだろう」「本当は冷たいのに」と怯えて暮らさなければならない。それが私の現実なのに。

繭子は「冷淡」と叩かれたりしていない。「買いかぶられているだけ」と怯えたりしていない。

コンピュータが使えるからとか、天気予報ができるからとか、そういう意味で夢物語なのではない。最初から、「人間をモノ扱いしてる」と責められるようなスキを見せてないことが、私から見たら、夢物語なんです。

その割に、私は繭子よりも「できないこと」が少ない。丸暗記と視覚認知と掃除を除けば、きっと繭子より能力は高いんでしょう。一応、外食だってできるし、そう簡単にパニック起こさない(実際、めったに起こさない)。吃音もないし、それどころか早口で憎たらしく理屈をこねまくる(おまえはバルカン星人か! なんて言われたもんです。なんたって口癖は「非論理的です」と「時期尚早です」だったんだから)。

やはりドラマの中の障害者は、可愛く、けなげでなくてはならないのか。だとしたら、「可愛くない」のが障害っていう人は、嫌われるばかりじゃないですか(私は、複数の人の証言によれば、容姿や声が比較的可愛らしいらしいので、そのおかげで迫害は緩和されているともいえるし、一方、そのおかげで困難が覆い隠され、内部で矛盾が広がっているとも言える)。

それに、断るべきことを断り、怒るべきところで怒るという能力が身についたら(どうやって身につくのかさえわからないんだから、いらない心配かもしれないが)、なおさら可愛くなくなるんでしょうね。

http://web.archive.org/web/20011006202048/http://member.nifty.ne.jp/unifedaut/


[971] それでも、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/02(Sun) 13:05

ひとりでできる仕事を選んで、伝達手段も選べば、どうにか、何とかなるものです。

人の気持ちだって、実感できなくたって、理屈を覚えれば頭で推測くらいはできるようになるものです。

でも、それをしようと思ったら、みんなとは違う手段を採用しないといけません。そのためには、自分がみんなとは違うってことを、恥ずかしがらずに「ただの事実」として認めないといけません。

現実的な生活設計をするためには、自分に何ができて何ができないかという情報は必要だし、「心」がそれを認めていないと、せっかく情報があっても活用できないのです。

私はどうにか生活を組み立てたけど、だから、ハタから見たら「何の不自由もないくせにナニ贅沢言ってる」ってなものでしょうけど、後は、自分の身体と自分の気持ちだけがついて行ってない。「自分」というものがまだできていない。「見たもの」「読んだもの」「聞いたことば」がそのまま自分になってしまう。そうすると、相反するふたりの人の意見を読んだりするだけで(第三者と第三者の論争を見物するだけで)、自分が二人になって殺し合いを始めてしまう。たとえ読んだ論争自体は冷静で楽しげなものであったとしても。

とりあえず、「やだー」という練習、とか、十分水を飲む練習、とか、荷物が重すぎるかどうか考える練習、とか、「これがほしい〜」と感じる練習とか、そんなことをモタモタやっているところ。あと、「これは私ではない」と思えるようになる練習なんてないものだろうか。

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[970] Re[968][964][963][962][951]: 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/02(Sun) 12:40

> だいたい、本を読んで「自分はこれだ」と思うのとは別の型だと考えた方が良いです。

いや、別にどうだっていいんですよ。素人診断したいわけでもないし。今さら子どものときのことなんか知ったところで、何の役に立つわけでもないし。

「大人をナメてる非常識で失礼な子ども」が「世の中をナメてる非常識だけどびくびくしている大人」になっただけですから。

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[969] 下の補足。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/02(Sun) 07:05

それはね、「自分が何をしていたか」じゃなくって、「自分がどのように人と係わっているか」ということなので、第三者的な視点で見ないとわからないものなのです。


[968] Re[964][963][962][951]: 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/02(Sun) 06:57

> それはそうと、自分は本当にウイングさんの分類ではいったい何なんだろうとずっとわけわかんなかったのも確かです。

だいたい、本を読んで「自分はこれだ」と思うのとは別の型だと考えた方が良いです。
私は、「受動型」だと思い込んでいましたが、「受動型なわけない!」って、思いっきり笑われました。


[967] Re[965]: ソーシャルスキルトレーニング 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/02(Sun) 06:47

> 「そのままの君でいい」という大前提と、ソーシャルスキルトレーニングとの関係ってどう考えればいいんでしょうね。

「そのままの自分」がどういうものだか分からなければ、何をどう気をつけて良いのか分からずに、ただ「自分が悪い」と思い込むしかなくなってしまいます。
例えば、「いま・ここで言ってはいけない」と言われるのと、単に「そんなことを言ってはいけない」と言われるのとでは、本人にとっては全く違う結果になるってこと、分かりますか?
「いま・ここで言ってはいけない」というのは、状況判断ができていないことを注意されることです。でも「そんなことを言ってはいけない」の方は、そんなことを言う自分自身を否定されることになります。

「障害」と名のつく困難さをというのは、ちょっとやそっとのことで消えてなくなるようなものではありません。何度も何度も同じ失敗を繰り返し、何千回も何万回も同じことを言われ、それでも全然変わらない。そういうものです。
「もともとできないものを、できるようになれ!」と要求されると、出来ない自分を責めるしかなくなってしまいます。けれど、「何が原因で・どういうことができなくて&どういうことが分からなくて・どんなことをしてしまうのか」が分かっていれば、少なくとも自分自身を否定しなくて済みます。
それは、「自力で出来なくても、人に聞いて・人に教わって出来るようになれば良い」ってことなのです。


[966] Re[965]: ソーシャルスキルトレーニング 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/02(Sun) 00:39

今は元気がないので簡単に書きます。

「そのままでいい」というのは、いろんな方便を覚えなくていいということではなく、方便を効果的に覚えるための基本だと思ってください。

日本のマナーを知らなくて、守れないでいる外国人がいたら、マナーを教えなくていいのでもなく、日本人扱いして日本語でマナーを教える(あるいは、「日本人のくせに何でこんなことも知らないのだ」と怒鳴る)のでもなく、その人の国の言葉で日本のマナーを教えること。それが、「そのままでいい」と認めることにあたると思います。

「ありのままの姿」を認めなかったら、「こんなのわかって当然」「わかってて守らないのはワガママ」という判断になってしまいます。それでは、ふつうは自然にわかることを、わざわざ具体的に教える必要性を認めることができません。

「わからなくていいんだよ、わかる感覚がないんだから、わからないのは自分のせいじゃないんだよ。代わりに、別の方法を使って暗記したり、計算したり、測ったりして補えばいいんだよ」

これが、「そのままの自分でいいんだよ」の解釈です。

ドラマの最終回で、繭子は会社で、「あっちって、どっちですか?」ときき返しました。

これが、「そのままの自分でいい」ということです。

繭子は、普通になろうとしていたときは、「あっち」と言われただけでわかるようにならなくてはいけない、と思い込んでいたので、聞き返さないように努力していました。その結果、かえってミスをして、みんなに迷惑をかけてしまいましたね。

「そのままの自分」を認められないと、「自分に合った方便の学びかた」を採用できないので、結果的には、かえってソーシャルスキルが身につかないことになってしまうのです。

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[965] ソーシャルスキルトレーニング 投稿者:komi 投稿日:2000/07/02(Sun) 00:13

ペンギンさん、フリーラジカルさん、Lingkoさん、色々なご意見を聞かせて下さって
ありがとうございました。
Lingkoさん、突然飛び込みでこのような質問をしてしまった失礼をお詫びします。
過去を思い出して身を切られるように辛い、とおっしゃる皆さんのコメントを読んで
配慮が足りなかったことを反省しています。(そこに気づけない私もやはり身の縮む
思いでした)

 ただ、親としては、我が子が他人に誤解されたり、クラスの子にうるさがられたりする
様子を見るのは本当に辛いものがあります。高機能自閉の8割〜9割がいじめの経験
があるという話も聞きますし、何とか我が子が回りから疎外されず、穏やかな気持ちで
毎日を送らせたいと思うと、ついつい「なんとかソーシャルスキルを身につけてほしい。
そのためにはどんなスモールステップがあるのだろう?」とご意見を伺いにでてきてしま
ったのでした。
こういう思いにとらわれているのも、子どもが小4という回りの子どもの精神的成長との
ギャップを感じてしまう年齢に差し掛かっているせいかもしれません。
親から見ていると、「あぁ、あれ以上言ってしまうとまたうるさがられる」とか、「あぁ、また
自慢に受け取られてしまう。」とかハラハラしてしまい、友達が遠ざかってしまうようなセ
リフはなるべく言わせたくないという親心がついつい出てきてしまうのでした。
本人はいたって無邪気で、何の悪気もなく、友達と遊びたい気持ちも十分にあるだけに、
本人がわけもわからないまま「今日は遊べない」と言われた時などは胸が痛みます。

「君が教えてくれたこと」の中で「そのままの君でいい」という、とても大事なキーワード
とも言えるような言葉が出ていましたが、
フリーラジカルさんの、
>ただ、この障害が知られるに至って、「貝」になってしまった仲間達がどれほどいるか
>と思うと、胸が痛い。それまでの自分の「自然な在り方」を恥ずかしい「障害」と思うよ
>うになった仲間のことを。

ペンギンさん、
>これが「障害」だと知ったから「貝」になる人もいれば、こういう「障害」があると知らなく
>て「貝」になってしまった人もいます。

の言葉が重く響きます。

「そのままの君でいていい」「そのままの自分でいい」という言葉が大切な幹の部分とし
てあるとしても、ソーシャルスキルトレーニングというものがあちこちで行われ、ソーシャル
スキルトレーニングの重要性がセミナーで話されたりする。
ある先生に「ボーダーの子であるなら、余計にソーシャルスキルには力を入れた方がいい
よ」と言われたこともあり、親としては最善を尽くしたいとついつい思ってしまう。

でも、「ぼくが悪いんだよね、きっと」と言うセリフを言ってしまう我が子の姿もすごく悲しい
です。
いっそのこと、本人の言動で回りから疎外されてしまったとしても、あれこれいじることなく
天真爛漫に生活してもらうのがいいんじゃないかという気もする。

「そのままの君でいい」という大前提と、ソーシャルスキルトレーニングとの関係ってどう考
えればいいんでしょうね。
(私自身気づかないだけで、文中やはり無神経な部分があるかもしれません。お許しいた
だけるとありがたいです)


[964] Re[963][962][951]: 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/02(Sun) 00:10

> Lingkoさんへ
>
> > これを読んで、なんだか私は積極奇異型だったような気がしてきました(ほんとのとこは分かりませんが)。
>
> 何でも自分のことだと思うことはありませんよ!

ありがとう。頭ではわかっているのですけどねー。(9)番の症状(?)がそのまんま襲ってくるって感じです。頭でわかっているっていうのと、振り払う力がある、っていうのとは、別のことなんですよね。

それはそうと、自分は本当にウイングさんの分類ではいったい何なんだろうとずっとわけわかんなかったのも確かです。10歳以前にやらかしてたことを思い返したら、品目(つーか内容)は積極奇異型とそっくりだけど、エネルギーレベルは極端に低かったような。

> それに、ここは謝るところではありませんから、心配しなくて良いですよ。

うんー、ありがとうございます。頭でわかったつもりでも、何度も何度も言われないと身にはつかないんですよね。

そういう意味で、ドラマの中では「君は悪い人間じゃない」っていうのを、たった1回言われただけで納得するっていうのは、とても変。まあ、繭子も謝りまくってますけどね。

でも一般の視聴者は謝る繭子がすきなのかもしれないって思うと、私がいつか回復して、健康になって、謝り癖が治ったら、いま以上に嫌われることになるんでしょうね。

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[963] Re[962][951]: 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/01(Sat) 22:01

Lingkoさんへ

> これを読んで、なんだか私は積極奇異型だったような気がしてきました(ほんとのとこは分かりませんが)。

何でも自分のことだと思うことはありませんよ!
それに、ここは謝るところではありませんから、心配しなくて良いですよ。


[962] Re[951]: 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/01(Sat) 21:30

これを読んで、なんだか私は積極奇異型だったような気がしてきました(ほんとのとこは分かりませんが)。

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[961] Re[949][936][920]: 「障害」か「個性」か? 投稿者:如月 投稿日:2000/07/01(Sat) 21:01

> もともとは、「自分の下す判断が、間違っていることが多いのではないか」という「統計学的判断」だったんです。

 どう考えてもわからないのでお聞きします。もともとの統計学的判断が今は感情的なものに変わったのでしょうか。それとも何か別のものに変わったのでしょうか。
私も何か問題が起きた場合には、まず自分に問題があるとして先に謝ってしまいます。それが統計的に正しいからです。ところが世の中には奇特な人もいて、待ち合わせをして会えなかった時に、理由も確かめる前に私が謝ったという話を聞くと、「その人は偉い、人間が出来ている。自分が悪くても謝らない人が多いのに」と言ったそうです。なんとまあ美しい誤解なのでしょう。
しかし謝りながらも能天気な性格なのか、9割こちらに責任があるとしても、1割は向こうにも非があると思っています。機械や物に対してならば、100%自分の責任としていますけれど、人間が相手の場合はある程度御互い様だよ、と認識しているのです。俺と待ち合わせをする人間ならば、当然会えない可能性を予測しているだろう、と考えるからです。会う会わないの選択権は向こうにあるのだから、不首尾に終わったとしても自己責任だよね、が基本認識です。
こんな発想を自己中心的と言うのでしょうか。故意であるかないかに拘わらず、意図に反して傷つけてしまうのは御互い様なので、全て自分に責任があるとしてしまうと事実認定に誤りがある、と思うのです。
ここの掲示板に書かれていることは、だいたいあああれか、と文章を深く読まなくてもわかるのですが、この件については五里霧中で、見当違いのことを書いているような気がします。


[960] それから、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/01(Sat) 20:59

○の中に数字、っていうのは、機種によって見られない人もいます。

みなさん、お互いに機種依存文字には気をつけましょう。


[959] Re[951]: 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/01(Sat) 20:45

> はじめて書き込みさせていただきます。(sipponaさん、いつもお世話になります)

> ドラマとは話がそれますが、ここの掲示板には高機能自閉ご本人の方が多いような
> ので、何かアドバイスがいただけたらと思い、書き込みさせていただきました。
>

読んだだけで、(9)の状態になりました。「ごめんなさい。もうしません」しか言えません。

もう少し、ゆっくり時間をかけて、何か月もドラマの話などしながらお互いの状況や子どもさんの年齢などを少しずつ知り合って、その先にこういうご質問が出てきたのであれば、まだわかるのですけれど・・・

これでは、「あの掲示板は、本人が多いから、あそこできけばいいだろう」と急に思い立って来られたのと区別がつきません(本当はずっとROMしておられたのかもしれませんが、これだけではわかりませんから)。

それに、この質問に答えられるのは、本人だけというわけでもなく、経験さえあるなら、親御さんでも、学校の先生でも、お医者さんでも構わない質問という気がするのに、「ご本人の方が多いようなので」と言われたのでは、本人だけを指名されている感じがします。

確かに、「後に続く子どもたちが、周りの人にわかってもらえるようになるお手伝いができる」ということを心の支えにして、どうにか「こんな自分でも生きていてもいいんだ」と自分に言い聞かせることができている私ではありますが、

それでも、子どものときの恥を思い出すのは、毎度毎度、身を切られるような辛さでもあるのです。

何というか、あまりこのようなことが続くと、安心して見られる、安全な掲示板と思えなくなります。「あのときも、あのときも、いろいろドラマをネタに語り合った誰某さんのお子さんの、○○ちゃんのため」っていうのと、「あそこは本人が書き込んでいるそうだから、あそこできいてみようかと思い立って来られた人にきかれて」というのでは、だいぶ痛さが違うのです。


[958] すいません、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/01(Sat) 20:15

「誤まり」→「謝り」の誤まりでした。


[957] Re[951]: 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/01(Sat) 20:13

ちょっとは冷静に見れるようになったので、答えます。
これは、私が長男にしていることです。(「自分のことを棚に上げて、人の事だと思えばベラベラしゃべれる理論」で書きます。)

> @他人の会話に割り込んでうるさがられる。(友達にしょっちゅう「うるさい」と言われています。)
→「ちょっと待って、今、○○君がしゃべっているから」と止める。
 分かりにくかったら、何らかのジェスチャーや合図を決めておく。

> A人が集中してテレビを見ている時に、相手の状態を推し量れず、テレビの場面で疑問に思ったことを何度も話し掛けてくる。
→始めから、一緒にテレビを見ると質問されることを覚悟しておく。
 集中して見たい番組は、一緒に見ない。
 聞かれる頻度が低ければ、「今、テレビを見ているから黙って」と言う。

> B自分の感情をすべて表に出してしまうので、自慢したい時に思いっきり友達に自慢してしまい、嫌がられる。
→まず、これは自慢ではないことを理解して下さい。
 思ったことを口にしているだけです。でも、自慢としか聞こえない。

> C自分も同じような間違いをすることがあるのに、友達が失敗した時やよくないことをやっている時に、偉そうに注意をしたり、先生に言いつけたりして嫌がられる。
→とりあえず、ただ、その行動についてだけ注意する。
 「自分のことを棚に上げている」という発想はありません。

> D人のマイナス部分を思ったとおりそのまま口にしてしまうので傷つけて人間関係をまずくしてしまう。
> E人の話を最後まで聞かず、関係ない話を始めてしまう。
> F「内緒だから誰にも言わないでね。」と友達に言われた秘密を、ベラベラ人にしゃべってしまい、嫌がられる。
> G来客が来た時に、本人は嬉しくてずっといてほしいために帰る時間が気になり、(たぶん見通しがほしいため)、すぐ「何時に帰る?」と聞いてしまう。
→とりあえず、ただ、その行動についてだけ注意する。
 その理由は、「いま・ここで言うことではない」ということ。
 とにかく、ひたすら「思ったことを口にしているだけ」です。

> H自分の言動の何が人を怒らせ、どんな言動が人間関係をまずくしているのかわからないため、友達が怒った時に片っ端から謝ってしまう。
→それが分かれば苦労しない!(私も、未だにわからない。)


> これらのトラブルをできるだけ避けるために、ソーシャルスキルトレーニングをしなければと
> 接していると、今度は一つ一つの自分の行動に自信が持てなくなって、一々確認してきたり、「ぼくって悪い子?」「ぼくがきっと悪いんだよね」と自己否定的になってしまう。
→これは、地道な闘いです。
 僕が悪いんじゃなくって、そういう〈障害〉なんだから仕方がない。
 その〈障害〉は、自分ではどうしようもないのです。
 けれど、一つ一つの場面で少しずつ覚えていくことができます。
 これを、何度でも何度でも言いましょう。

今はまだ、自分のやっていることが自分で分かっていない時期です。
もうちょっとすると、自覚できるようになります。でも、それで落ち着いたから良いというものではありません。
これが「障害」だと知ったから「貝」になる人もいれば、こういう「障害」があると知らなくて「貝」になってしまった人もいます。
どっちにしても、「なんかオカシイ気まずさ」は消えることはありませんから。

でも、私はもう一つ言います。
「世の中には、アスペの人が何万人といる。もし自分のことを悪い子と言うのなら、世界中のアスペの人をバカにすることになる。今から、その一人一人に誤まりに行くか!?」


[956] 天使が消えた街が終わって。 投稿者:圭ちゃんのママ 投稿日:2000/07/01(Sat) 19:56

自閉症の20歳の息子を持ち、仕事も結構忙しいので全部は観られなかったですが、テレビという事で視聴率を稼がなくてはならない立場もあるのでしょうがかなり現実離れしたストーリーが少し気になりました、自閉症といっても100人いれば100人の個性、現にわが息子は文字を覚える能力、ワープロ、パソコン等は結構使えるのですがお金の価値観等はだめ、逆に計算とか音楽にものすごい才能を発揮する人もいるし、2〜3歳の子より手のかかる人もいます、・・・天使が消えた街の中で気になったのは、のりピーのせりふ「本人が入りたくなければ施設には入れない。」「病気じゃないから病院にはいけない・・・」というような言い回しがありましたが、彼らには生活面対人関係、身体的(発作を持つ人もある)等々広範囲な保護を必要とする人も多く、それに比較して入所施設があまりにも少なく、病院というと精神科の範囲に送り込まれてきたのが現実、東京都などは知的障害の施設があまりにも少なく、他県の脆弱な施設に頼っているのが現実、我が県の倍率がきつく地元の人がなかなか入れないところにも割り込みしているのが現実ですよ、石原さん。


[955] Re[954][951]: 訂正 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/01(Sat) 19:05

>私にとって普通の人の「常識」は退屈なものなので。

退屈というのは誤りでした。言葉の上では理解できても、どうしてそれが常識になるのか理解できない、という意味です。何が常識かも諸説紛々なので。


[954] Re[951]: 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/01(Sat) 17:04

ひゃ〜〜!!目の痛くなるリストアップですねえ。今現在も、このまんまの私ですが。知ってても「治らない」ので。
私にとって普通の人の「常識」は退屈なものなので。

とりあえず対症療法としては
「おまえの話すことは相手の注意に値しない。黙っとれ。」と
「他人を信用するな」
とでも言っておけば、口にガムテープを貼っとくのと同じ効果があるかな。

あ、いや。皮肉じゃないんです。私にもkomiさんのお気持ちは分かりすぎるほどに分かります。私だって、子供の人格がど〜でも良ければガムテープを貼っておくところです。簡単ですから。

ただ、この障害が知られるに至って、「貝」になってしまった仲間達がどれほどいるかと思うと、胸が痛い。それまでの自分の「自然な在り方」を恥ずかしい「障害」と思うようになった仲間のことを。

ふう〜。ごめんなさい。真面目に考えます。何かいいヒント、思い付いたら書き込むことにします。


[953] Re[943]: わかる 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/01(Sat) 15:53

> ただ、「人のことをわかろうとすれば、人も私のことをわかろうとしてくれる」と
> 繭子に言わせたのは、疑問です。

よく考えたら、前に私が書いていた「心の中に入る」とは、大抵の場合、これでしたねえ。
だから「人のことをわかろうとすると、『心の中に入ってきた』と怒られる」ってのが正解だと思う。
繭子じゃないけど、「分からないから、訊いてるのに。」


[952] とりあえず、komiさんへ。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/07/01(Sat) 11:18

↓の書き込みは、まるでかつての私のことが書いてあるみたいで、息苦しくなってしまいます。(従って、パッと見しかしていない。)

ところで、『ガイドブック・アスペルガー症候群』は読みましたか?

こんなにいっぺんに「障害」の核心部分に当たる事柄を並べられても、どう説明して良いか困ってしまいます。まずは、どうしてそういう行動をするのか理解することから始めてください。
一般的な常識の説明を本人に通じない言葉でしても、意味が通じなくて納得が出来ないということが多いのだと思います。


[951] 積極奇異型のソーシャルスキル 投稿者:komi 投稿日:2000/07/01(Sat) 08:26

はじめて書き込みさせていただきます。(sipponaさん、いつもお世話になります)
「君が教えてくれたこと」はとても評判が良かったみたいで、ひょっとして続編が
できるのではないかと期待しています。

我が家には小4の広汎性発達障害と診断されている息子がいますが、Wingさんの
本などを読むところによると、たぶん積極奇異型に入る子どもなのだろうと思ってい
ます。
ドラマとは話がそれますが、ここの掲示板には高機能自閉ご本人の方が多いような
ので、何かアドバイスがいただけたらと思い、書き込みさせていただきました。

@他人の会話に割り込んでうるさがられる。(友達にしょっちゅう「うるさい」と言われています。)
A人が集中してテレビを見ている時に、相手の状態を推し量れず、テレビの場面で疑問に思ったことを何度も話し掛けてくる。
B自分の感情をすべて表に出してしまうので、自慢したい時に思いっきり友達に自慢
してしまい、嫌がられる。
C自分も同じような間違いをすることがあるのに、友達が失敗した時やよくないことを
やっている時に、偉そうに注意をしたり、先生に言いつけたりして嫌がられる。
D人のマイナス部分を思ったとおりそのまま口にしてしまうので傷つけて人間関係を
まずくしてしまう。
      例:「あの子はかわいくない」「あの子は頭が大きい」など、思ったことをすべ
        て口に出してしまうために友達に嫌がられるので、「そういうことを言うと、
        お友達は傷つくんだよ」「Pくんが同じようなことを言われたらどう思う?
        人を傷つけることは言ってはダメ」というと、「じゃあ、今度から、“あの子は
        かわいい”って言うね」「あの子は“頭が小さい”って言うね」と、誰が見て
        も見え透いた嘘とわかることでフォローしようとする。
E人の話を最後まで聞かず、関係ない話を始めてしまう。
F「内緒だから誰にも言わないでね。」と友達に言われた秘密を、ベラベラ人にしゃべ
ってしまい、嫌がられる。
        ※どんなに「秘密を口に出してしまっては、お友達に嫌われる」と諭しても
         「じゃあ、ぼく、“○○君が△ちゃんを好きなこと”を言わないね。」
         「ぼく、“○○君が△ちゃんを好きなこと”を絶対言わないよ」
         と、△ちゃん本人の前で確認するように言ってしまう。(秘密になってない)
G来客が来た時に、本人は嬉しくてずっといてほしいために帰る時間が気になり、(たぶん
見通しがほしいため)、すぐ「何時に帰る?」と聞いてしまう。
お客さんは玄関でいきなり「何時に帰る?」と聞かれるため、追い払うような質問をする失
礼な子どもだと誤解する。
H自分の言動の何が人を怒らせ、どんな言動が人間関係をまずくしているのかわからない
ため、友達が怒った時に片っ端から謝ってしまう。(中には実際相手が悪いケースも含まれ
る様子)

ざっとこんな感じです。
これらのトラブルをできるだけ避けるために、ソーシャルスキルトレーニングをしなければと
接していると、今度は一つ一つの自分の行動に自信が持てなくなって、一々確認してきた
り、「ぼくって悪い子?」「ぼくがきっと悪いんだよね」と自己否定的になってしまう。
自己肯定感を持たせることがとても大切なこと、というのを重々承知しているのですが、
本人の素のままにしておくと、前述のように友達とのトラブルが絶えないので、どうしたもの
かと思案しています。
どんな些細なことでも、ヒントをいただけるとありがたいです。よろしくお願いします。           


[950] Re[936][920]: 「障害」か「個性」か?補足 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/01(Sat) 03:41

で、下の補足です。

最初に「私と二人だけで」遊びに行くつもりでいた同僚の気持を、私は察することができなかったわけです。ホント、「ココロの理論、ココロの理論」・・・。

こうやって、何人かのココロを気付かずに踏みにじってしまった私は、「無神経な自分」を否定するに至ったわけです。懺悔。懺悔。


[949] Re[936][920]: 「障害」か「個性」か? 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/07/01(Sat) 03:34

えっと、如月さん、私が終始言ってる「自己否定」って、そんなに感情的なものでは、もともと(←ここが重要)なかったんですよ。
もともとは、「自分の下す判断が、間違っていることが多いのではないか」という「統計学的判断」だったんです。

でもこの「間違って」という部分に落とし穴があった。
自分以外の人の判断が自分の判断とは違う、という二元論から、すぐに「間違って」ということになってしまった。自分の判断と、それ以外の人の判断とでは、絶対数で異なる確率が高かった。
「自分以外の人」同士の間でも意見が(相当の確率で)違う、ということに気がつかなかった。いや、気がついていたとしても、「自分対他者」という二元論にすぐ結び付いてしまう思考回路なんですよねえ。

情けない、分かり易い実話を以下に。
前に働いていた職場で、ある同僚と郊外のテーマパークに遊びに行く話をしていたときのことです。別の同僚がその話を聞きつけて、「どうして他の人も誘ってあげないの。みんなで行けばいいのに。」と私に言ってきました。「みんな?」って、どれくらいのみんな?

分からなくなった私は女性社員を片っ端から誘いました。
すると最初の同僚が言いました。「あなたと二人で行きたかったのに。こんなにたくさん、行くことになっちゃって・・・。」

私は真剣に(笑)思ったものです。「みんな、意見を統一してくれえ〜、分かりにくいじゃないかあ〜。」

人にはそれぞれ固有の意見がある。
それが言葉で分かっていても、日頃の思考様式にはなかなか反映されない。
自分の実体が最初からゼロだから、自分以外の人はすべて”1”という、有限の世界の住人に思えたのです。


[948] Re[947][946][944]: 当たってもいるし外れてもいるって感じかなあ・・・ 投稿者:QP 投稿日:2000/07/01(Sat) 02:14

> > それで、その為に、通常はパニックがおさまったら、別のもっと軽い要求を聞くとか、パニックを起こさなかったら褒美を与えるというような方法を取るのが一般的だと思います。
>
家の長女もパニックをおこす(正確には、おこしていた)のですが、
やっぱりパニックがおさまったら、「軽い要求を聞く」というよりも、
疲れてしまっている長女の為に彼女の落ち着くような好きなことを
させてやっていました。
パニックをおこさなかったら、もうその時は彼女も成長したのかな、
それとも、あまり意識がそちらにいっていなかったのかなと思って、
さわらぬ神にたたりなしと、そのことにはもうふれません。

次女は、パニックというよりも癇癪をおこします。
その時は、断固としてダメなものはダメと言います。
その時は激しく泣いても、だんだんと泣く時間もみじかくなっているように思います。(いえ、思いたい。まだ戦い中。4才なもので。)
わがままというよりも、まだよく世の中の事がわかっていないんじゃないかな。別の軽い要求は。できる範囲できいてますが、できないものはできない。
でも、戦ってる姿は、まるで親子癇癪合戦。
冷静に子供にダメと言えたら、なおGOOD!

癇癪をおこさなかったら、誉めます。
それだけ。(笑)
私は子供の成長を待ちたいと思う。




[947] Re[946][944]: 当たってもいるし外れてもいるって感じかなあ・・・ 投稿者:Lingko 投稿日:2000/07/01(Sat) 00:12

> それで、その為に、通常はパニックがおさまったら、別のもっと軽い要求を聞くとか、パニックを起こさなかったら褒美を与えるというような方法を取るのが一般的だと思います。

なるほどねー。私は子どももいないし、子どもと接する仕事もしてないので、この辺のことを何も知らないのですよ。

> (パニックがおさまったらアメをあげるなどと書くと、「私の感情はアメなんかでは誤魔化されない」って言われそう。)

誤魔化すっていうのとは、ちょっと違いますよね、これは。別の物で頭がいっぱいになるっていうのか、

だいたい、パニックがおさまった直後っていうのは、恥ずかしいというのか頼りないというのか気持ち悪いというのか、宙に浮いたようなというか、とても不安定な感じです。そういうときに、集中できる具体的で小さい物、求心力のある物(この場合、アメ)があると、拡散した気分を取りまとめるのに、とても助かると思います。

だって、私の頭は一度に一つのものにしか注目できませんから。

唯一心配なのは、アメの出てくるタイミングがほんのちょっと早すぎると、あたまがぼーーとしているときにいきなりアメが現れただけ、という感じになり、何回くり返しても「パニックがおさまった→アメ」という因果関係が導き出されないかも、ってことくらいです。おさまりたての疲れてぼーーとしている状態のときは、今の今まで騒いでいたことも、今はそれがおさまったばかりであることも、わかっていないことがあるんです。まだ「ここはどこ、私はだれ」状態でぼーーとなっているときに何回アメをもらっても、「何だろう?」と思いながらおいしく頂いてしまうだけで、さっぱり因果関係には結びつかず、アメの丸損・・・。 アメくれる人がせっかちタイプさんだと、そんなこともありそうな気がするなあ!

パニックを起こさなかったら、の方は、いやでも意識がはっきりしてるから、タイミングがどうとかってことはないだろうけど。


[946] Re[944]: 当たってもいるし外れてもいるって感じかなあ・・・ 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/30(Fri) 23:30

> もちろん、新しい法則に気がついて、それがプログラムされるまでの間は、毎回大騒ぎが続くとは思いますけど・・・

それで、その為に、通常はパニックがおさまったら、別のもっと軽い要求を聞くとか、パニックを起こさなかったら褒美を与えるというような方法を取るのが一般的だと思います。
(パニックがおさまったらアメをあげるなどと書くと、「私の感情はアメなんかでは誤魔化されない」って言われそう。)


[945] Re[939][934]: いや、その前に、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/30(Fri) 23:20

>彼は精神科医じゃないと思えば良いのでは?

まあ、私が本当に言いたいのは、あの設定が『自閉症だったわたしへ』とは違うっていうことと、現実の精神科医とも違っているっていうことです。

でも、それよりももっと大切なことは、あの話しを単なるラブストーリーとしてだけ見て欲しくないってことです。
きっと、「ああいう医者が身近にいたらいいなあ」とか「ああいう人がウチの子の恋人になってくれたらいいなあ」という、ほのぼのとした感じで将来に夢と希望を与えてくれるような余韻を楽しんでいる人が多いんじゃないかと思います。
でも、「狭山先生がいたらいいなぁ」ではなくって、あなた方が「狭山先生になれば」いいのです。と言うより、なって欲しいのです。

今まで、「自閉症」児の行動は不可解で、なかなか指示が通らないし接触も出来ないので、わけがわからなかった。そして、「自閉症」児に対するアプローチの仕方としては、行動療法とか情報の構造化とかが一般的でした。
けれど、ドナさんなどの手記で、本人の意識は実はとっても普通であることが明らかになり、生まれ持った基本的な「障害」の部分はどうしようもないけれど、愛着を形成することで「発達(成長過程での)障害」を軽くすることができることが分かってきています。

繭子の場合は、ドラマの進行上、はじめから「かかわり障害」が除外されていましたが、実際にはこれが一番重要で深刻な問題のはずです。つまり、子育ての最初の頃は、係わることが出来ない・係わり方がおかしいというところから取り組まなければなりません。(普通の「自閉症」者は、たった一回パニックを押さえてもらったぐらいでは、あんなに親しくなりません。それから、繭子と慎一の関係は、最初から「普通」でした。)
で、今回のドラマで取り上げられたのは、「自閉症」の残る二つの「こだわり障害」と「コミュニケーション障害」です。そのそれぞれに、狭山先生は上手に対応しています。
まず、「自閉症」者に意味が通じる話し方をすること、情報を分かりやすく整理すること、こだわりを捨てさせずに自分らしさとして認めてあげること。けれど、人と付き合って行く為に必要な最低限のことは本人の努力が必要なこと…、その他諸々。

そして最も大切なのは、感覚特性を始めとした、一人の「自閉症」者の症状をよく知って接すること。
実は、これが「自閉症」児に「愛着」を形成させて、「かかわり障害」を克服する手段でもあるのです。

だから、狭山先生は、医者でも恋人でもなく、「自閉症」児のお父さん・お母さんの理想の姿だったんですよ!


[944] 当たってもいるし外れてもいるって感じかなあ・・・ 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/30(Fri) 22:34

> パニックが、「親にいうことをきかせるための手段」のように思える時があり、

これは、あたってるとも言えるけどちがってるとも言えます。

「欲しい物を手に入れるための手段」という意味なら当たっている気がします。そして、「買ってくれるかどうかの意思決定は親がしている」ことは理解しているのでしょう(私がおねだりをできなかったのは、この部分の理解の遅れがもっと重かったからのようです)。

でも、自閉とかアスペとか入ってる子だと、「親は人前だと恥ずかしくなるから」「親は時間が経つと疲れてくるから」「親は早く帰りたいから」などという理解は、ゼッタイしてないと思う(単にしつけの悪い健常児なんかだと、ほんとにこれをよく知っている子がいて、驚きます)。親に気持ちや都合があること自体、知らないかもしれないくらいです。

本当に、「ここの取っ手を引っぱったら、これが出てくる」と同じレベルで、「泣いたら出てくる」という因果関係を、前例から帰納法で学習しただけじゃないかと思います。そして、自閉入ってる分、発想に柔軟性というものがないから、「ここを押したのに出てこない! なぜ?!」という当惑が混ざってきてしまうので、表現がより激しくなるのかもしれません。

>それから、要求をかなえてくれない親への「怒り」
> (人が変わったような表情で攻撃してきますから)だと感じる時もあり、

これは、待たされたフラストレーションの上に、予測していた反応が出ない驚き、不安、狼狽、当惑なんてものが重なっているのかもしれません(怒りについては、私自身に経験がなく、わからないので何も言えません)。

「予測していた反応が出ない当惑」というのは、非常に辛いものです。私の場合、イヤなことでさえ、予測していた通りに起こらないと、驚いて、耐えられませんでした。私は食べ物に好き嫌いがなかったからこんなことは無理だったけど、たとえば、もしもいつも決まって嫌いなお菓子をくれる人がいて、ある日その人が別のお菓子をくれたら、たとえそれが私の大好きなお菓子だったとしても、私はショックで凍りついたでしょう。あるいは、「今日はなんにも買わないからね」と言い聞かされてそのつもりでデパートに行ったのに、安売りをしていたために親が予定を変更して、おもちゃを買ってくれたのがショックで、熱を出して寝込んだという実話はあります。

>そういう感情はおさえることを
> おぼえさせなくてはと思ってしまうのです。これって、見当違いだと思われますか?

私の場合だったら、そういう感情は、起きてしまったら最後、おさえるにはマイナスの方向しかありません。感覚を遮断するか、無気力の世界に逃げるかです。

私は子どもがいないし、子育ての経験は何もないので、アドバイスはできませんが、たまたま何かの機会に「泣いたらもらえた」という経験が数回続いたので、そのデータから帰納法で「泣いたらもらえる」という法則を導き出してしまったのかもしれません。

もしそうだとしたら、「いくら泣いてももらえない」「泣いても泣かなくても、このときになったらもらえる」「いくら泣いても予定にないときは連れて行ってもらえない」「泣いても泣かなくても、初めからの予定のときは連れて行ってもらえる」という、新しい法則を覚えてしまったら、「法則が外れたショック」の感情は経験する必要がなくなるんじゃないかと思います。もちろん、新しい法則に気がついて、それがプログラムされるまでの間は、毎回大騒ぎが続くとは思いますけど・・・


[943] わかる 投稿者:megumi 投稿日:2000/06/30(Fri) 22:12

如月さん wrote
>丸呑みをして、さもわかったような顔をしていても、
そして、当人も本気でわかったつもりでいるのです。
追求されて、初めて(ひょっとしてわかったつもりでいただけで
なにもわかってなんかいなかったのかしら)と思う人もいます。

繭子が
>暗黙の触れてはならない了解事項に対する侵犯
をしてくれたおかげで、慎一も潤も父親も自分の中のあいまいな部分を
見つめなおすことができました。

これが「君が教えてくれたこと」でしょうね。

ただ、「人のことをわかろうとすれば、人も私のことをわかろうとしてくれる」と
繭子に言わせたのは、疑問です。


[942] パニック・・・ 投稿者:sippona 投稿日:2000/06/30(Fri) 21:43

> パニックが、「親にいうことをきかせるための手段」のように思える時があり、これに負けてはいけないと
> 意地になってしまうわけです。それから、要求をかなえてくれない親への「怒り」
> (人が変わったような表情で攻撃してきますから)だと感じる時もあり、そういう感情はおさえることを
> おぼえさせなくてはと思ってしまうのです。これって、見当違いだと思われますか?
> 自閉症という障害の特性を無視したしつけになってしまうのでしょうか?

我慢も大事なんですが、急いでさせようとすると更に荒れる事を心配します。
それと「怒り」は本人にとってはごもっともですが、やはり「何でも思い通りにはならない」ことは教えていかないと解りません。

ただやはりこれも根気がかなり要る事ですが。
しないと終始周囲を振り回す子になってしまわないかと思います。


私は狭山先生を精神科医としては見てなかったです。いつも勉強していたから。


[941] Re[938]: (Re[933][934]) 死人がでなくてよかったー 投稿者:トルネード 投稿日:2000/06/30(Fri) 19:28

> 確かに狭山先生はちょっと抜けたところがあるので、
> 函館ではきっと、スーパーでの買い物の場面みたいなの続出で
> 繭子のペースで尻に敷かれて生きていくことでしょう。
>
これと、同じ事を、かんがえていました。
絶対あのふたりは、かかあ殿下になるでしょう、、、、
アスペ人のしぶとさが、でていて、最後の方はよかったですよ


[940] Re[935]: パニックのことをもう少し 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/30(Fri) 18:34

> うちの子の場合、パニックを人前で起こす場合というのは、
> 物欲がからんでいることが多いのです。お菓子を買ってくれ
> とか、あれを買いたいから、あの店に連れて行ってくれとか
> いう要求をこっちがかなえてやらないときです。

ちなみに、『自閉症−成人期にむけての準備』にこんな一節があります。
「その人が他の方法で自分の要求や気持ちや感情を表現できない時、いわゆる[不適応行動]が逆に[適応]するための効果的な方法になっていることがわかります。(中略)ほとんどの場合すぐに、予測した通りの周りの反応を引き起こします。」(P65)
こういう場合は、自分の欲求を表現する代替方法を提供することがで、問題行動を減らすことができると書かれています。その方法は、ジェスチャー・カード・サイン・接触の例が上げられています。

もっとも、こういう場合は幼児期の最初にこの手を使った時に、どんなに大騒ぎしてわめこうが断固として要求に応じないという態度を取るのが、一番有効なんですが。
私は、どうして普通の人達にそれができないのか不思議に思っていました。羞恥心があると、他の人の手前なんとか早くその場の騒ぎを収拾しなければいけないと思ってしまうこと。そして、パニックというものに驚いてしまうと、ただオロオロしてどうしていいかわからなくなってしまうこと。
それでなんですね、勉強になりました。


[939] Re[934]: いや、その前に、 投稿者:とら 投稿日:2000/06/30(Fri) 17:45

> 患者に転移(感情移入)するような精神科医が存在すること自体、間違っています!

ペンギンさんのお怒り良く分かりますが、彼は精神科医じゃないと思えば良いのでは? だいたい繭子に感情移入した事以外にもドラマの中で精神科医らしい仕事はしていませんから。せいぜい医学生かインターンってとこでしょうか。


[938] (Re[933][934]) 死人がでなくてよかったー 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/06/30(Fri) 17:34

おひさしぶりです。

ドラマ終わってしまいましたねー。
ハッピーエンドだったので、息をつくことができました。
もし誰かが死ぬようなことになってたら
TBSに抗議の電話をしてやろうと思っていました。

狭山先生と繭子は、もはや医者・患者モードではなく、
恋人同士モードなので、心配かける・かけられるという
対等な人間関係が織り込まれるのも、まーいいかなーと
ドラマにのめり込んだ自分は思いました。

確かに狭山先生はちょっと抜けたところがあるので、
函館ではきっと、スーパーでの買い物の場面みたいなの続出で
繭子のペースで尻に敷かれて生きていくことでしょう。


[937] Re[921][919][909]: 「子どもたちのため」なら言ってもいい気がするのに 投稿者:如月 投稿日:2000/06/30(Fri) 17:13

> 実は、私は、普通の人たちだってこんな実体なんて持ってないんじゃないかと疑っています。ただの比喩表現っていうか、行動の「傾向」の総称として便利だから使っているだけなんじゃないかと・・・

 確かにそれはありそうな話です。私も周りの人は何でもわかっているのだという前提で物事を考えてしまうので、当然実体を持っているのだと疑いもしませんでした。あれこれ関連する事実を思い出して考えてみると、理解していない事を理解しているように振舞ったり、丸呑みした言葉を消化せずにそっくりそのまま自分の意見の様に口にするのは、世の人の得意技です。
認識できていないのに、無いと恥ずかしいから当然あるような顔をしていられる能力に、騙されていたような感じがします。「自分を好きに・・・」も意味を深く考えたりせず丸呑みにしないと、却って深みにはまってしまう言葉なのかもしれません。
丸呑みをして、さもわかったような顔をしていても、皆がそうしていれば意味を突っ込まれたりはしないし、追求したりする人は、暗黙の触れてはならない了解事項に対する侵犯のかどで、白い目で見られるのでしょう。そう考えれば、面白くは無いけれど辻褄が合います。


[936] Re[920]: 「障害」か「個性」か? 投稿者:如月 投稿日:2000/06/30(Fri) 16:53

> そして、「障害」を「個性」化する為に一番大事なのは、「自分を否定しない」こと。それが、これから育って行く子供たちに伝えたいことの全てです。自分に出来なかったからこそ、尚更そうしたいと思っています。

 同感です。子供の時から自分の言葉や行動を否定され続けると、自信を無くして自分は価値の無い人間だと思うようになってしまうでしょう。それが将来何か前向きなものを生み出す可能性は考えられないので、周りの大人は極力自己否定に陥らないように注意してやらなければなりません。高機能自閉の子供ならば、それをまず一番に考えてやるべきでしょう。
けれど私の場合、これは頭で考えた結論であって、体験に基づくものではありません。否定する実体が無いとか色々書いていますが、それが理由の一つに間違いは無いのだけれど、正確に言えば否定しないのではなくて、否定できない構造になっているだけのようです。
私だって言葉や行動を否定されれば面白くないし、この状況でこんな発言は好ましくないのだと、知識は増えていきます。失敗した事実が知識としてどんどん増えていけば、自分に原因があると自己否定するものなのでしょう。
しかし、自己否定はあくまでも主観とか感情に属するものなので、客観的な事実をいくら積み重ねても、そこからある種の感情が出て来りはしません。私の場合は何処まで行っても、両者は交わらないと思います。親譲りの鈍感という言いかたも出来ます。
例えば道端の木切れや石ころのように、自分を否定しないし肯定もせず、ただ存在しているだけなのです。石ころはどうあがいても、鬱になったりはしません。自己否定に悩んでいる人から見ると、とんでもない極楽とんぼに見えるでしょうが、この鈍感のために蒙る災難もあるだろうと思いますので許して下さい。



[935] パニックのことをもう少し 投稿者:まろん 投稿日:2000/06/30(Fri) 16:53

いろいろとレスをいただき、ありがとうございました。
>カンガさん、紹介してくださった本、探して読んでみます。

うちの子の場合、パニックを人前で起こす場合というのは、
物欲がからんでいることが多いのです。お菓子を買ってくれ
とか、あれを買いたいから、あの店に連れて行ってくれとか
いう要求をこっちがかなえてやらないときです。(レベルが低い話で
恐縮です、、、)なので、パニックが、「親にいうことをきかせるた
めの手段」のように思える時があり、これに負けてはいけないと意地
になってしまうわけです。それから、要求をかなえてくれない親への
「怒り」(人が変わったような表情で攻撃してきますから)だと感じ
る時もあり、そういう感情はおさえることをおぼえさせなくてはと
思ってしまうのです。これって、見当違いだと思われますか?自閉症
という障害の特性を無視したしつけになってしまうのでしょうか?


[934] いや、その前に、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/30(Fri) 14:46

患者に転移(感情移入)するような精神科医が存在すること自体、間違っています!


[933] 繭子の将来ちょっと不安? 投稿者:Miu 投稿日:2000/06/30(Fri) 11:42

ドラマの都合とはいえ、最終回にもなって狭山先生のあの「わかってなさ」加減は健在。
飛行機が飛ばなくたって電話でもメールでも入れればいいのにね?
「飛行機が飛ばない→帰れない→約束はなし」という判断を繭子がするかどうか、ことここに至ってまだわからないような人に繭子の将来を任せたくないな。だいたい、そんなんでほんとに臨床の仕事ができるんですかね?


[932] 私の娘の場合 投稿者:山さん 投稿日:2000/06/30(Fri) 09:58

フリーラジカルさんの仰るようにパニックの原因を見極められれば対処が出きる場合もあります。

私の娘の場合は、彼女の思い(予定)と現実の齟齬がパニックの引き金になることが多いようです。
例えば、セサミストリートは英語の番組であるべきで、副音声で日本語が流れるのは堪えられないのです。何度かこれでパニック状態になって以来、セサミストリートは避けています。たまに間違ってチャンネルが合ってしまうと、娘は両耳を押さえて逃げ出すか、大声を出してパニックの準備状態(?)になります。ここで英語の音声が耳に入れば落ち着くのですが、何せ耳を塞いで喚いているので結局はチャンネルを慌てて変えることになります。

一昨日は、学校で連絡帳に明日の予定を書く際に、母親が1ページとばして連絡事項を書いているのを発見してパニックになったそうです。先生が対処に困って電話してきて、母親が娘に謝ったのですが、それでも治まらず、結局白紙のページを糊付けしたらけろっと治まったそうです。

ただ、この原因がなかなか分からないのが現実ですから、いきなりパニックを起こされるとこちらもおろおろしてしまってなかなか冷静に原因究明が出来ません。

以前、風邪気味で「お熱計って」というので体温計ではかってやったのですが、何度計っても納得せず、パニック状態になったことがありました。結局本人が親の手を引っ張って洗面所でタオルを濡らしたので、頭を冷やして欲しかったのだと判りました。この時は、熱を計っていた母親には判らず、側で見ていた私の方がピンときたのですが、パニックを押さえようと必死になっているとこちらも巻き込まれてしまうようです。

普段から子供の様子を良く知っている母親が状況判断するのが適任だとは思いますが、大抵はこの巻き込まれる立場になります。
本当はなだめても無駄なことが多いから、先ず原因を突き止めてそれを取り除いた方が効果的なのですが、パニックになった子供を放置して対処法を探すというのは、人前ではなかなかできません。
やっぱりなだめ役がもう一人欲しいですね。


[931] パニック、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/30(Fri) 09:39

私は子どものときにはそれらしいのは経験してません。
大泣き・長泣きか、ただ無言で、はりついた笑顔のまま固まる。
あるいは、野生動物の「死んだふり」によく似た「昼寝」

それらしいパニックは、自傷がメインだけど、デビューは何と21。
このころ、感情用語をたくさん覚えたし、
自分の身体の感覚をいろいろと確認したこともあって(19でおもらし・おねしょをしなくなった、まっすぐ座っていられるようになった等)、
何か均衡が破られたというのか、違和感を感じられるだけの基礎ができたというのか・・・

それはしばらくしたらとりあえず治まって、また荒れるようになったのはごく最近、30すぎてからです。ごくごくたまにですけどね。
やはり、状態が良くなったというか理解が進んだというか・・・ 「やりようによっては、自分にだって何とかできるかもしれない」っていう、希望というのか手応えというのか、そういうものが出てしまったのが原因(?)でした。

パニックをしょっちゅう起こしているっていうのは、周囲にも迷惑ですが、本人にもあまり楽な状態ではありません。
ただ、そこから抜けるには、右と左と、二通りの方向があるようです。「パニックを起こさずにすむ状態」と、「パニックさえ起こせないほどの状態」と。


[930] Re[928][927][922]: 質問してもいいですか 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/30(Fri) 09:30

そうそう、そーなんですよ。
だから外界からの刺激が入ってこないから、発達が遅れちゃうんでしょ〜ねえ。

言葉の訓練とか、○○療法とか、いろいろ発達上の支援法はあるけど、自閉児たちにとって外の世界が「ちょっとぐらいなら、出ていってもイ〜かなあ。」ってぐらいに安全に見え(=情緒が安定)ないと、話は始まらない、って気がします。


[929] Re[927][922]: 補足 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/30(Fri) 09:23

では小さな子供にとって「自分にとって安全なところ」とは何か。

それはコミック「スヌーピー」に出てくる”ライナスの毛布”です。

ウチの娘の場合、ちょっと前までは「キティちゃん」でした。前にも書いたように、焼肉屋でパニックを起こしたことがフラッシュバックしてきてパニックを再現しそうになったときは、「ほら、キティちゃんがこんなところにいるよ!」と声をかけたら、こっちの世界に戻ってきました。今はペンギンのぬいぐるみですが。

ついでながら、成人の場合は自分のお気に入りのソファとか、ベッドとかだそうです。私の場合はスタコラ、その「危険な場所」から逃げてたのですが、身体が固まってしまって逃げられなくなったときは、「本当の私はここにいない、もっと安全なところにいる」というフレーズが何回も頭の中で繰り返されます。これはほとんど自動的に起きる、癖になっています。私は生理的には「大」パニックの離人症状は起きていないと思うのですが、心理的には全く同じで、視界が極端に狭くなり、すぐ眼前のものしか見えなくなります。

でも、「本当の私はここにいない、もっと安全なところにいる」という自分への声かけは、「自分で」常時やるのは、分裂病的精神状態を定着させる危険があるのだそうです。念のため。


[928] Re[927][922]: 質問してもいいですか 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/30(Fri) 09:13

> 実は、私の娘に「(個別・全体にいずれに関係なく)指示」がなかなか入力されないのは、こんな「安全な場所」にいつも心が逃げ込んでいるのではないか、と最近考えています。

どちらかというと、「安全な場所」にいるのが基本で、そこから「ヨッコラショ!」っと掛け声かけて「自分を不安定にさせる場所」に出向いて行っているのだと思いますが。


[927] Re[922]: 質問してもいいですか 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/30(Fri) 08:37

パニックが起きる原因にも、人それぞれ原因があって一概に言えないのですが、私の娘の場合について書いておきます。

まずパニックの原因を見極めることが重要だと思います。
娘は音と視覚的刺激が原因でした。
具体的にはバイクの音とか、オルガンの吸気音(!)とか、まつぼっくり(!)とか、でした。
参考書には大抵、そういった刺激を避けることが方法だと書いてありますよね。

プラス。
何かのきっかけで「あれはバイクが走ってるだけだから、だいじょーぶ。」と私が言い聞かせると、娘はそれを丸暗記してバイクの音が聞こえるたびに自分に言い聞かせるようになりました。これは名案だと思って、オルガンやまつぼっくりにも採用しました。今、娘は(意味が分からなくても)保育園でつぶやいて、自分をなだめているそうです。「あれはオルガンのキューキオンだからダイジョーブ。」

パニックの原因が「得体の知れない恐怖」である場合、それに「名前を与えてやる」ことが、私の娘にとっては対策の一つでした。

私自身の場合、混雑したところなどの状況型パニックがあります。
こんなときは、(辻井先生が「君が〜」のHPで書いておられたように、)「自分にとって安全なところに心を移す」方法を採ってきました。これは誰に教わった訳でもなく、直感的にやってきた方法です。
成人の場合は、身体の一部にスイッチのような箇所(腕の内側とか)を決め、「あ、やばいな」と思ったときにそこを触ることでその安全な場所にスムーズに移行できるように自己暗示をかけておく、という方法もあるのだそうです。

実は、私の娘に「(個別・全体にいずれに関係なく)指示」がなかなか入力されないのは、こんな「安全な場所」にいつも心が逃げ込んでいるのではないか、と最近考えています。


[926] まろんさんへ 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/29(Thu) 23:14

高機能自閉症の子供を持つ親です。
娘は重度ではありませんが、以前はかなりひどいパニックに悩まされました。
親も1人の人間です。
人前での激しいパニックは辛いものがあります。
お気持ちはよくわかります。

重度の自閉症のお子さんを持つ小児科の女医さんが主人公の本があります。
私はずいぶんと助けられたので、紹介します。
「精神科医の子育て論」服部祥子 新潮選書から出ています。

御本人の方々には受け入れてもらえない本かもしれないと思い、ここに書き込むことに抵抗がありましたが、「虐待寸前」という言葉を目にしたので、書き込むことにしました。

パニックの対処法が書かれています。
是非参考にしてください。



[925] 最終話… 投稿者:大塚 投稿日:2000/06/29(Thu) 22:49

君が教えてくれたこと、最終話を録画した方はいらっしゃいませんか?毎度楽しみにしていたのですが停電で録画予約が消えてしまいました。
それで、厚かましいましいとは思いましたが書き込みました。
どなたか貸していたけませんでしょうか。(あるいはダビングでもいいです)
借りた場合は、即座にダビングしてお返しします。
(発送は宅急便の着払いで結構です。ダビングテープの場合は
買い取らせていただきます)
少しですが謝礼はさせていただきたく思います。
どうかご連絡下さい。
メール:teturinjpn@hotmail.com
    teturin@mx5.ttcn.ne.jp
大塚(東京都江東区)


[924] 思い出して書いてたら 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/29(Thu) 22:19

同じことになると思うので(書くことで誘発されそうなので)、すみませんががまんしてください。

親から暴力を受けた場合、私だったら気がつかないかもしれない。
早く収めるというのは、わかりません。時間の長さの感覚はないから。


[923] 「君が・・・」おわりましたね 投稿者:あごちゃん 投稿日:2000/06/29(Thu) 22:19

最終回の最初の部分を見逃しましたが、思った事があったので・・・
最終回のおわりかたは個人的には好きです。

けれど、ああいう障害を持っている子供の「親からの自立」を親はあっさりあんなに簡単に認めるだろうかと思いました。

そういう事態になったときに「心配だから・・・」とか「世間体が・・・」とか親は、相当葛藤し考えるような気がします。
「いつでも帰ってこい」とカトちゃん(父)のようにかっこよくいえるのかなって思いました。

私は、親になったことにないのでよくわかりませんが・・・。

繭子の両親のような理解してくれるいい親ばっかりならいいのですが・・・親が心配で「男と一緒に生活する」ことを認められない場合も現実には多いのではと感じてしまいました。


[922] 質問してもいいですか 投稿者:まろん 投稿日:2000/06/29(Thu) 22:11

うちの子は重度なのですが、みなさんがここに書いていらっしゃる
ことが彼女と折り合って生活していくための道しるべになるような気がして、いつも真剣に読ませていただいています。

↓の、Lingkoさんが大パニックになってしまうというひとことに
勇気をえて、以前から聞きたかったことを質問します。パニックに
なってるときって、どんな感じなんですか?うちの子のパニックは
とても攻撃的で、思いっきり大声をはりあげて泣き、どうなだめても
受けつけないんです。これを人前で長時間やられると、本当に進退きわまり、子供の気持ちを思いやるゆとりがなくなって、親のほうが逆上してしまいます。虐待寸前までいってしまうんです、、、。
パニックの時に、親から暴力をうけたら、どうなってしまいますか?
パニックを早くおさめるには、どういうふうに接すればいいのですか?


[921] Re[919][909]: 「子どもたちのため」なら言ってもいい気がするのに 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/29(Thu) 15:21

> 世の中では「自分をまず好きにならないでどうするのですか」という言い方をよくします。新聞の投書にも、自分を大切にする気持ちが他者に対する思いやりにつながるのだ、と書いてありました。もっともな話で異論はありません。
> しかし、これを言われるととても困ってしまいます。それはいいとして、大切にしろという自分は何処にあるのかと聞かずにいられないからです。自分の一体何を、何処を、大事にすればいいのかがわかりません。肯定なり否定するべき実体があやふやで、ほとんど存在しないので大事にしようがないのです。

私も「自分をまず好きにならないでどうするのですか」という言い方には困ってしまいます。なぜかというと、「自分を好きになる」とか「自分を大切にする」とかいった表現は、抽象的で理解できないからです。

それだけではなく、まるで「自分を大切にできない人間は悪い人間だ」と言われているようで、またしてもダメな人間の根拠がひとつ増えただけじゃないかと思ってしまいます。

ところが、いろいろな文脈でこの表現が使われているのを見ていると、どうやら、実は場面ごとにいろいろと具体的な行動が例として想定されていることがわかってきました。

たとえば、「いやなことを頼まれて断る」ことであったり、「必要なものを手に入れようと努力をする」ことであったり、「襲われたら逃げる」ことであったり、「身体の具合が悪くなったら養生する」ことであったり「自分のことをまちがって評価されたら訂正を求める」ことであったり。

「自分を好きになる」とか「自分を大切にする」とかいうのは雲をつかむようでわからないけれど、それはきっと、暴力をふるわれそうになったら逃げたり、必要なものを手に入れるための交渉をしたり、しやすくなるための原動力のようなものと考えられているのかもしれません。

自己否定とか自己肯定とかがわからなくても、要は、いやなことを頼まれたら断ることができ、必要なものを手に入れようと行動することができ、襲われそうになったら逃げることができさえすれば、「自分自身さえ大切にできない、ダメな人間」と叱られずにすむのではないかとも思います。

でも私の場合、いやなことを頼まれて断れないのは、それがいやなことだからではなさそうです。いやではないことだって、頼まれたら断れないのですから。だからこれは自己肯定とも自己否定とも関係ないと思います。

私が断れないのは、相手の依頼の言葉が、「言葉」として頭にいやおうなく入ってきてしまうからです。「これは○○だよ」と教わったのと同じように、依頼ではなく、教わったと思ってしまうからです。「定義により真」と聞こえてしまうからにすぎません。

不都合な目にあいそうになってもなかなか逃げられないのも、「あっそうか」と思ってしまうからです。何か乱暴すると予告されたら、やはり「予定を教わった」と聞こえてしまいます。だからその通りにされたら、「予定はとどこおりなく片づいた」という気がするのです。

> この実体のなさは、何処かで無くしてしまったのではなく、生まれつき持っていなかったし後天的に作れるようなものでもないようです。無いものは無いのだから仕様がない、無いものを無理にあると言えば却って害があるので、無いものは無いのだと開き直っています。

実は、私は、普通の人たちだってこんな実体なんて持ってないんじゃないかと疑っています。ただの比喩表現っていうか、行動の「傾向」の総称として便利だから使っているだけなんじゃないかと・・・

ところで、「がんばった自分にごほうび」とか「自分をほめる」とかいった言いかたは、「凝っているなあー」と感心しています。でも、公式のようなものとして暗記してしまえば、中身がブラックボックスのままでも、私は使えます。ただ、使った場合、どんなニュアンスが付随してくるのかがわからないので、あんまり不用意に使う勇気はありませんが。

> このゼロの自己評価が根底にあるので、「できないからしようがない」と言える資格が自分にはまるで無いと思っています。考える前に体のほうがそう理解しているので、理由を聞かれるとなかなかわかりませんが、あんたにそんなこと言う資格は無いよ、は暗黙の了解事項になっています。

私が「できないからしようがない」と思えたらいいのにと思う理由は、そう思えたら、補助手段を手に入れようとするエンジンが動くからです。

「電話で聞いたことはどうせわからなくなるんだから、しょうがないんだ」と思うことができたら、「すみませんがFAXで」と言えて、所要時間も短縮される上にミスも減り、先方にだって得になる。

でも、電話で聞いた話がわからなくなるのは「自分がたるんでいるからだ」「相手に対する誠意が欠けているからだ」と思うと、ひたすら電話を聞きとる訓練を続けなくてはならない。

さて、どうして「たるんでいるからだ」「誠意が欠けているからだ」が意識から抜けないかというと、それは「他人が言ったこと」だからです。

私はずっと、「他人の言うことが正しく、自分の思うことが間違っている」という原則に従って情報を処理してきました。私の感じたことはずっと間違っていると言われ続けてきたのだし、現にそう信じた方が失敗する確率が低かったから、仮説としても有用だったのです。

ところが、ここで困ることが二つあります。

「他人は正しく、自分は間違っている」と思いたくても、「他人」は一枚岩じゃないのです。他人どうしの間で、勝手に意見が対立することがある。これではどちらを信じたらいいかわかりません。

もう一つは、他人に自分の考えと一致することを言われたときです。これではどちらを信じることもできなくなってしまいます。

幸い、私は自分の感覚を取りまとめるのが遅いし、解釈ももたついているので、第二の矛盾に苦しむことは少ないのですが、第一の危険はつねにつきまといます。

たとえば、母と姑に、同じ日に別々の場所での別々の催し物に誘われたりすると、大パニックで、とりあえず自傷でもしてみるしかありません。


[920] 「障害」か「個性」か? 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/29(Thu) 14:27

これが二者択一の選択にならないというのが、「自閉性障害」の特性なのではないでしょうか?
何故なら、「人との係わり方」がオカシイという、明らかな社会性の障害があるにもかかわらず、それは目に見えるものではないからです。生活上の困難を引き起こす何らかの「障害」という観点から見れば「障害」ですが、「人」として見た場合には「ちょっと変わった人」とか「人との付き合い方がオカシイ人」とか「親しくならない人」とか「話しの通じない人」としか言いようがなくなってしまう。
でも、だからこそ「障害」があっても「個性」にすることが出来るとも言えるのです。

私のような第一世代の「自閉症」者は、診断されたことで不当な扱いを受けてしまったか、診断が無かったために「自己否定」して人生のかなりの時間を「自分探しの旅」に費やして来てしまったかのどちらかという人が多いと思います。
けれど、今や早期に発見して、出来る限りの正当な手を尽くそうという動きがあります。しかし、一方では、まだまだ診断だけ下りても、ちゃんとした対応が出来ずに手をこまねいているというのも現状です。
そういう次の世代の「自閉症」者が、「障害」を「個性」にする手助けをする為になら、自分の体験を話せるしいろいろ教えてあげることが出来るのではないか? その思いがなかったら、何もしゃべることはできません。

そして、「障害」を「個性」化する為に一番大事なのは、「自分を否定しない」こと。それが、これから育って行く子供たちに伝えたいことの全てです。自分に出来なかったからこそ、尚更そうしたいと思っています。


[919] Re[909]: 「子どもたちのため」なら言ってもいい気がするのに 投稿者:如月 投稿日:2000/06/29(Thu) 13:31

> 「子どもたちのために」っていう大義名分があると、私でも物が言えそうな気がする。でも、自分が「できなかったんだからしょうがないじゃん」は、言ってはいけないような気がしてならない。どうしてこんな二重基準ができてしまうのか、自分でも不思議で、矛盾しているっていうのは十分わかっているのに。

 この二重基準は確かにあるなあと思いつつ、このところガス欠気味だから考えは纏まらないだろう、と諦めていました。ところが過剰反応する言葉のうちの一つである「自己否定」を目にした途端に目が醒めて、答らしきものに思い当たりました。
世の中では「自分をまず好きにならないでどうするのですか」という言い方をよくします。新聞の投書にも、自分を大切にする気持ちが他者に対する思いやりにつながるのだ、と書いてありました。もっともな話で異論はありません。
しかし、これを言われるととても困ってしまいます。それはいいとして、大切にしろという自分は何処にあるのかと聞かずにいられないからです。自分の一体何を、何処を、大事にすればいいのかがわかりません。肯定なり否定するべき実体があやふやで、ほとんど存在しないので大事にしようがないのです。
この実体のなさは、何処かで無くしてしまったのではなく、生まれつき持っていなかったし後天的に作れるようなものでもないようです。無いものは無いのだから仕様がない、無いものを無理にあると言えば却って害があるので、無いものは無いのだと開き直っています。
あまり良い響きのある言い方ではないようで、一度無いんだよなあ、と言ったら変な顔をされたので、それ以来普通の人には言わないことにしています。推測すると、これは自閉症スペクトルに見られる一つの傾向のような気もします。
この否定するべき実体が無いために、私は自己否定に陥ったりはしません。自己否定を膨らませていく想像力に欠けるのも一因ですが、そもそものまず最初に、否定も肯定も出来ない構造になっています。
それは太陽が東から昇るというような単なる事実なので、拗ねているのでも投げやりになっているのでもなく、ただ単なる間違いの無い事実としてそうなのです。そんな自己否定以前の状態なので、自己評価はゼロかマイナスになっています。これも主観を含まない事実の問題としての評価です。単なる事実という言い方はなかなか理解されなくて、言いたい事は他にあるのだろうと必ず勘ぐられてしまうのですが、言外の意味は全くありません。
このゼロの自己評価が根底にあるので、「できないからしようがない」と言える資格が自分にはまるで無いと思っています。考える前に体のほうがそう理解しているので、理由を聞かれるとなかなかわかりませんが、あんたにそんなこと言う資格は無いよ、は暗黙の了解事項になっています。
だから自分には資格が無いけれど、他の人は無価値ではないだろうから資格があるだろう、と思っています。その辺りが私の二重基準の理由です。

 否定したり肯定したりする自己が無い人は、他者に対する配慮が無いのかというと、必ずしもそうではないと思っています。自己愛が他者にも広がっていくという考え方はもっともですが、唯一の方法ではありません。
たまたま肯定するための自己が無いのならば、無いものは無いとして無い環境での最善策を考えればいいだけだ、と思っています。それ以外に方法は無いのですから。その発想を自分では楽天的と称しているのですが、辞書的な意味ではこれを楽天的とは言わないようです。とても二重基準の理由など考えられそうに無かったのですが、「自己否定」のお陰で地割れのように心の奥のほうが覗けたので、思いがけず答が出ました。
眼の引っ込んでいる人を大阪では出目に対して奥目と言います。私の場合、どうも心の構造が奥目になっていて、何かのきっかけが無いと心の有り様がよくわかりません。過剰反応を引き起こす言葉で興奮状態にしないと、奥のほうにある本当の心が外には出てこないのです。
真意を書けるようになった理由の一つは、この興奮状態に持っていけばよいとわかったからです。アドレナリンのたれ流し状態で体力を使いますが、どうもこの手しかないようです。



[918] Re[916][915][914]: 障害か、個性か。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/29(Thu) 12:19

> 前に「怒っちゃダメ」を娘が丸暗記したことを書きましたが、エピソード記憶が鮮明に残る場合、こういう言葉じりは、くっきり残っていくような気がします。それが私の場合、「〜できてないのは、あなただけ。」という、たびたび言われたセリフの共通項でした。自己像が悪くなって当然ですよねえ。

私はこの種の言いかたを、良い方の意味に使って、ある意味では頼りにしてもいたのですが・・・

私ができていないのを見て、次に遅い人が安心できるから、私はいてもいいんだ。

私をいじめることで、いじめた人は楽しんでくれてるから、いてもいいんだ。

私から取ったお金で、取った人は好きなものが買えるから、私も少しはいいことをしているんだ。

ずっとそうやってきたので、どうも切り替えがきかない。だから、「健常者としか見られていない人を、どこにも逃げ道なく」してしまう自分は何なんだろう、というところで引っかかって動けなくなってしまうのです


[917] Re[916][915][914]: 障害か、個性か。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/29(Thu) 11:29

> でも、「場の雰囲気を読み取らねばならない状況がある」ことを学ぶソーシャル・スキルの習得という点で、この先生の目の付け所は間違っていなかったとは、思うのです。
>
これ、ソーシャルスキルっていうより、単に全体指示が通らなかったとか、手順の意味が把握できてないとか、そういう問題じゃないのかしら。

確かに、通常の発達をしている子どもたちは、「たとえ指示が理解できなくても(あるいは聞き漏らしても)、まわりのマネをすることでごまかしがきく」ってことに早くから気づく。

いつも緊張して聞き耳立てていなければいけないよりも、それは確かに本人も楽だし、身につけたら得なスキルではあるけれど、ときには誰かが間違えたら全員でつられたり、ひどいときは付和雷同ってなことにもなるから、絶対善ではないでしょう。

> ただ言葉じりとして「みんなも片付けたから、○○ちゃんも片付けよう。」と言うのでは、雲泥の差があるなあ、と実感しています。
>
私、この言いかたが不思議でしかたありません。健常児に対してであっても。指示に従わせるときにはこの言いかたをしておいて、子どもが「みんなも持ってるから」「みんなもやってたから」と言ったら怒るのはどうもわからない。(私はこういう言いかたが「できなかった」けど、それは単に基礎が理解できてなかっただけで、道徳的に優れていたわけではない)


[916] Re[915][914]: 障害か、個性か。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/28(Wed) 15:00

そうですよね、とらさん。

でも、「場の雰囲気を読み取らねばならない状況がある」ことを学ぶソーシャル・スキルの習得という点で、この先生の目の付け所は間違っていなかったとは、思うのです。

ただ言葉じりとして「みんなも片付けたから、○○ちゃんも片付けよう。」と言うのでは、雲泥の差があるなあ、と実感しています。

前に「怒っちゃダメ」を娘が丸暗記したことを書きましたが、エピソード記憶が鮮明に残る場合、こういう言葉じりは、くっきり残っていくような気がします。それが私の場合、「〜できてないのは、あなただけ。」という、たびたび言われたセリフの共通項でした。自己像が悪くなって当然ですよねえ。

何だか私は、ここの掲示板では、各論と総論との間を極端に行ったり来たりしながら、結局はいつも「心を守れ」ばっかり、言ってるような気がしてきました(笑)。もっと具体的な方法論にたどりつけばいいのですが。個々の方法論は、偉い研究者方による各種の書籍に、まかせておいてもよさそう?でしょうか???


[915] Re[914]: 障害か、個性か。 投稿者:とら 投稿日:2000/06/28(Wed) 13:58

>『みんな、イスを片付けたよ。片付けてないのは○○ちゃん(娘のこと)だけだよ。』と言うと、ハッと我に帰ったように片付けてくれました。」
> (中略)
> みんなと同じでなくてもいい、と片方で言われながら、
> 他の人にできて自分にできないことがある=自分はダメな人間、
> という不全感を与えられる、ということ。
>

「出来ていないのは○○だけだよ」という先生の言い方には明らかに出来ない事に対する嫌味が入っていますね。これは私達も注意しなければいけないのですが、意識していなくても溜め息ついたりとか、言葉には表れてしまうものですね。すべてを理解して受け入れている人ならば「○○ちゃん、椅子片づけようね。」と言うであろうし、これで十分なはずです。


[914] 障害か、個性か。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/28(Wed) 12:58

くどいんですけど、もう少し続けさせてください。
頭の中の洪水がおさまったら引っ込みますから。シッポナさん、ごめんなさい。

今朝、娘の保育園の先生がこんなことを言っていました。
「やっぱり場の雰囲気を感じ取ることが難しいようです。おやつの時間が終わったので、みんながイスを片付けていても、気がつきません。『みんな、イスを片付けたよ。片付けてないのは○○ちゃん(娘のこと)だけだよ。』と言うと、ハッと我に帰ったように片付けてくれました。」

それで思い出しました。
あ!私も何度も、ずっと言われ続けてきたんだ、その言い方!
「〜できていないのはあなただけ、
〜していないのは、あなただけ。」

これは、
みんなと同じでなくてもいい、と片方で言われながら、
他の人にできて自分にできないことがある=自分はダメな人間、
という不全感を与えられる、ということ。

場の雰囲気を読む、ということは、頭の中がヒマでないとできない。
頭の中がいつも何かの信号で洪水状態では、できない、ということ。

「不全感」の程度も、実は個性で済ませられる程度から、障害域に入ってしまうほど甚だしいものまで連続しているのでしょう。
血中コレステロール値のように、実は二分化できないものを便宜上、
「障害」と定義しているので。

私はずっと、自分のことを「とんでもなく」臆病で、神経質で、無神経で、ドジだと思ってきました。
それを、不安症があって、感覚過敏で、(自閉のために)人の気持を察することができず、注意欠陥もある、と「障害」に翻訳して眺めてみると、少しだけ「生きている価値がある」ような気がしてくるから不思議です。げんきんなものです。

下に「普通であったためしがない」と書きましたが、一つ、「普通」の擬似体験をできる場面があります。それは私の場合、抗不安剤を飲むことです。奇跡的に(ホントに奇跡としか言いようがないのですが)免許を取れた私ですが、どうしようもなく不安感が強くてガチガチに過緊張してしまい、運転ができないときがありますが、そんなときにこの薬を飲むとウソのように筋肉の緊張が取れます。普段、肌に食い込んできて仕方のない音ですら、気にならなくなる。

そんなときにいつも思います。「あ〜、普通の人って、こんなにラクチンな思いをしてんのか〜」って。

もう一つ、「あ〜、普通の人って、こんなにラクチンな思いをしてたのか〜」って思った場面。
それは0か、1か、という、私達のバイナリ思考。
何か悪いことが起きたとき、それは私にとって必ず、
状況が悪いか、自分が悪いか、の二つの原因の結果でしかなかった。
この考えに従っていて「状況は自分では変えることができないから、自分が悪いに決まっている」になってしまったのは、私の場合です。
まるで「自己否定」が最初からOSにプログラムしてあるような脳。

(このプログラムを相殺してくれるよう、もともとの性格が「楽天的」であるような如月さんや、トルネードさんであると、天の救いですよねえ。)

でも私が出会った二人の仲間は、完全な「自己否定」の人達でした。
一人は「私はみんなにバカにされてきた」と言い、
もう一人は「こんな変わり者、誰にも相手にされない」と言いました。
二人とも、社会的にはとても尊敬される仕事をしているにもかかわらず、です。こんなマイナス思考を内包している状態なのです。(それが障害か、個性か、であるかなど、私にとってはそれこそ、定義はどうでもいいのですが)ここまで激しい「不全感」になると、もう「障害」以外の何者でもない、と思うのです。

私の「小さな仲間たち」の「症状」は、もしかしたら成長とともに薄まっていくかも知れない。しかしいつでも根っこのところに、地獄のような不全感という穴が口を開けて待っていて、そこに落ちていく可能性があることを知っていて欲しい、と思います。

シッポナさん、本当に長々とすみませんでした。ごめんなさい。


[913] 分かり難い不便に鈍感 投稿者:トルネード 投稿日:2000/06/28(Wed) 12:11

なのは、日本特有の問題なんでしょうか?
この頃ふっとおもいます。
単一民族で、言葉で不便を確認せずとも
なあなあで、伝わってしまう文化の中というのは
アスペルガーにとっては、最高に分かり難い
社会のような気がしますが、、、これも、
井の中のかわずの発言でしょうね。
でも、ADHDでも、国によって問題とされる
点が異なってくるという話も聞いたことがあるので
いろんな国の状況なんかもしりたい気がします。


[912] アスペルガーくらいで。 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/28(Wed) 11:51

「アスペルガーくらいで不自由なんていうなよ。」
この障害名だけが世間に広まって、その本質的な障害の部分、生き辛さ、が知られないと、いかにも言われそうなせりふですよね。ここ数日、この言葉を噛み締めていました。私自身、どこまでがごく普通の「不全感」で、どこからが障害からくるものなのか、「普通」であったためしがない(笑)ので全く分かりませんから。

私は子供のとき、自転車のうしろに乗っていて後輪にかかとを挟まれ、アキレス腱を切りました。そのときに入院した病院で、横のベッドにいたのが、足の親指を骨折した子供でした。その母親が言うのです、「アキレス腱と一言いうと、『あ〜、大変ね〜』ってすぐ分かってもらえるけど、この子の場合は『なんだ、指一本の骨折くらい』って言われる」って。足の親指の骨は、実は体重移動の大きな部分を担っているので、骨折すると大変なんだ、ということを説明してくれました。

私は子供ながらに「へえ〜、同情(理解?)してもらうのって、そんなに重大なことなのかな〜。自分の状態には全然、影響しないのに。」と思っていました。違うんですねえ、社会の中では。

こういった点では、人の苦しみや痛みを想像する想像力や共感性に欠けるのは、むしろ非自閉者の方ではないかと思うように、最近なってきました。


[911] Re[909]: 「子どもたちのため」なら言ってもいい気がするのに 投稿者:QP 投稿日:2000/06/28(Wed) 09:50

> でも、私より後の世代の子どもたちには、「個別の声かけ」や「先に大枠を全部説明」「板書」「色つきのカード」が与えられたらいいのにとは思えるし、言うこともできる。
>
> 「子どもたちのために」っていう大義名分があると、私でも物が言えそうな気がする。でも、自分が「できなかったんだからしょうがないじゃん」は、言ってはいけないような気がしてならない。どうしてこんな二重基準ができてしまうのか、自分でも不思議で、矛盾しているっていうのは十分わかっているのに。

こういう気持ちは、すごくわかる。

[902]をもう一度読んで見て、なんだか子供を盾に言ってる感じがして嫌な気持ちになってしまいました。
自分の問題でもあるのに。


[910] ドラマは終わってしまいますが・・・ 投稿者:sippona 投稿日:2000/06/28(Wed) 00:24

いよいよ今週の木曜で最終話です。

頑張り屋の繭子が自分らしく在る姿を勝手に想像しています。

ドラマは終わりますが、ちょうどその日にNHK教育でアスペルガ―症候群が(多分アスペとして初めての
放送になるのでは?)放送の予定になっています。
これから自閉症関連障害の事が色んな場で取り上げられるのかもしれません。(教育現場などでも??)

この掲示板は期間限定ということでスタートしましたが、このまま置いておきたいと思います。
実際はここの掲示板はtinker bellのmegumiさんの所に置いてもらっているのですが彼女も賛同してくれています。

自閉症の困難な所、その解決の手だてなど・・・。
これからも発言をお願いします。
自閉症の周囲の者が理解し、症児、症者を具体的に支えることが出来るように・・・。そう願っています。

まだドラマは終わっていませんが、これだけ伝えたくて出てまいりました。


[909] 「子どもたちのため」なら言ってもいい気がするのに 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/27(Tue) 22:52

なんかね、自分の中でも揺れてるんですよ。

私は口頭の全体指示は理解できなかったし、じゃあ目で見ればいいのかっていっても、紙を渡されると管理できなかったし、やっぱり、だれかがひとり個別に声をかけてくれたら大丈夫だったかもしれないし、最初に「いったい今から何をしようとしてるのか?」っていう流れを説明してくれたらわかったのかもしれない。黒板に大きく書いてくれたらマシだったかもしれないし、あるいは、色のついた紙だったらなくさなかったかもしれない。

でも、私より後の世代の子どもたちには、「個別の声かけ」や「先に大枠を全部説明」「板書」「色つきのカード」が与えられたらいいのにとは思えるし、言うこともできる。

「子どもたちのために」っていう大義名分があると、私でも物が言えそうな気がする。でも、自分が「できなかったんだからしょうがないじゃん」は、言ってはいけないような気がしてならない。どうしてこんな二重基準ができてしまうのか、自分でも不思議で、矛盾しているっていうのは十分わかっているのに。


[908] Re[907][900][894][887]: 生まれてきただけで人を傷つける存在 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/27(Tue) 22:40

>  うーん。。。やっぱり「不全感を持ってる」なんて書かなきゃ良かったですかね。。

ああ、その部分は別に・・・

>アスペルガーという不自由(障害という言
> 葉は使いたくない)が一般化されてしまえば「なんだ、アスペルガーくらい
> で不自由なんて言うなよ」って、

これが普通なんですよね、きっと。これを読んで、しばらく忘れていたことを思い出したのです。

私は小学校・中学校のとき、(勉強はわかるのに)先生の口頭の指示が理解できず、オロオロと周りを見ても、見た通りを真似する力もなく、いつも行動は一番最後、それも間違いだらけでした。教室移動では皆とはぐれて迷子になったり、だまされてまかれたりしては「逃げようとしただろう」と叱られ、給食当番も掃除当番も手順が理解できないので「サボるな」と叱られてばかり。そんな生徒でした。

そんな私のことを、「誰かの役に立っている」と言った人がいました。誰だったかな。母だったかもしれない。異様に鮮明な記憶がたくさん残っている私にしては珍しく、思い出せません。

何をやってもいつも一番最後になる私がいるおかげで、二番目に遅かった子や三番目に遅かった子が、「ああ、まだりんちゃんがいるから大丈夫」と思える。そうやって私のノロマも人の役に立っているんだ。

そう言い聞かされて、それを長い間、生きる支えにしていたことを思い出したのです。

私は相変わらず、自動販売機で地下鉄のきっぷが買えなくなったり、自宅のドアを通れなくなったりしながら、もたもたと生活していますが、診断を受けてからは「そうか、障害があるんだったら、わざと怠けていたわけじゃないんだ」なんて馬鹿みたいに舞い上がっていい気になっていました。

でも、

> > 健常者としか見られていない私はどこにも逃げ道がな
> > いじゃんか、

というのを読んで、私は、自分の役割を放棄していたことに気がついたのです。「なんだ、アスペルガーくらいで不自由なんて言うなよ」。


[907] Re[900][894][887]: 生まれてきただけで人を傷つける存在 投稿者:nomad 投稿日:2000/06/26(Mon) 19:49

> >  私は病理学的には健常者なのでしょうが、
〜略〜
> > 理由付けられるけど、健常者としか見られていない私はどこにも逃げ道がな
> > いじゃんか、と思うんです。
>
> 何度読んでも、申し訳なくて、辛いです。

 ええっ!
 しまった。あなたを傷つけるつもりなんかないんですよ。。
 あなたを傷つけたとしたら、自分自身も含めて世界中の「不自由を感じている人」
のすべてを傷つけたことになる。
 私が不全感を感じているのは自分自身の問題で、あなたのせいじゃないです。
 私は私でなんとか生きてきたし、これからも生きていくでしょうし、誰にも文句は
言わせないし、不自由があろうがなかろうが誰のせいでもないです。

 うーん。。。やっぱり「不全感を持ってる」なんて書かなきゃ良かったですかね。。


[906] Re[905][904]: 下に同じ 投稿者:トルネード 投稿日:2000/06/26(Mon) 13:31

>  自我がないというのもおもしろいもので、この年になって掲示板や本を読んで他の人と較べることで、やっと多分なかったんだ、と気付くのです。本人は自分のことしか知らないので他の人もそうだろうと思っているし、疑問も持ちません。好きも嫌いも程度が低くて、まあやりたくはないけれど皆がやっているのだからそうしよう、と流されていきます。
一時期、流されてきたことに気づいて
親の言うなりだったとか、反抗心もない情けないやつだったんだ
自分はなどと、落ち込んだ時期がありましたが
良く考えれば、そのおかげでなんとか、なっていた、と言うのも
事実です。親にしてみれば、別段意見もない子どもに
いちいち意志を聞くほど、昔の親も暇ではなかったですから
私が、二十歳をこえて、反抗的になったときには
さぞ訳が分からない思いがしたことでしょう。
しかし、今の世の中が、ある意味では生きにくくなっているのも
事実です、わたしも今子どもだったらさて、無事だったかどうか
自信がありません。

わたしも楽天的なくちです。
何事もいい面を考えようと言う風な、楽に流れる
一面は子どものころとあまり変っていません。
これは、元々の性格なのかもしれませんが


[905] Re[904]: 下に同じ 投稿者:如月 投稿日:2000/06/26(Mon) 03:36

> わたしも如月さんと全く同じような経験の持ち主です
> 高校ぐらいで、自我が遅れ馳せながらでてきはじめたころ
> 書いた作文は、いままで、いかに自分に自我がなかったかを
> 自覚したという作文でした。

 自我がないというのもおもしろいもので、この年になって掲示板や本を読んで他の人と較べることで、やっと多分なかったんだ、と気付くのです。本人は自分のことしか知らないので他の人もそうだろうと思っているし、疑問も持ちません。好きも嫌いも程度が低くて、まあやりたくはないけれど皆がやっているのだからそうしよう、と流されていきます。だから良く言われるようないじめにあうような事もありません。アスペルガーの子供はいじめの対象になりやすいと書いてあると、自分は違ったけれどなあと不思議に思いました。
 けれども、精神的にはとても脆いので、ある程度は我慢しても学校で嫌な事があれば限界点を超えると、もうダメだっただろうと思います。今から振り返ると、とっても得な性格でした。数は少ないけれども、女の子にはそんなタイプの子供もいると本には書いてありますので、それだったんだと思います。私は男の子でしたけれども。
 今それなりに仕事をしていられるのも、学校から完全に落ちこぼれなかったからなので、ついていたなあと先祖のご加護に感謝しなくてはなりません。私はエンジニアも科学者の端くれとして、神懸り的なものの考え方をしてはならないと心に決めています。ある現象には必ず何らかの理由があるので、考えてわからないはずはないと思っています。
 しかし、原因はわからないけれども、統計的にかなりの確率で起きる事実に関しては、素直に認めています。例えば、占星術でいう誕生日と性格との関連性などは、自分の経験からいってもはっきりとした確証があるので事実として認めていますし、利用もしています。
 先祖のご加護もその一つで、自分は誰かに守られているのだ、と良く思います。単なる思い込みに過ぎないにしても、そう思える楽天的な部分は貴重な性格なので、とても大事にしています。世渡りが下手であってもこの楽天性がある限り、なんとかなるさと安心していられるのです。


[904] 下に同じ 投稿者:トルネード 投稿日:2000/06/25(Sun) 20:28

わたしも如月さんと全く同じような経験の持ち主です
高校ぐらいで、自我が遅れ馳せながらでてきはじめたころ
書いた作文は、いままで、いかに自分に自我がなかったかを
自覚したという作文でした。
その作文を書くまで一年ほど、文章が書けない時期が
ありました。

受験勉強にしても、自習が一番能率がいいというのは
全くの話で、世の中のひとがなぜ学校、塾とさわぐのか
全く理解出来ませんでした。なぜなら、学校へ
行っている時間は、頭がはたらいていないからです。
受験期には計画的に学校を休みました。
(落第しない程度に)
大学にいって、家庭教師をはじめて、初めて
よのなかには、自分で勉強するよりおしえてもらった
方が良く分かると言う子もいることを知り、びっくりした
ぐらいです。
それまで、自分が学校なんて、行ったって意味がないのに
とおもっていたのは「私にとっては」という
但し書き付きの憤慨だった事をさとったのです。

でも、また、こうした掲示板で、共感出来るひとが
多くなり、人生いろんな事があるものだと思います。
だから、統合というのも、まったく、普通のひとに
合わせなくてはならない統合だと、それはそれで、
厄介だろうとおもうのです。
自由裁量部分がないと、とても、つらいとおもいます。


[903] Re[901][899]: 統合 投稿者:如月 投稿日:2000/06/25(Sun) 15:14

> しかし嘆かわしいかな、今の日本の教育の現状では自閉児の受け皿はどこにもない。「アスペルガーの館」の掲示板で示唆されていたように、アスペの子専門の学校が設立されればそれにこしたことはありません。もっとも私自身は「自習」が一番、身に付くスタイルだったのですが。小学校時代は登校拒否児の先駆者でした。

 この頃はあまり思わなくなりましたが、二十代の頃はかなりはっきりと、教育なんてものは人からしてもらうのではなくて、自分で自分にするものに決まっているではないか、と思っていました。他人からの教育は他人の価値観の入ったものなので、それが嫌だったからそう強く思っていたのでしょう。二十にもなれば一般的な意味での教育は既に終わっているので、何故そんな時期にという気もしますが、前々からの不満がようやく意味のある形として認識できるようになったのかもしれません。
 高校の3年ぐらいになると出席日数ギリギリであまり学校にも行かず、自分の予定で大学の試験勉強をしていました。予備校に行ったり誰かの決めた予定に従う性格ではないので、自然と効率的な方法をとると一人で家でやるという所に落ち着きました。完全な自習の状態です。
 中学ぐらいまではあまり自我がなかったので、好きではなかったけれど普通に学校に行っていました。ある程度自分の予定を優先できる年まで自我がなかったのは幸いでした。現われ始めてからは、それまでの分を取り返すぐらいに頑固になりましたので。

 サテライトオフィスを作って時間の管理を個人に任せると、却って効率が上がらなかったり、会社に行って同僚の顔を見ていないと精神的な問題を起こす人が多いと言われますが、私の場合は100%そんなことはありません。夏休みに家にこもって一週間ぐらい仕事をすると、これ以上効率的なものはありません。余計な電話はないし、自分の予定で起きて仕事をしてご飯を食べていれば、精神面でも快適です。買い物に出ない日は何も喋らず、これまた快適です。
 そんな性格の人は、形にはめ込もうとする現在の教育には本質的に拒否反応を起こしてしまいます。だから、教育は自分でするものだよと、十年遅れぐらいで怒っていたのだろうと思います。