autismドラマに関するBBS 過去ログ(2000年6月3日〜6月24日分)


[902] Re[900]: 生まれてきただけで人を傷つける存在 投稿者:QP 投稿日:2000/06/24(Sat) 16:56

> 軽度の障害を持って生まれてきてしまった者というのは、いるだけで「不器用な健常者」「失敗しても理由づけのできない健常者」を辛くさせる存在なんですよね。
>
> 重度(?)の障害のある方の身内の方からも、「軽度の人は、いると思うだけで辛い。健常者が話をできたり、文章を書けたりするのは見ても平気だけど、軽度の人が文章を書いているのを見るのは耐えられない」と何度か言われたことがあります。
>
> そうか、私は、いるだけで重度の人の身内の方を辛くさせる存在なんだ、と思ってきました。
>
> でも、一方で、「言い訳を持つことのできない健常者」を置き去りにして、自分たちだけ先に逃げおおせている存在でもあるんですね。

リンコさんも充分、理解しておられることと思いますが、全てそれは、
まわりの人の問題であって、リンコさんの問題ではないと思います。
少なくとも私は、リンコさんは先駆者であり、私の道を開いてくだ
さっている方々のお一人だと思って感謝しています。

私も主人も、今現在の状態では、「失敗しても、理由づけのできない
健常者」です。診断は、受けていないのですから。
今現在も診断を受ける予定は、ありません。
今は、そうしようと思っています。先の事は、わかりません。

アスペ(かもしれない)だということを、隠すつもりはありません。
まわりの人には言っているし。
ただ診断をしてもらわなくても、なんとか家はやっていける状態だと
いうことだけです。

ただ、子供が大きくなる頃には、アスペだということで配慮をして
もらえる(甘やかしてもらえるということではなくて)世の中になって
いてほしいと思います。
その為なら、何でもしたいと思っています。

新参者が、偉そうな事を書いてしまいました。
笑ってください。


[901] Re[899]: 統合 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/24(Sat) 12:25

最近、アメリカで広まっている選択肢として「ホームスクール」がありますが、この「ホームスクール」は「統合教育」というイデオロギーに対抗する極端なものだと感じています。いわば教育の「ひきこもり」のような。

実際、ADHD児が日本とは比べ物にならない程の数いるアメリカでは、授業崩壊の程度は惨憺たる状況だそうです。多動の子供たちが暴れるのに便乗するホンモノの「わがままな」子供たちが事態の混乱を招いているとしたら、嘆かわしい実状です。

>《「障害」者の教育権を無視できなくなった文部省は
養護学校を義務化したが、それは「能力主義」によるものだ。
「能力主義」の教育は常に「能力競争」を誘発し、「差別と選別」を
合理化する

「差別と選別」という意識構造は人間の、そして霊長類の本質の中に実は深く根付いていると、私は考えています。同じ霊長類で一つ手前のサル社会でも、社会という単位を保つためにボスを中心とする社会を築きあげる。ボスを認定するためにオスザル同士では激しい格闘をします。「誰が強いか」「誰が誰より『優れて』いるか」を常に意識しているそうです。確かボノボだったと思いますが、特に高等なサルでは我が身を傷つける肉体的な選別行為は避けて、「思い石をどれほど遠くに投げられるか」を示威行為にしているそうです。幼稚園児ですら、「あの子、バカだから」と選別をする。

「差別や選別」が、群れの構造を保つという「社会性」に不可欠なものであるとすれば、人間の社会性はサルのそれとは何ら変わりはない。
いくら「差別や選別」はいけないことだと声高に唱えてもなくならないのも無理はないな、と思っています。大多数の、非自閉という「群れる人たち」が作り上げたシステムですから。「差別や選別」を心から恥じることはしない。

「能力」をはかるものさしも、非自閉の人たちが勝手に決めたあやふやなものです。
現在の日本の普通教育では、何かの学習効果を上げた「成果」をはかるばかりで、どのように独自の、又はユニークなルートをたどって、そしてどれくらい「好きで熱中して」その成果にたどりついたか、は、評価しない。いや、もともと数値にできるものはないから、評価できないのです。だから私たちの「小さい仲間」は学習障害というレベルを貼られ、落ちこぼれていく。周りから、そして本人さえも「私はバカだ」と言うようになる。

あ〜、書きたいことがいっぱいありすぎて、またしても散漫な文章になってしまいました。すみません。

以下、私個人の意見を書かせていただきます。
要するに、非自閉の人たちのものさしで計る「能力主義」に基づく日本の教育には、今のところ何も期待できない、ということです。
みんなと一緒に「させてもらって」、結果として、「バカだ」「宇宙人だ」と言われて自分を蔑んだり、逃避手段として自閉的ファンタジーにこもり、窓の外を見てボーッとばかりしているのでは、生殺しではないでしょうか。

しかし嘆かわしいかな、今の日本の教育の現状では自閉児の受け皿はどこにもない。「アスペルガーの館」の掲示板で示唆されていたように、アスペの子専門の学校が設立されればそれにこしたことはありません。もっとも私自身は「自習」が一番、身に付くスタイルだったのですが。小学校時代は登校拒否児の先駆者でした。

統合教育に無理矢理押し込めたあげくに、「ほら、やっぱりできない」と言っていたのでは、子供にも立つ瀬がありません。弁の立つ子なら反論するでしょう、「もっと他の勉強の仕方でやりたいのに!」と。

普通教育に参加する、という「無理」「背伸び」をすることが本人のためになる、という考え方から統合教育を推進する向きもあるでしょう。
でも普通の人の「無理」「背伸び」とは比べ物にならないほど、その程度が甚だしいとしたら、子供に向かって「死ね」と言っているのに等しくなってしまう。

いろいろな選択肢があります。普通教育でも、その子にとって楽しい場所であれば問題はありません。私の娘に関して言えば、そこからはみ出そうになったら、「ホームスクール」という手もあるな、と覚悟しています。それでも学校の中の規定の教科学習に障害は出るでしょう。でも社会が認めてくれる、そして自活につながる「価値」を学ぶ力が、必ずあるはずだと信じています。




[900] Re[894][887]: 生まれてきただけで人を傷つける存在 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/24(Sat) 12:07

>  私は病理学的には健常者なのでしょうが、自分自身に対する不全感って
> いうのをずっと持っています。「できそこないの自分」っていうのが常に
> あって、それでもなんとか社会生活を営んでいるという感覚があるんです。
>  だから逆に、アスペルガーとか診断されているならいろいろ困ったことを
> 理由付けられるけど、健常者としか見られていない私はどこにも逃げ道がな
> いじゃんか、と思うんです。

何度読んでも、申し訳なくて、辛いです。

軽度の障害を持って生まれてきてしまった者というのは、いるだけで「不器用な健常者」「失敗しても理由づけのできない健常者」を辛くさせる存在なんですよね。

重度(?)の障害のある方の身内の方からも、「軽度の人は、いると思うだけで辛い。健常者が話をできたり、文章を書けたりするのは見ても平気だけど、軽度の人が文章を書いているのを見るのは耐えられない」と何度か言われたことがあります。

そうか、私は、いるだけで重度の人の身内の方を辛くさせる存在なんだ、と思ってきました。

でも、一方で、「言い訳を持つことのできない健常者」を置き去りにして、自分たちだけ先に逃げおおせている存在でもあるんですね。

自分は、いるだけで既に人を傷つける存在なのだと思うと、生まれてしまった申し訳なさでいっぱいになります。


[899] 統合 投稿者:megumi 投稿日:2000/06/24(Sat) 09:03

子どもが生まれるより前から、
うちの書棚には「統合教育」の実践例のレポートをまとめた本がありました。
その序文には
《「障害」者の教育権を無視できなくなった文部省は
養護学校を義務化したが、それは「能力主義」によるものだ。
「能力主義」の教育は常に「能力競争」を誘発し、「差別と選別」を
合理化する》
また
《「健常」者は、共に育ちあう機会を与えられないできたために、
成人後も職場や地域で「障害」者を差別しつづけてきた》

だから、「障害」者の「完全参加と平等」が必要だ、あります。
これは、養護学校が義務化された翌年1980年の本です。

数年前、子どもの就学を控えてこの本を読み返してみました。
筆者である先生方が試行錯誤の末、子どもたちの人間関係をはぐくんでいく「感動的な実践記録」を読んで、
私が感じたことは、

うちの子も教材にされるのだろうな

ということでした。(過激な言い方ですが、本音です。)
それなら、うちの息子の教育を受ける権利はどうなるのか、
彼が何かを身につけるのには、彼の特徴に合わせた援助と、
時間と努力が必要なのに、
ただ、他の子がいる教室で、「見学する」「耐える」、
ことによると「『できない子』と辱められる」ことが
強いられるなんてとても納得できない……

こんな親の子どもを担任して、先生は大変だと思いますが、
子どもの特徴に合わせた援助・指導のためには
なにがなんでも「みんなと一緒」とはいかないということも
「みんなと一緒」をクリアすることが、子どもにとっては
見た目以上の努力(無理)をしているのだということもわかってくださったと感じています。

40人学級による一斉授業の限界を痛いほど知っている先生方を縛っているのは、
特徴のある子にあわせた配慮をすることが、差別にならないかということでしょう。
それにつけても、「こういう子どもがいるんです」
「こういう子どもにはこういう援助や配慮が必要なんです」という
認識を
もっと世の中全体に浸透させたいと思うのです。

>私から見ると長女よりずっと障害は軽く見えるのですが、
>世の中が、変わってきているのでしょうか?
変わったと思います。ご本人の書かれた自伝の威力だと思います。


[898] Re[887]: いまのところは、まだ、 投稿者:QP 投稿日:2000/06/24(Sat) 07:00

> 「そんなこと言い出したら誰でも障害者ってことになってしまう」というフレーズが、軽度障害の人にフォローを拒否し、自助努力だけを迫るときの慣用表現として使われているのが現状です。

突然の参加で、ごめんなさい。
はじめまして、私は、家族5人ともなんらかの自閉症の障害をもっているものです。
と言っても、医者に診断を受けているのは2人ですし、療育手帳をもらっているのは1人だけです。
他の3人は、いまのところ医者の診断を受ける予定はありません。

私も、長女が小さい頃、上のフレーズを何度も聞かされて傷つきました。
子供ですから、「〜障害児〜」っていう表現ですけどね。
この言葉で長女もずいぶん無理をさせられてきたし、小学校1年生の時は、「私は、バカだ、バカだ。」と泣いて傷つけられてきました。
小学校2年の時には、思い余って親のほうから障害児クラスを希望しましたが、それも上のフレーズでかなえられず、統合教育のいいところもわかっていても、統合教育という言葉にも反発を感じます。

1年の時の先生は、とても優しい先生で、「お母さん、そんなに心配しなくても小さい頃は個人差があるし、大丈夫ですよ。」という意味で言ってくださっていたと思うのですが、でもそれで無理な統合教育で、何の援助もなく、毎時間泣いていた長女の気持ちはどうなるのでしょう。

今は、5年生になって、普通クラスだけれども援助してもらえるようになって、ずいぶん落ち着いてきました。
でも、何となくある自信のなさは、低学年の頃、傷ついてきた後遺症
かななんて思うこともあります。

今、次女が4才で幼稚園に通ってますが、誰も上のフレーズは、言わなくなりました。
先生も、いつも気にかけてくれています。
私から見ると長女よりずっと障害は軽く見えるのですが、世の中が、変わってきているのでしょうか?

長くなってしまって、すいません。
ここに投稿するには少し内容がずれているかもしれませんが、自閉症の子に、無理な統合教育の弊害にあっている子どもが多いいということで
失礼しました。


[897] 895の一部を削除して再投稿します 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/24(Sat) 02:03

>  私は病理学的には健常者なのでしょうが、自分自身に対する不全感って
> いうのをずっと持っています。「できそこないの自分」っていうのが常に
> あって、それでもなんとか社会生活を営んでいるという感覚があるんです。
>  だから逆に、アスペルガーとか診断されているならいろいろ困ったことを
> 理由付けられるけど、健常者としか見られていない私はどこにも逃げ道がな
> いじゃんか、と思うんです。で、アスペルガーという不自由(障害という言
> 葉は使いたくない)が一般化されてしまえば「なんだ、アスペルガーくらい
> で不自由なんて言うなよ」って、永遠の汎化のお手伝いになるだけではない
> のか...とも思うのです。

いえ、おっしゃることはよくわかります。

明らかに障害とよばれる範疇に入る人でも、「障害という理由で言い訳をしているだけだろう」と見られては困るので、診断を受けない、と言ってがんばっている人もいますし。

つまり、日常生活の不自由の上、さらに「障害者という言葉に甘えている卑怯者」という評価までが重なるのは困る、という判断です。

別の「不利な条件をかかえている人たち」の中にも、そのような方がおられます。結婚などで差別されるからではなく、「被害に遭ったことを言い訳にしようとしているのだろう」と邪推されるのを避けたいという理由で、申告を控えるわけですが、それが今度は、病気になったときに、診断の妨げになることがあるそうで、難しいものです。

「障害や疾患があっても申告しないで、一切の不利を自分一人でカバーしてみせるぞ」という心意気を、生きる支え、矜持としている人もいるので。

<以下、再投稿に当たって付記>

ただ、悲しいことに、申告しないことを誇りにしている人は、とかく、申告して必要なフォローを受けたり、必要な用具や制度を利用したりしている人たちを激しく軽蔑していたり、差別していたりすることがあります。

私の場合、何を思い込んだか、近視でもメガネをかけないことを善だと思い込んでいた間、メガネをかけている人たち全員を、意志が弱いに違いないと軽蔑していました。不運なことに、父がメガネをかけていたんですよね・・・ 申し訳ないことをしました。


[896] Re[895][894][887]: いまのところは、まだ、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/23(Fri) 23:19

> 「障害や疾患があっても申告しないで、一切の不利を自分一人でカバーしてみせるぞ」という心意気を、生きる支え、矜持としている人もいるので。

つまり、申告する、あるいは診断を求めるという行為により、「甘えだ」「言い訳だ」という社会的処罰を受ける。

障害があることが理由で差別されるのではなく、診断を求めること、あるいは障害を公表することが「弱さの象徴」「大げさ」「悲劇のヒロインぶっている」として冷笑されるということです。

ただ、多くの人々が申告をせず、診断を求めず、隠し通すことによって、「診断を求めること」が蔑視を受けない方向への変化に結びつくかどうかは疑問ですが。

私は小学校4年から大学の2年まで、母親の意向で、近視なのにメガネを作らずにすごしてきました。視力検査では、他の人の答えを暗記すれば大丈夫なのです。その間ずっと、黒板を見ずに授業を受けてきました。当時はそれを誇りに思っていたし、私のように何もできない娘が、母に喜んでもらえることといったら、どうせそれくらいしかなかったのです。

http://web.archive.org/web/20011006195957/http://www.ne.jp/asahi/hp/keyaki/NEW/000601.html


[894] Re[887]: いまのところは、まだ、 投稿者:nomad 投稿日:2000/06/23(Fri) 21:03

> 「そんなこと言い出したら誰でも障害者ってことになってしまう」というフレーズが、軽度障害の人にフォローを拒否し、自助努力だけを迫るときの慣用表現として使われているのが現状です。

 そのへんが私とLingkoさんの差違なんだろうと思います...
 きちんとまとまった考えではないのでそのあたりは割り引いて考えて
欲しいのですが。
 私は病理学的には健常者なのでしょうが、自分自身に対する不全感って
いうのをずっと持っています。「できそこないの自分」っていうのが常に
あって、それでもなんとか社会生活を営んでいるという感覚があるんです。
 だから逆に、アスペルガーとか診断されているならいろいろ困ったことを
理由付けられるけど、健常者としか見られていない私はどこにも逃げ道がな
いじゃんか、と思うんです。で、アスペルガーという不自由(障害という言
葉は使いたくない)が一般化されてしまえば「なんだ、アスペルガーくらい
で不自由なんて言うなよ」って、永遠の汎化のお手伝いになるだけではない
のか...とも思うのです。

 これは皆さんの運動(日本語として正確な表現かどうかわかりませんが)
に水を差すつもりの考え方ではないつもりです。。。
 自分自身混乱しているのであまりうまく言えないのがもどかしですが。。


[893] NHK教育テレビでの放送予定です。 投稿者:けやき管理人 投稿日:2000/06/22(Thu) 23:00

2000年6月29日(木)NHK教育テレビでの放送予定です。
  
19:10〜19:25
「きょうの健康」アスペルガー症候群
出演 本田秀夫氏(横浜市総合リハビリセンター児童精神科医師)

19:30〜19:59 
「にんげんゆうゆう〜変わった子と言わないで〜」
感想特集〜お便り、反響におこたえして〜(仮)


http://web.archive.org/web/20011006195957/http://www.ne.jp/asahi/hp/keyaki/


[892] よくわからんのんじゃ 投稿者:お好み焼き 投稿日:2000/06/22(Thu) 11:53

普通学級に障害者が生活していくのに、いろいろな考え方があります。クラス運営をしていく上でも、よくわからないことばかりです。
しかし、この健常者中心の社会構成が間違っているということを子どもが知っていくうえでとても貴重な場面だと思います。しかし、このことを伝えていくのは非常に難しいんです。いいアドバイスがあれば教えてください。


[891] Re[890]: 統合教育 投稿者:福田 投稿日:2000/06/22(Thu) 09:05

> ろう学校の教員にろう者が少なく、盲学校の教員に盲人が少ないのも、ちょっとなあー、って思います。盲人が教員免許取ったり教員の採用試験に通ったりしにくいっていうのがあるから、なおさらなんだろうけど。
>
> あー、自閉症と関係なかったですか?

いや、関係あると思いますよ。たとえば、自閉症児の教師で、自分も自閉症のひとっていないのかな、とか。
ドナ・ウィリアムスが大学の教育実習かなにかで施設に行って、そこでパニックを起こしている子にうまくアプローチしたというのを読んで、いいな、そういう先生、と思ったことがあります。


[890] 統合教育 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/20(Tue) 12:01

私はたまたま、統合教育「しか」受けられなかったので、仲間に会う場、自分が標準になる場、自分たちだけに必要なコツを習う場としての分離教育(そんな言葉あるのか?)の機会というものに対する欠乏感が非常に激しいのです。

私の知っている弱視の人が、こんなことを言っていました。

「ぼくは晴眼者と盲人の間でアイデンティティが引き裂かれることはなかった。晴眼者でもない、盲人でもない、というどっちつかずの苦しみを味わうことはなかった。それは弱視学級があったから」

普通学級や、盲学校で育った弱視者にくらべて、弱視学級出身の彼は、晴れ晴れとしたアイデンティティを形成する機会に恵まれていたともいえるでしょう。

ろう学校の教員にろう者が少なく、盲学校の教員に盲人が少ないのも、ちょっとなあー、って思います。盲人が教員免許取ったり教員の採用試験に通ったりしにくいっていうのがあるから、なおさらなんだろうけど。

あー、自閉症と関係なかったですか? すみません・・・

http://web.archive.org/web/20011006195957/http://www.ne.jp/asahi/hp/keyaki/NEW/000601.html


[889] Re[886]: この全て完成されたような世の中で 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/20(Tue) 11:51

> 統合教育がこれから進んでいって欲しいですね。
> 『いろんな個性の子が居てそれで普通』
> そこから色々変わらないかと期待しているのですが・・・。

そうだけど、フォローなしで統合教育だけが進むと怖いですね。

統合教育にも分離教育にも一長一短があり、どちらにもそれなりの根拠があるのでしょう。私は統合教育自体には反対ではありませんが、統合教育を推める人たちの言う「根拠」の中には、いくつか引っかかるものもあります。

「健常児と混ぜておく方が、本人が健常児を見習って、健常児らしいふるまい・行動を身につけられるから」という発想は、とても危険だと思う。裏返せば、「同じ障害をもつ子といっしょにしておくと、変な癖をまねするから」ということですね。

それから、「健常児の友だちができる方がいい」という発想も。障害児どうし仲良くなるのは当たり前だから大したことはない、障害があっても健常児にも好かれれば、その方が「感じの良い子」という証明になる。そんなことを平気で言う人もいる(そういう人はきっと、繭子が美咲などに物足りなくなって、美咲を相手にしなくなったら初めて本物だと思っているのだろう)。

「健常児の中で揉まれる方が、危機感を持って努力するから何でも身につくはず」という発想をする人もいる。いつもいつも、クラスの中で、自分だけが何かができない、自分だけが一番遅い、自分だけが人に手伝ってもらわなくてはならない、自分だけが人のやりかたを盗み見してマネしなくてはならないという経験を一日数時間、毎日毎日何年間も積み重ねていくことが、どれほど屈辱的なことかも知らずに。

そのすばらしい方法というのは、毎回、生徒の中から二人ずつを指名して、誰かその日の課題ができない生徒がいれば、その二人に手伝わせるというものだった。「誰か」というのはいつも私だった。クラスの中には、ときどき何かの課題ができない生徒もいたが、常に、すべての課題ができないのは私一人だった。(グニラ・ガーランド著「ずっと『普通』になりたかった。」190p)

http://web.archive.org/web/20011006195957/http://www.ne.jp/asahi/hp/keyaki/NEW/000601.html


[888] Re[887]: いまのところは、まだ、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/20(Tue) 10:15

> でも、悲しい慣用が現にあるせいで、良い意味で使われたときでさえも、自動的に冷たい意味に聞こえてしまうのが残念です。

そういう意味では、「心的がいしょう」という名の「しょうがい」が、一番のネックになっているように思います。


[887] いまのところは、まだ、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/20(Tue) 09:34

「そんなこと言い出したら誰でも障害者ってことになってしまう」というフレーズが、軽度障害の人にフォローを拒否し、自助努力だけを迫るときの慣用表現として使われているのが現状です。

「障害なんてありふれているのだから、忌み嫌ったりする必要はない」という文脈で使われることも、ないわけじゃないのですけどね。

でも、悲しい慣用が現にあるせいで、良い意味で使われたときでさえも、自動的に冷たい意味に聞こえてしまうのが残念です。


[886] この全て完成されたような世の中で 投稿者:sippona 投稿日:2000/06/20(Tue) 07:11

ヒトの脳だけは未完成で在り続けるのだそうです。
逆に言えば完成品などあり得ないと言う事。
これを知って少し気が楽になったものです。

遺伝子の不思議だと・・・そんな風に思っています。
もちろんいろんな障害や個性のどれもが遺伝子だけの問題では無いのだろうけれど。

統計上カウントされない障害を持っている人だって多いかもしれません。

私は昔、例えば自分が子供の頃に障害児、者がどんな扱いを受けていたのか
分からないけれど、その頃から思えば今は少しは暮らしやすくなってはいないかと思います。
とりあえずハード面だけだと思いますが・・・。
後の中身はこれからの課題じゃないですか?
統合教育がこれから進んでいって欲しいですね。
『いろんな個性の子が居てそれで普通』
そこから色々変わらないかと期待しているのですが・・・。


[885] 投稿者:なな 投稿日:2000/06/19(Mon) 23:00

突然、脈絡のない話題ですみません。

日曜日に久々に母と会って、買い物をしました。
昔から落ち着きの無い人だという印象を持っていたのですが、最近いろいろ増えた知識からすると、あきらかに問題児です。で私は「私達って、今の時代に小学生してたら、絶対に障害児にされてたね。」と言ったところ、母が「もちろんよ、こんなに複雑な体の何処にも欠陥のない人なんているわけ無いでしょ。」と言いました。
ヒトゲノム計画も進んでいるようですし、21世紀の後半にはすべての人が○○症候群をひとつはもっているのが当たり前で、その人に合った生き方を尊重できるような社会になっていればいいな、なんて思いました。

でも、こんなエキセントリックな母親を持っていたおかげで、私はいままで周りとは変わっていても自分を見失わずに生きてこれたんだなと、しみじみと思いました。もちろん、寡黙で鉄道マニアな父にも感謝してます。こんなに変わった両親だったからこそ、私が生まれて来たんだ、私というキャラクターが出来たんだと思うと、両親に感謝です。ごめんね、いままであなた方の愛情を感じてあげられなくて。
でも、私がこうやってここにいるのはあなた方の愛情のおかげなんだね、となんとなく愛情というものが分かった一日でした。


[884] 「心の理論」について 投稿者:如月 投稿日:2000/06/19(Mon) 01:48

 「心の理論」で良く知られている、アンとサリーの課題があります。最初にこれを知ったのは3、4年前で、もう40ぐらいになっていました。二人の登場人物がいて、更に籠と箱の二つの入れ物が出てくる問題を読んで、的確に意味を把握するのはかなり難しいことです。一度読んだだけでは良く理解できなかったけれども、ビー玉が箱の中にあるのは間違いがないので、当然箱を探すだろうと思いました。しかし、答えは籠で見事に引っかかりました。
 この時は文章で読んだので解読能力の問題があるし、私の場合、誰が何を何処に動かしたという観点からは考えなくて、ビー玉が今何処にあるのか、という見方しかしないので、それらが原因だろうと思いました。それから、サリーがビー玉の移動を知らないという事実は、出て行ったという事で間接的に指示されているだけなので、少し騙されたような気もしました。それが大事な要素であるならば、もっと明確に指示されていないと、あまり公正なやり方ではないな、とも思い釈然としないものが残ったままになりました。

 その後「発達障害の豊かな世界」の中で、5コマの漫画になって同じ課題が出ていたのでもう一度やって見たら、前回よりも、もっとはっきりと自信を持って間違いました。この時は漫画になっていたので文章解読の問題はなく、意味ははっきりとわかりましたが、やはり間違いました。二度目なので答えは知っていたのですが、どうしても意識の流れから行くと、答えは箱となってしまいます。意味を理解している分だけ、はっきりと答えは箱となりました。最初の時から腑に落ちない部分があったので、あれこれ考えてみると、それは二つの大きな原因に依るのだと思い至りました。

 一つめは、今回の漫画のように4コマめでアンがビー玉を箱に移している場面を見てしまうと、5コマめでサリーが何処を探すかと聞かれても、4コマめの印象が強すぎて、そのすぐ後に、箱ではなく籠という答えをもってくるのは非常に難しい、ということです。 細部に拘って全体を見る能力が低い事を、「中枢的統合の低さ」と言うのだとこの本に書いてありましたが、4コマめの印象から抜け出せないのはこの影響だろうと思います。ここから抜け出すためには、主語がアンからサリーに変わるぐらいではダメで、人形は何処にあるかというぐらいの転回がなければ、まず無理な話です。主語が変わったぐらいでは、到底4コマめの印象からは抜け出せません。
 話の中には出てきていませんが、ビー玉が人形に変われば4コマめの呪縛から抜け出して、最初から絵を追い直して人形は何処かなと考えます。この場合、人形は出てきていないので、箱でも籠でもなく問題には出てきていないと判断しますし、出てきていれば決してその場所を間違えたりもしません。

 二つ目の原因は最初に思ったように、自分の発想方法から行くとこのような場合、誰が動かすではなくビー玉が何処にあるか、という見方しかしません。だから主語がサリーであっても質問の意図は、自動的にビー玉は何処にあるのか、に変換されるので答えは箱以外にありえないのです。主語の違いは完全に無視されます。
 誤解のないように断っておくと、人間ではなく物を中心に考えるという意味ではありません。仮にアンとサリーがロボットでビー玉が子供であったとしても、やはり答えは箱です。
 こういう場合、工学的に最適の解答を出そうとするならば、動かす人ではなく、動かされているビー玉の場所を追いかけなくてはなりません。工学的とはコンピューターなり機械の設計をするならば、ビー玉に注目しなければ良い結果は出ない、という意味です。職業的にそんな癖がついているので、もしかしたら子供の頃にはビー玉中心の発想をしていなかったかもしれません。しかし、そういう発想の次元の問題はなかなか変わるものではないので、強さの程度はあっても昔からその発想だったろうと思います。

 何故間違えるのかは、私の場合この二つの理由がほとんどです。他の人にはその人独自の考えがある、というのが「心の理論」の意味するものであるならば、今ではとっくにその事実を理解していますし、それを前提に過去のデータから他人の真意を推測するのが常になっています。しかし、「心の理論」があっても、以上の二つの理由があるので、やはり確実に間違えてしまいます。
 二つめの理由には少し「心の理論」と関連する所がありますが、人間を無視するのは彼等が別の心理状態にあると認めないからではなく、動かされるものに注目するからです。ですから私が間違えるのは、「心の理論」とはほとんど関連を持たない理由からだといって間違いありません。「心の理論」に入れ込んでいる研究者もいるそうですが、さてどうかな、と思っています。


[883] 訂正 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/18(Sun) 21:10

下の「(ここからは私の仮説)」という部分は、
「修復されてしまいますが」と、「修復不可能なまでに」との間に挿入して考えてください。


[882] Re[880][871]: 心理評価とか 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/18(Sun) 21:07

>トラウマでさえ脳の傷という観点から語れる

トラウマや強いストレスを受けるとコルチゾールというホルモンが大量に分泌されます。大量のコルチゾールには神経回路を焼き切る働きがあります。私の娘は強いストレスで大パニックを起こすと、一時的に一部の記憶が失われます(ひらがなを読めなくなったり、とか)。(ここからは私の仮説)いったん失われた神経回路も、脳の可塑性があるおかげで大部分は修復されてしまいますが、修復不可能なまでに決定的に焼き切られてしまうと、最近、町沢先生などの言われる「心が壊れた」状態になると考えています。

自閉「症」者やADHD者が恒常的に「神経症」状態であると仮定すれば、決して強いストレスやトラウマを受けてはならないはずです。私が「小さい仲間たち」の心を守って欲しい、と、この掲示板を借りて再三訴えている理由はこれなのです。


[881] Re[880][871]: 心理評価とか 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/18(Sun) 20:51

私は医者ではないのですが(笑)、
神経病理の程度が甚だしくなると、つまり神経病理スペクトルの最もポイントの高い方がこころの病と呼ばれる状態になるのだと思います。
例えば(私の勝手な仮説です)ドーパミン代謝に異常があるのを、他の伝達物質(例えばセロトニン)によって何とか全体的な拮抗を取っている状態が「神経症」、この拮抗が完全に壊れてしまうのが「精神病」。

私としては東大文化研(今でもそうかな?)の石浦先生の意見を聞いてみたいのですが。


[880] Re[871]: 心理評価とか 投稿者:福田 投稿日:2000/06/18(Sun) 18:35

> 神経病理=こころの病では無いとする私の考えです。
> お医者様がおられればこの辺りを解説して欲しいものです。

賛成です。僕も聞きたい。
うつ病は少なからず身体の不調をともないますよね。うつ病の友人は、身体のバランスがとれなくてめまいを起こしていました。また、別のうつ病の知人は、ちょっと近所に買い物に出かけただけで疲労困憊し、その後16時間眠りつづけるとかしていました。
NHKで放送されていたんですが、心的外傷(トラウマ)がどうやって脳の損傷を引き起こすかという過程も今はほぼ判明しているそうです。トラウマでさえ脳の傷という観点から語れるご時世ですから、こころが病むという問題を語る際に、器質に異常が見られるという視点は欠かせないんじゃないかと思いますが。
たとえば河合隼生とか小此木敬吾とかはどう考えているんでしょうね?


[879] Re[875][873][866]: 表情を読む 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/17(Sat) 16:40

繭子がいろいろな自閉者のつぎはぎなのは、見ていても明らかですよね?表情の件もその一つです。
第2話で、噴水の前で狭山先生に高機能自閉症であることを告げられたときに、「先生は私のことをバカにしています。」と言うシーンがありました。狭山先生が「バカにしていないよ。」と言うと「だったら笑わないで。」と繭子は言いました。親しみを伝える笑顔を繭子は知らなかった。(私も成人するまで知りませんでした。なぜ笑ってるのかな、何かおかしいこと言ったかな、バカにしてるんだ、と思っていましたから。笑顔は私にとって不可解な恐怖を与えるものでした。)

なのに「人はどんなときに笑うの?」と訊き、「誰かの味方になりたいとき」と教えてもらっている。

私がよく人に言われるのは、「あの人、あなたに話したそうにしてたのに、あなたは無視をした」・・かな。「〜したそうにしてた」っていうのは全く分かりません。知っている人と道ですれ違うときはヒヤヒヤ物です。相手がただ、時のあいさつをして通り過ぎるものなのか、私に何かを言ってこようとしているのか、なかなか判断できません。「めくばせ」も私には何を言っているのか、全く分かりません。「あの会議中、あなたに発言して欲しくて何度もめくばせしたのに、あなたは笑い返してくるだけだった。」と言われたことがあります。ほんと、情けなかった〜!惨めだった〜!

あ、何か、めちゃくちゃ恥ずかしくなってきました(笑)。

それにコーヒーカップのシーンの狭山先生の表情(というか眼)は、私には不気味に思えました。親しみや恋を表す表情かな、と思っていました。(それでも全身、寒ボロが出ました。)そこへMさんが「穏やかな暖かい表情」と書いておられたので、「うひゃ〜、全く分からん〜」って卒倒してました。





[878] 私の場合、 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/17(Sat) 13:26

母が死んだとき、はたから見ると私は激怒してたらしい。
死の観念がなかった訳ではないけど。
母の身体の背中かどこかにぜんまいがあって、それを回すとまた動き出して、あの薄い唇で私に悪態をつき始めるような気がした。

何だか無性に腹が立った。あれは「我慢」とは違うなあ。

ぷりぷり怒りながら通夜のしたくをしていたので、台所にある皿を割ってしまった。葬儀屋にもほとんど喧嘩腰だったので、叔父が驚いて引いていた。


[877] 父のお葬式の時 投稿者:ゆっこ 投稿日:2000/06/17(Sat) 13:13

母にそんなニコニコしないで、みっともないといわました

知らず知らずのうちに、悲しい気持を表面に出さずに笑顔で
演じていたんですね
いつもの顔していないと、友達が心配するとかもあるけど
笑顔で作って我慢する、悲しみを・・・そんな所がある
それが大変だったねーと親友に言われたりすると泣きくずれていまう、そんなに親しくない友人だったら大丈夫なんだけど・・・

この私の笑顔を、痛々しいとみるか?
しっかりしてる?と見るか?
私の性格をよく知っている友人にはわかんですよね


[876] 父のお葬式の時 投稿者:ゆっこ 投稿日:2000/06/17(Sat) 13:09

母にそんなニコニコしないで、みっともないといわました

知らず知らずのうちに、悲しい気持を表面に出さずに笑顔で
演じていたんですね
いつもの顔していないと、友達が心配するとかもあるけど
笑顔で作って我慢する、悲しみを・・・そんな所がある
それが大変だったねーと親友に言われたりすると泣きくずれていまう、そんなに親しくない友人だったら大丈夫なんだけど・・・




[875] Re[873][866]: 表情を読む 投稿者:JJ 投稿日:2000/06/17(Sat) 13:08

> > >Lingko さん
> >
> > 表情がわからない人がこの世にいることを信じていない訳ではないのです。
>
> ああ、そうだったんですか! 助かりました。
> 昨日はショックで何も手につかなかったけど、私の勘違いだったんですね。
>
> 子どものころから30過ぎまでずっと、何度「人の表情がわからない」「いつ笑ったらいいかわからない」と言っても、「そんな馬鹿なことがあるはずない」「仮病か?」「精神病がかっこいいと思って憧れているんだろう」「何を気どっているの」「馬鹿のふりをして、責任逃れをしようったって、そうはいかんぞ」と言われ続けてきたので、その経験と結びついてしまったのだと思います。


わたしもLingkoさんと同じで「なにかっこつけてるん」「なにきどってるん」
「ええかっこしい」「なんで悲しくなれへんの」「冷たいやつ」などとよく言われていました。
ムリに笑った顔をつくってみたりすると気持ちわるいと言われたことがあります。

今は、顔の筋肉の動きで判断していますが、
みな同じ顔ではないし筋肉の動きが違っているのでやはり解りにくいです。
家の奥さんの表情すら読めません。

それよりもなによりも人の顔をなかなか覚えられません。


[874] Re[870][869]: 表情 投稿者:ゆっこ 投稿日:2000/06/17(Sat) 12:08



> 私の場合は、そんなことを考える間もなく、「怒っている顔」⇒「怒られた」⇒「怖い」に飛躍してしまいます。
人ってそんなに簡単に怒ったりはしないと思います
言われたとこについて、考えたり、自分とちがう意見だなと
思う時、少し険しい顔をするかもしれませんけど・・・
確かに、私の険しい顔を見ると、気分悪いし、怖いと思うことがあるけど、相手の受け取り方が違ったり、することもあるので
やはり、何かお気に障ることをいいましたでしょうか?とか
聞いてみるのもいいかもいれませんよ
私は、気になるのでけっこう聞いてしまいます




> は、「怖い人」が「良い人」に豹変するだけです。
面白いこと言ってと、馬鹿にした笑い(笑顔)の場合とかも
ありえますし、なにかおかしいこといいましたとか
私は聞いてしまいます

でも、むずかしいですよね・・・
人の気持を会話の中から、読み取るというのは・・・
ダイレクトにいうと、角が立つなんて感じで遠回しに
話しなどをされたりすると、よけい何を言おうとしているのか
わからなくなったりして・・・よけいいやみに聞こえたりして

うちの息子が産まれた時、どうしてこの子の心が読めないのか
悩みました・・・


[873] Re[866]: 表情を読む 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/17(Sat) 11:47

> >Lingko さん
>
> 表情がわからない人がこの世にいることを信じていない訳ではないのです。

ああ、そうだったんですか! 助かりました。
昨日はショックで何も手につかなかったけど、私の勘違いだったんですね。

子どものころから30過ぎまでずっと、何度「人の表情がわからない」「いつ笑ったらいいかわからない」と言っても、「そんな馬鹿なことがあるはずない」「仮病か?」「精神病がかっこいいと思って憧れているんだろう」「何を気どっているの」「馬鹿のふりをして、責任逃れをしようったって、そうはいかんぞ」と言われ続けてきたので、その経験と結びついてしまったのだと思います。

日ごろ、自分を鼓舞する意味もあって、一見強気な文章をよく書いていますが、中身はまだぼろぼろだったんですね。

お恥ずかしい話でございます。見栄を張っていたから、バチが当たったんですね。


[872] Re[871]: 心理評価とか 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/17(Sat) 11:37

> それで自閉症初心者の私は「こころがおかしいの?」としばらく悩みました。

「こころがおかしい」のではなくて、「こころの構造が違う」のです。
感覚神経や運動神経の異常は、器質的なものだと思います。


[871] 心理評価とか 投稿者:sippona 投稿日:2000/06/17(Sat) 11:03

ふむふむさん

子供の障害が疑わしいと思われるとまず受けるのが『心理評価』なんです。
心理ということは「こころの評価」。
それで自閉症初心者の私は「こころがおかしいの?」としばらく悩みました。

自閉症の事を色々知るにつれ、そうではなく自閉症という障害の中で現われてくる特徴が
一見こころから来ているように見えがちな特徴なんだと解ってきました。
これは無いお子さんもいるのでしょうが、孤独になりたがる、接触を拒否する、
不安、こだわり、パニックなど。
それぞれそうなる理由みたいな物も大体判っているのですが・・・書くと長くなりそうで。

神経病理=こころの病では無いとする私の考えです。
お医者様がおられればこの辺りを解説して欲しいものです。

例えば情緒障害という言葉が有るのですが、これ普通に聞けば
こころから来る障害と取れそうですね。
自閉症の事を詳しく知る方は誰もそうだとは言わないでしょう。


[870] Re[869]: 表情 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/17(Sat) 10:27

> この人怒っているのかな
> その前に出来事や人に怒っていたすることがある
> 怒らせるような事をしてない

私の場合は、そんなことを考える間もなく、「怒っている顔」⇒「怒られた」⇒「怖い」に飛躍してしまいます。


> 表情が変わった時

は、「怖い人」が「良い人」に豹変するだけです。


[869] 表情 投稿者:ゆっこ 投稿日:2000/06/17(Sat) 09:57

質問をして、キツイ口調で答えられたりすると、この人怒っているのかなと思ってしまう
怒っているには、怒っているけど私に怒っているわけではなく
その前に出来事や人に怒っていたすることがある

自分がその人に対して、怒らせるような事をしてないと思ったら
例え、怒った表情をしていても気にいないことだなと思っています
怒らせるような事がわからなければ、自分話している時相手の表情が変わるかどうか?一定の表情で話を聞いてくれれば、大丈夫
表情が変わった時、どうしました?など聞くとか・・・


[868] Re[867]: 表情 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/17(Sat) 06:16

> 表情の学習が混乱を招かないかなと心配しています

まあ、実用的に困らない範囲で分かれば良いんじゃないでしょうか?
例えば、車の運転をしている人が真剣な顔をしていても、満面の笑みをたたえていた受け付け嬢が向こうを向いた時に作り笑いを止めるのを見ても、私のことを「怒っているわけではない」ことが分かっただけで、十分に楽になりました。
もともと、複雑な「感情」がこちら側にないので、そんな程度の理解でしかありません。表情がわからずに全く人の気持ちを無視してしまったり、とんでもない読み違いをしてしまうと生活上不都合ですから、それが少しでも軽くなればいいということです。


[867] 表情 投稿者:ゆっこ 投稿日:2000/06/16(Fri) 22:55

難しいですね・・忙しい仕事の最中に、声を変えられたりすると
つい、怖い顔をしたりいてしまう・・・怒っているわけじゃないのに
勘違いされたりしますよね
非自閉でも、表情だけでは読めない
周りの状況と話し方、性格・・・などなど
私は会社で受付業務をしていたんですが、顔をニコニコ、頭のなかでは怒っていても、丁寧にお断りなんて事もありますよね
なかなか、怒っている顔を人に向けるということは、主人とけんかしているくらいしか見せませんね、私は・・・

表情の学習が混乱を招かないかなと心配しています



[866] 表情を読む 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/16(Fri) 21:49

>Lingko さん

表情がわからない人がこの世にいることを信じていない訳ではないのです。
私の書き方が良くなかったですね。
ごめんなさい。
娘がわかる人かわからない人か、全然わからなくて、不安なのであのような書き方になってしまいました。


>ペンギンさん

良くわかりました。
ありがとうございました。


[865] 表情の訓練。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/16(Fri) 21:30

本当に人の表情を読み取るのなら写真やドラマなどを見ながら一緒に考えた方が効果的です。それから、実際に自分も同じ表情をさせることも必要で、実際にソーシャル・スキルトレーニングにそういうものがあります。
ただ、人間の感情にはいろんなものがあることを教えるために、「言葉」の理解を深める為にイラストを使います。けれど、外国の本のものを使うと、日本人には合わないと思います。
五味太郎さんの「言葉図鑑」シリーズの方が、日本的です。

それから、顔の表情理解にもまた個人差があります。
私の場合は、ドナさんと一緒で、怒った顔=疲れた顔=真顔の区別がつきませんでした。それで、「世の中」の人はほとんど全員、私のことを怒っていると、ずーっと思っていました。
それに気づいたのは、ドナさんの本を読んでからです。そして、「今、怒っている?」と人に聞いてみたら、「疲れているだけだ!」怒られました。
それ以来、よく気をつけて観察したら、私は人がニコニコしているとうれしくなってしまうので、楽しそうにしている顔だけを見ていたことが分かりました。


[864] Re[863]: 表情を読み取る練習 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/16(Fri) 21:25

> ドナさんの本でも人の表情がわからないというくだりがありますが、本当にそんなにわからないものなのでしょうか。

そりゃ、わかる人もいるでしょう。能力のデコボコには個人差がありますから。

カンガーさんの子どもさんが表情のわかる人なのか、それともわからない人なのか、それは私には知りようのないことです。

でも、せめて「表情がわからない人」というものがこの世にいるっていうことだけは、信じてほしいものです。


[863] 表情を読み取る練習 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/16(Fri) 20:25

ドラマの中で、繭子が表情を読み取る練習をしていますが、これは必要なことなのでしょうか?
娘にも教えるべきか、迷っています。

ドナさんの本でも人の表情がわからないというくだりがありますが、本当にそんなにわからないものなのでしょうか。

ドラマの中で、表情を読み取る練習に使っている顔の絵ですが、もし、私があの顔の絵を見せられてテストされたら、正解できないなあと思ってしまいました。
言われてみれば、そう見えないこともないけれど。

ガイドブック アスペルガー症候群にも、似た絵があるけれど、これを見てもやっぱり私には「そうかなあ」と思ってしまうものがあります。



[862] Re[860][858][852]: 『I LOVE YOU』 投稿者:如月 投稿日:2000/06/16(Fri) 01:00

 「愛している」という言葉は、たぶん明治以降に「love」の翻訳語として使われ始めたもので、それ以前には「惚れる」とか「思う」が普通の言い方だったと思います。勿論あまり詳しくはありませんが。
 「love」のあった言語圏では、「love」>「like」がはっきりと区別されるのでしょうが、つい最近まで「love」のなかった日本語の中では、まだまだ落ち着きのある生活に根ざした言葉にはなっていないような気がします。これまた想像ですが、「love」にはキリスト教的な神の感覚を感じます。絶対的で他に比べるもののないものが「love」のようです。
 今でも大阪の人は「好きやねん」と言われれば本気にしますが、「愛している」と言われると、こそばくて、ああ嘘やなと思います。私にも「love」は実感のある言葉ではないので、「好き」とは言えても「愛している」とは言いません。「愛している」を言う言わないは、自閉症以前の言語感覚の問題だと思います。


[861] しつこくも 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/15(Thu) 09:59

「心の中に入り込む」ことの意味や実感をつかもうとしていた私ですが、昨日の『天使の〜』を見ててハッとするヒントがありました。

京子さんが輝さんの手の上に自分の手を置いたとき、輝さんは手を引っ込めましたよね。見てて「あ、私とおんなじだ!」と思いました。手に触れられることが嫌いな「接触嫌い」もありますが、あんな感じで手に触れられるのは、それこそ「心が通い合う」ような意味合いがあるんですよね。そのことは私にも分かります。でもイヤなんです。「心が通い合う」感じに飲み込まれるのは。

逆の立場に立ったこともあります。つまり私が相手の手に「触れたい」と思ったことが。どうしようもなく落ち込んでるその相手を前に、「何とかしたい」と思いました。「励ます」のではなく「苦しみを私に分けて欲しい」と思いました。でもどうしていいか、分からなかったんです。手を握ってあげる、とかすればいいんでしょうか。でも、そんなことをすることが相手の「心の中に入ること」のような気もしました。本当にもどかしい思いでした。

こんな風に「心の中に入る」どころか、その100メートル手前でウダウダ考えていたのでは、一生分かりませんねえ。


[860] Re[858][852]: 『I LOVE YOU』 投稿者:「4番」 投稿日:2000/06/15(Thu) 02:44

> 私も引っかかりまくってましたよー、もう! 
> 何がって、言わせて「あげたい」の部分です。
結局、施し、なんでしょうか…無意識にしろ、優位に立ってる、んでしょうか…。哀しくて悔しいです。

> 「あげたい」とは何事か! 何で言わせて「もらわ」なきゃならんか! ってね。"I Love You" が人間にとって大事なことだとか、"I Love You"の方が"I Like You"よりも価値が高いとかいう前提が、当然視されているから。

私は、「愛してる」は、実感がないので、言えません。なんか、「空白な言葉」なんです。
でも、「大好き!」は言えます。多分、「感極まった時」といわれる時に言ってるような気がします。

ご本人の書かれた本の中では、「変光星」が私は好きです。昔、谷川さんの「ことばあそびうた」や「マザー・グースの歌」にはまった時のように、夢中になりました。

マルハナバチさんの訳されたグニラさんの本は、フラッシュ・バックが多すぎて、途中で停まってます…。
「ばたん!」と音を立てて本を閉じて、その音で、スイッチを切り替えました(笑)


[859] 心にこだわってしまった。 投稿者:ふむふむ 投稿日:2000/06/14(Wed) 22:03

自閉症は、脳の機能障害である。・・・正解

自閉症は、心の障害である。・・・・・不正解

自閉症は、心の病である。・・・・・・不正解

神経症は、心の病である。・・・・・・正解

私のイメージとしては、以上のような感じなのです。
(医学的に違ってたらごめんなさい。)

「心」というと、どうしても周囲の人間関係を抜きには存在し得ない
言葉に感じられます。

そういえば、大野晋さんの「日本語練習帳」。
普段、無意識に使い分けている類似語に明確な定義を与えてくれて、
おもしろかったです。

大野先生に「心」の定義を教えてもらいたい・・・。

ちなみに、キムタクの脳がたこ八郎に入ったら・・・
鏡を見た瞬間にアイデンティティが崩壊すると思います。(笑)


[858] Re[852]: 『I LOVE YOU』 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/14(Wed) 20:28

> ただ、このドラマを作る時に山崎プロデューサが言われていた
> 『自閉症者は「好き」は言えても、なかなか『愛している』が言えない、それをドラマで言わせてあげたい』
> 本当のことなのか判りませんが、これが引っ掛かっていました、私の中で。

私も引っかかりまくってましたよー、もう! 
何がって、言わせて「あげたい」の部分です。

「あげたい」とは何事か! 何で言わせて「もらわ」なきゃならんか! ってね。"I Love You" が人間にとって大事なことだとか、"I Love You"の方が"I Like You"よりも価値が高いとかいう前提が、当然視されているから。

この前提自体、NTの人が勝手に作ったものではないの? NTの世界の価値観ではないの? そう思ったんですよ。

自閉者本人の手になる著書はたくさん出ていますが、テンプルさんやグニラや、ジャズミン・リー・オニールの本よりも、ドナの本の方が良く売れる。たくさん売れる。つまり健常者に人気が出る。その理由の一つは、ドナの本では、「恋愛」や「結婚」が扱われているからかもしれない・・・ そんなことを考えたのでした。

別にドナに罪はありません。恋愛も結婚もしたかったらしたらいいんだし、私だって結婚しています。ただ、恋愛する人の手記の方が、恋愛はもう結構、という人の手記よりも読者に好まれるとか、恋愛が出てくる方が「一人がいいや」という話よりも感動的な話として読まれやすいとか、そういったバイアスが読み手の側にあるんだとしたら、それは嫌だ。

もちろん、ドナの本が好まれる理由は他にもいろいろあるのでしょうから、恋愛だけが要因だけとは思いませんが。


[857] 例えば 投稿者:sippona 投稿日:2000/06/14(Wed) 14:10

私の考えでは私の娘が姿はそのままで、中身(やはり脳かな)がそっくり誰かと変わってしまったら
それはもう私の娘ではなくなると思います。

芸能人ならイメージの世界の人なので、例の話はちょっと考えましたが
私的にはキムタクは誰の中に入ってもやはりキムタクという方かな。

私も悲しさを感じるのは繭子と同じでハートの場所なような気がするんですけどね。
これはイメージでしかないのだろうけれど、不思議なものですね。
私より、Lingkoさんの表現の方が痛みの感覚としては数段的確に感じます。


[856] Re[855]: 心の場所 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/14(Wed) 12:26

>  けれども、先生に嫌いだと言われた繭子が痛みを感じるのは、脳ではなくて胸の心臓の辺りです。悲しくても頭が痛くなったりはせずに、辛さは心臓の辺りに居座ります。

私は、悲しいときは顔が痛くなります。より具体的に特定するなら、主にアゴ、次いで頬骨です。泣くのには口を使わなくてはならないからではないかと思います。

私は皮膚を水滴が伝う感触が大嫌いなので、かなり悲しくても涙は最大限にがまんしようとします(他人のまで、食べこぼし同様に拭きたくなって、それもがまん・・・)。でも、濡れたくないからと涙をがまんすると、アゴの痛みはよりひどくなります。泣いた方がかなりマシなようです。

試みに、自分のアゴの、いつも悲しいときに痛くなるスポットを指できつく締めつけると、痛みと同時に、本当に悲しくなってくるものです。この方法で号泣することもできます。うまくいけば、頬骨もちゃんと痛くなります。

でも、悲しい以外の感情は、また別の場所にあります。恐怖、不安、期待などは胃の付近で感じるようです。これは難しいのですが、恐怖と不安と期待は、どれもよく似ていて判別に苦労します。私は期待感の取り扱いがうまくなく、あまり激しい期待感は苦痛になることがありますし、期待が長く続くのは苦手です(実現する前に飽きてしまって、どうでもよくなるのは、もしかしたら合理的な防衛手段なのかもしれないと思うこともあります)。


[855] 心の場所 投稿者:如月 投稿日:2000/06/14(Wed) 01:07

 医学的、科学的には、心や感情を決めている場所は脳であると言って間違いないと思います。脳に作用して、性格までも変えてしまうような薬がある時代ですから。
 けれども、先生に嫌いだと言われた繭子が痛みを感じるのは、脳ではなくて胸の心臓の辺りです。悲しくても頭が痛くなったりはせずに、辛さは心臓の辺りに居座ります。心の臓器と書いて心臓ですから、昔の人は痛みを感じる心臓こそが心の在処だ、と考えたのでしょう。
 ハートが破れれば漫画でも失恋ですが、頭が破れたのでは何のことかわかりません。実感としては、理性の場所が脳で、感情の場所が心臓のような気がします。


[854] Re[850]: 心の中に入り込む 投稿者:ふむふむ 投稿日:2000/06/13(Tue) 23:27

> 脳の動きで『感情』と呼ばれる物が出る。それが一般に呼ばれる『心』なんじゃないかなと。
>
いきなりのレスで失礼ですが・・・

私は、その表現には、なんとなーく理屈を超えた違和感を感じます。

確かに、科学的には、
物を見ているのは目ではなくて脳、
音を聞いているのも耳ではなくて脳、
というように
心は脳・・・かもしれませんが、この違和感は何でしょうか。
(自分で言って訊いてちゃ、世話ないですね。すみません。
考えたことをまとめられないので。)

爆笑問題の昔のギャグを思い出しました。
「木村拓哉とたこ八朗の脳みそを交換したらどちらが木村拓哉だろうか」
ってやつです。

ギャグの落ちは、確か、
「脳がキムタクでも、身体がたこなら、たこ八郎。」
「じゃあ、脳がたこで、身体がキムタクなら?」
「やっぱり、たこだろう。」

うーん、あんまり関係ないですか?


[853] うわっ 投稿者:megumi 投稿日:2000/06/13(Tue) 22:36

こんな展開になっていようとは思わなくて、のけぞってしまいました。

残念ながら、実際に経験したことはありませんが
私が恋する男性から、あんなふうに「誰よりも心の中に入り込んでくる」といわれたら、

「きゃ〜〜私は彼にとって特別な存在なのね〜〜」と有頂天になるでしょう。

繭子が慎一の心の痛手に関して、ストレートな質問を繰り返したことは
「人の心に土足で踏み込んでいる」と思われても仕方のないことです。
けれども、慎一には、「繭子には悪意がない」ことがよくわかっていた。
それどころか、繭子が意図したわけではありませんが
結果的に慎一に自分自身の心の傷を直視する後押しをしたのです。
リナが自分の辛さに任せて、慎一や繭子や自分自身を傷つけるのとは
対照的です。

直視すれば傷が癒えるわけではありませんが、
「傷ついている自分」をありのまま受け入れなければ
次の一歩を踏み出すことはできません。

繭子の真摯さは慎一の心を揺さぶりました。

>遊園地の入り口でモールに見とれる繭子を見る時も、ジェットコースターに
>怯え?コーヒーカップで目を回す時も、穏やかな温かい顔でしたよね。
>「こらこら、僕は苦手なんだよ、これ。君はいいねぇ。」
>といった感じかな。

それでも、まだ、慎一は自分の感覚のほうが「正常」と
考えるところから抜け出せないでいるように思います。

潤ほどではないにしろ。


ドラマで、繭子があやまるたびに、
(そんなに謝らなくてもいいのに〜、謝らなくていいと言ってあげてよ)と思うのですが、
自分の子には、「あ、ごめんなさい、今度からちゃんとやりますから」と、しょっちゅう言わせてしまう。
情けないです。


[852] 『I LOVE YOU』 投稿者:sippona 投稿日:2000/06/13(Tue) 22:13

繭子は確かに狭山先生に対して恋をしています。あれを恋と呼ばないで何と言う。

ただ、このドラマを作る時に山崎プロデューサが言われていた
『自閉症者は「好き」は言えても、なかなか『愛している』が言えない、それをドラマで言わせてあげたい』
本当のことなのか判りませんが、これが引っ掛かっていました、私の中で。
(本当ならこれが困難な所だろうに簡単に言わせてもいいのか?と思っていたので・・・)

恋は出来ても今の繭子は『私は楽しい、先生も楽しい』(合ってるか不安)と喜び(確か先生に『先生、楽しい?』と聞いて
先生が『楽しいよ』と答えた為にそう取ってしまったのだけれど)
先生が苦手なメリーゴーランドに付き合ってくれているのが解らない。

一方的な思いのままでは愛と呼べるまでには発展出来ないのではと思うのです。
今はまだこんな感じ。
美咲が普通の人とは無理ですと言ったのもこの辺りなのかなぁ。

『人の事を気に出来ない(しないでは無い)相手、でも気になる』
『自分に入り込んでくる、でも嫌では無い』
相手は文句無しに愛してくれていそうなんですけれどね。
『ずけずけと入り込んでくるけど悪気は無い』などマイナスで見ずにプラスで見れる人なら無理でも無いかな。

今後の展開を注意深く見守ります。

> 1人でボケと突っ込みをされたさすが関西人のMさん(笑)

そうです、ニューロンなのです。(ほんまか!?)
もう少しお互い時間が出来、機会が有れば脳の座談会でもしませんか(笑)


[851] 恋愛経験の豊富な人・・ 投稿者: 投稿日:2000/06/13(Tue) 20:53

・・のほうを代表しまして・・・(゚ ゚; )☆\(- - ;
前回の深読みの補足をしますね。

ドラマにおいても、
登場人物が発することばは、
場の状況やそれまでの関係性等から独立して存在する訳ではないですよね。


それまでに、繭子は慎一にあれこれと細かいことを沢山聞きましたね。
その中には、慎一自身も答えを持たないようなものもあり、困惑の表情を
見せる場面も何回かありました。
PTSDにかかわる事も単刀直入に聞く繭子でしたが、慎一は答えには窮
しながらも、彼の辛さを本気で受け止めようとする繭子の姿を、これ又、
そのまんま受け止めようとしましたよね。
だからこそ、慎一も、その流れの中で、辛い過去とも自然に対峙する決意
ができたのかもしれません。

その流れからすると、
「あれこれ、ぐずぐず聞いたりする」
のも肯定的な意味あいを持つものだったのかも知れないなという気もして
きました。物事を曖昧なままにしておかないで、それに真っ向から向かい
合うように繭子が教えてくれたようなものですからね。
あ、
「心配をかける」
も、愛の告白ですよね。大切に思うからこそ心配もするわけですから。

 < こんな事書くと、又、混乱しますか?
   これが真実って言うわけではなく、そんな風に受け取る者もいるのだ
   ぐらいの意味合いで受け取ってくださいね。
   事実、みんながみんな私のような楽天的な見方をするわけでもないで
   しょうから。

遊園地の入り口でモールに見とれる繭子を見る時も、ジェットコースターに
怯え?コーヒーカップで目を回す時も、穏やかな温かい顔でしたよね。
「こらこら、僕は苦手なんだよ、これ。君はいいねぇ。」
といった感じかな。

前回までの流れも含めて、あれほど真っ直ぐに繭子を受け止めようとする慎
一からは、
「心の中に入り込む」ということばからは肯定的な意味合いしか感じられま
せんでした。投げやりというより、苦しい胸の内を吐露する時にはあんな言い
方になるのかなと。


sipponaさん
>脳の動きで『感情』と呼ばれる物が出る。それが一般に呼ばれる『心』なんじゃないかなと

笑ってしまったわ。
そうね、確かに心の動きは、百億個以上とも言われるニューロンの複雑な働き
がもたらすんだものね。
それで身体は、これまた無数の体細胞の寄り集まり。その細胞の寄り集まりも、
ニューロンの複雑な働きで、その行動を制御されているのよね。
それが生きているって事なのか・・。
            <・・って、珍しく現実的な事を考えてみました。


[850] 心の中に入り込む 投稿者:sippona 投稿日:2000/06/13(Tue) 17:34

確かに心の中に入れる人はいません。
そもそも心に実体は無いですよね。
私は自閉の子の親をしていて『こころとは一体何?』などという変な事を考える親なので
こころの存在を否定はしないまでも心と言われているものは『脳の働き(動き?)』だろうと思うようになりました。
脳の動きで『感情』と呼ばれる物が出る。それが一般に呼ばれる『心』なんじゃないかなと。

「心の中に入り込む」は自分の許容範囲を越えて踏み込まれたと他者が感じた時に出す表現も有れば
狭山先生のように繭子に惹かれていくのをそう表現する時も有るでしょう。
>私は全然恋愛経験豊富ではないのですが(^_^;)。

ただあの場面では狭山先生も辛い為かなんだか投げやりに言われていたので混乱を招いたのかもしれません。

普通恋愛感情が入っていての「心の中に入り込む」はああいう、まるで文句を言うようには言わないでしょうから。


[849] Re[848]: 「心の中に入り込む」 投稿者:とら 投稿日:2000/06/13(Tue) 14:41

フリーラジカルさん、難しいですよね。
これは、普通に感じる人の中でも「現代国語の文章読解力に優れている人」とか「恋愛経験の豊富な人」< Mさん、megumiさん ?
でないとピンとこないものです。それほど皆が皆すんなり理解できるわけではないと言う事をお伝えしておきます。
で、私が思うに「心に入り込む」と言う事は具体的には繭子は何もしていないと思うのです。勝手に狭山先生自身がが繭子にひかれていく状況を「君が心に入り込んだ」と表現することが有ると思います。
ある意味では自分が好きになったことを相手のせいにする表現なわけで、似たような使い方に人を好きになった時「あなたのせいよ」とか「あなたがいけないの」というものに似ていると思います。
megumiさんの言う所の最大級の愛の<告白>というのもそんな所から来ているように思います。


[848] 「心の中に入り込む」 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/13(Tue) 10:17

大体、「心の中に入り込む」とは具体的にどういうことなのでしょうか。そして、どういうことをしたり、どういうことを言ったりするのが、この「心の中に入り込む」行為に該当するのか、私にはさっぱり分かりませんが。

この言葉、同性にも異性にも、何人かに言われたことがあります。
その時の相手が、傷ついたような、又は怒ったような顔をしていたので、「ああ、嫌な思いをさせたんだなあ」とは分かるのですが。

このセリフを初め、先週の「君が〜」には、いろいろな点でとても混乱させられました。今でも何か釈然としない気分でいます。
この「心の中に〜」の意味を考えている矢先に、megumiさんの「あの場面では最大級の愛の告白でしょう」という書込みを見て、さらに混乱してます。

私は若いとき、プライベートなことを話題にするのが「人付き合いのルール」かと思ってやみくもに「兄弟はいますか?」とか、「結婚されてますか?」とか言って、他の人の身の上話を聞き出していたときがあります(笑)。でも中にはプライベートなことを訊かれるのを嫌なひとが確かにいるので、止めました。このときは、この質問をすることが多分、「心の中に入ること」なんだろう、と考えました。でもどうやら違うらしいですねえ。

私は、人の心に向かって歩いていって、心の扉を開けて、中に入る、なんて、とても能動的なことをした覚えはないんですけど。


[847] Re[845]: Re[842]: 片思い 投稿者:なな 投稿日:2000/06/12(Mon) 19:43

>  けれど最後に「誰より心の中に入り込んで来ている」という言葉には肯定的な意味もあるのか、とやっと気付きました。心の中に入り込むのは悪い事だと先入観がありますし、「人の気持ちがわからないのに」で始まれば、後には否定的な言葉しか来るはずがないと思っていたのですが、必ずしもそうではないのですね。「誰より心の中に入り込んで来ている」を肯定的に考えるためには、コペルニクス的な転回が必要ですが、多分これは肯定的に言っているのでしょう。
>  それは白い馬は白い馬であって白馬ではない、と言われたようなものです。そこまでひねくれた腸捻転状態のものの言い方を世の人はするのだろうか、とやはり大きな疑問が残ります。それをやられると絶対にわからない自信もあります。他の人の意見を聞いて、あれこれと長考をすれば何とか理解できそうですが、普通にヒントなしのリアルタイム処理でやるのならば、「そこまで言わなくてもいいのに何て嫌なヤツだ、言えといった言葉だけにしろ」と思うだけで終わりでしょう。

どうやら私は文章で理解するという能力に欠けているということが、最近分かってきました。
ここのいろんな方の書き込みを読んでも私には出来そうにない論理の展開が多いです。

私の場合は入ってくる文章のいくつかの単語しか捉えることが出来ません。
あとは、その場の雰囲気で文章を勝手に構成しているだけです。
最近はこの構成能力が良くなったらしく、的外れなことを言ってしまうことは少なくなりましたが、昔は質問と答えが微妙に食い違うことが多く、質問者が小首をかしげて顔をしかめる姿をよく見ました。
でそのしぐさを見た私は、解釈がおかしかったかなと思ってもう一度質問内容を検討し直すのです。

私は言葉よりももっと原始的な信号を読みとっているような気がします。そういう信号は漫画とかアニメから学んだと思いますし、もっと微妙なことはトレンディードラマを通して学びました。

今回の「君が嫌いだ。」は、ドラマの展開的に分かっただけで、現実でそんなひねくれたものの言い方をされたら、この人は何を言いたいのだろうと思ってしまうだけでしょう。それこそ、私の方が小首をかしげて顔をしかめてしまうかもしれません。


[846] Re[844]: 読みとり 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/11(Sun) 10:45

> 私は、小学生に、教科書に載っている「手ぶくろを買いに」「一つの花」
> 「川とノリオ」「ごんぎつね」「大造じいさんと雁」等々の児童文学作品
> を教えている(いた)者です。
>
「ごんぎつね」で印象に残っているのは、

「くりがかためておいてありました」というところ。栗は固めて置くものなのか、と思い、後に、秋になって栗が出回り始めたころ、母がどこからかもらってきた栗を、玄関に持ち出して、ポーチのコンクリの上に「固めて置いて」みて、叱られたのを覚えています。


[845] Re[842]: 片思い 投稿者:如月 投稿日:2000/06/10(Sat) 20:11

>狭山先生は、「繭子をキライだ」という理由をむりやり並べ立てた最後に、人の気持ちがわからないのに、誰より人の心の中に入り込んでくるといいました。
>これは、あの場面においては、最大級の愛の告白でしょう。

 親しい中にも礼儀あり、という言葉があるように、誰にでも言ってはいけないセリフがあります。何でも教えてと聞く、あれこれ心配をかける、は許せても、人の気持ちがわからないのに・・・、は許容範囲を超えていて不愉快なものでした。人の気持ちがわからないくせに、土足で人の心の中に入って来るから嫌いだ、という意味にしかとれませんでしたから。
 でもそれが最大級の愛の告白だとすると、まるで訳がわからないけれど、まあそれならそれで多くのわからない事の一つとして仕方がないな、と思いました。その後、他の人のコメントを読んでもう一度考えてみると、「自分自身への言い聞かせ」は何とかわかるけれど、「正反対なことを言っても愛の告白になる」はどういう場面ならば意味を引っ繰り返すのかがわからないので、やはりわかりません。
 けれど最後に「誰より心の中に入り込んで来ている」という言葉には肯定的な意味もあるのか、とやっと気付きました。心の中に入り込むのは悪い事だと先入観がありますし、「人の気持ちがわからないのに」で始まれば、後には否定的な言葉しか来るはずがないと思っていたのですが、必ずしもそうではないのですね。「誰より心の中に入り込んで来ている」を肯定的に考えるためには、コペルニクス的な転回が必要ですが、多分これは肯定的に言っているのでしょう。
 それは白い馬は白い馬であって白馬ではない、と言われたようなものです。そこまでひねくれた腸捻転状態のものの言い方を世の人はするのだろうか、とやはり大きな疑問が残ります。それをやられると絶対にわからない自信もあります。他の人の意見を聞いて、あれこれと長考をすれば何とか理解できそうですが、普通にヒントなしのリアルタイム処理でやるのならば、「そこまで言わなくてもいいのに何て嫌なヤツだ、言えといった言葉だけにしろ」と思うだけで終わりでしょう。


[844] 読みとり 投稿者: 投稿日:2000/06/10(Sat) 15:19

私は、小学生に、教科書に載っている「手ぶくろを買いに」「一つの花」
「川とノリオ」「ごんぎつね」「大造じいさんと雁」等々の児童文学作品
を教えている(いた)者です。

文学作品の読みとりの目的の一つに、
「登場人物の気持ちを読みとる」
っていうのがあるのですが、
あの場面での慎一側の気持ちを読みとってみました。

_________________________________

今の状況から判断して、自分(慎一)は繭子には会わない方が良いのだろう。
繭子もそれを望んでいるわけではないのはわかっている。

でも、繭子は
”会わないこと”を自分(繭子)自身に納得させる為、
嘘をつかない自分(慎一)の口から出ることばを本当だと思いこむ事で、
その事実を受け入れるという方法を提案をしてきた。

本意ではないけれど、
自分(慎一)が繭子を嫌いになったのだと、繭子自身が思い込むその方法が
繭子が諦めのつく一番の方法なのかも知れない。

だとしたら、
繭子にはどんな嘘をつけばよいのだろう。
「僕は、君の事が嫌いだ。」
「あれこれ聞いたり、心配をかけたり、ぐずぐず言ったりするから嫌いだ」

でも、そんな繭子だけど、いや、そんな部分も含めてのそのまんまの繭子に
惹かれてしまっている自分だ。人の気持ちがわからない繭子なのに、誰より
心の中に入り込んで来ている。


こうやって口に出して見ることで、改めてその事にも気がついてしまった。
繭子は、この嘘の裏にある真意には気がついてはくれないのだろう。
繭子に応えて、嘘をつかなければならないその事よりも、
今は、本当の思いが繭子に伝わらないその事のほうが何よりも辛い・・。

_________________________________

元文学少女でもあった私には、あの場面はそんなふうに読みとれました。


蛇足ですが、
文学作品の読みとりって、子どもによって本当に反応はさまざま。
児童文学には流石に登場人物のせりふに裏があるってことは少ないけれど、
前後の流れや、その場の情景、状況の描写から、ある程度、読みとれる事
って限られて来るわけですよね。
でも、それらを全く無視して、とんでもない答えが返ってくることもあっ
て、苦笑したことも数知れず。
「ああ、こんな見方もあるんだ」「こんな風に感じる人もいるんだ」

今にして思えば、
とんでもない答えをしていた子にも、模範解答をしていた子にも、双方に
文学教材の学習は、結果的にソーシャルスキルの学習にもなっていたんだ
なあって・・。


[843] Re[842]: 片思い 投稿者:なな 投稿日:2000/06/10(Sat) 12:46

> 狭山先生は、「繭子をキライだ」という理由をむりやり並べ立てた最後に、
> 人の気持ちがわからないのに、誰より人の心の中に入り込んでくる
> といいました。
>
> これは、あの場面においては、最大級の愛の告白でしょう。
> でも、繭子にはそれはわかりません。
> 狭山先生も繭子にはわからないと知っていて、言っています。

そうか、繭子はいわゆる箱入りだったから、こうゆう場面では正反対なことを言っても愛の告白になっちゃうことを知らなかったんですね。

私は「ドラえもん」に始まり、「キャンディーキャンディー」やその他いろんな漫画、アニメ、トレンディードラマを通して、世の中と言うものを勉強してきたので、最近ではだいたいこういう場面ではこうなるという法則が分かっているのですが、それが繭子には当てはまらないことをすっかり忘れてました。

でも繭子は本当に箱入りですね。このままだと一生箱入りのままで過ごしてしまいそうで、それはそれでとても可哀相なことですよね。
空の観察もおもしろいけど、人間観察もとてもおもしろいことを繭子に伝えたいです。

> 「もの」や「場所」にはそれ自身に感情や意志はないので
> 存在するか、しないか、だけですが
> 相手が人間となると、自分の思いだけでは関係が成立しません。
> これを、「片思い」というのでしょう。
> 非自閉の人でも初めての本物の恋が二十歳というのは遅すぎはしませんから、
> 淡い擬似恋愛の経験すらなし(たぶん)に、
> 狭山先生と潤の真摯な思いにはさまれてしまった状況は
> 繭子の手には余るものでしょう。
>
> しかも、繭子には狭山先生と潤の「繭子への片思い」を読み取ることはむずかしいのですから。

先生も弟も繭子にはちゃんと伝えなくてはいけないことを知っているはずなのに、結局いつもどおりのあいまいな態度でしか気持ちを伝えられないのでしょうね。
人間関係を潤滑にするためにはこういう微妙なことは微妙な表現を使うのは分かってますが、あいまいなものは無いこととして処理してしまう立場にいるものとしては、なんでこの人達は繭子のこと分かってる筈なのに、分かってないんだろうと思ってしまいます。


[842] 片思い 投稿者:megumi 投稿日:2000/06/10(Sat) 11:46

狭山先生は、「繭子をキライだ」という理由をむりやり並べ立てた最後に、
人の気持ちがわからないのに、誰より人の心の中に入り込んでくる
といいました。

これは、あの場面においては、最大級の愛の告白でしょう。
でも、繭子にはそれはわかりません。
狭山先生も繭子にはわからないと知っていて、言っています。

繭子といっしょにコーヒーカップに乗ると目が回ってしまう狭山先生。
デート中に、仕事のことを話題にされて困ってしまう狭山先生。
それでは、繭子の世界とつながることはできません。

遊園地のきらきらしたモールを見上げて、嬉しそうにコレクションする繭子が
ふっと顔を曇らせて、「今日は変なことしないから、《普通》にするから」と
言ったのが、私にはとても痛々しく見えました。

美咲が、「それは恋です。でも、普通の人とは無理(ビデオ取りしなかったのでうろ覚えです)」
というのは、
こういうことなのでしょうね。

「もの」や「場所」にはそれ自身に感情や意志はないので
存在するか、しないか、だけですが
相手が人間となると、自分の思いだけでは関係が成立しません。
これを、「片思い」というのでしょう。
非自閉の人でも初めての本物の恋が二十歳というのは遅すぎはしませんから、
淡い擬似恋愛の経験すらなし(たぶん)に、
狭山先生と潤の真摯な思いにはさまれてしまった状況は
繭子の手には余るものでしょう。

しかも、繭子には狭山先生と潤の「繭子への片思い」を読み取ることはむずかしいのですから。


[841] Re[837][834]: 横浜 投稿者:「4番」 投稿日:2000/06/10(Sat) 04:48

> > あと、昨日の繭子は先生に「君が嫌いだ。」と言われてそのまま言葉通りの意味に受け取ってましたが、他のご本人の方々もそういう立場だったら、言葉通りに受け取るのでしょうか。
>
>  嫌いと言え、と言っているのだから、余計なことを喋らずに「嫌いになった」の一言で済ませればいいのに。あれこれ聞くだとか、心配をかけるだとか、ぐずぐず言われると、そうかやっぱりそれが本心だったのか、と考え込んでしまいます。そのほうが効果的なのだろうけれど、何が本当で何が嘘なのか、さっぱりわからなくなります。結果として遠い人になるのは間違いないけれど、一言だけで十分だろうに、と思いました。

…この辺、厳しいんですけど、一度観た時は、先生のあのセリフは「聞こえていたけれど、聞こえていない」「なみなみ」でしかありませんでした。
だから多分、自分が同じ状況に置かれたら、Lingkoさんと同じで、関連性には気付かないと思います。
Lingkoさんと違うのは、本当に、自分には関係ない「なみなみ」にしか感じられないことです。

せーの、で切り替えて、もう一度見直したとき、と、セリフの抜き書きがしてあるページなんかを見て、「あ」と思ったんです。
なるほど。これは、先生が、「君を嫌いになった」と自分に言わせるための、先生自身への言い聞かせ、なんだな。と。
(そういう意味では、ドラマ的には「哀しい」言葉の羅列ですね)

如月さんが「やっぱりそれが本心だったのか」と思える、ということは、日常、相手の表情や声の端々に漂う「違和感」が感じ取れていたのかもしれない、ということで、羨ましいです。

私ははっきり「キライ」と言われることが非常に多かったので、余計に、「好き」と「嫌い」は言葉でしか受け止められなくなっているのかもしれません。
「お前、みんなに嫌われてることに気付かないんだな。だから、余計嫌われるんだよ」と言われたことがあります(笑)


[840] Re[837][834]: 横浜 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/10(Sat) 02:40

> > あと、昨日の繭子は先生に「君が嫌いだ。」と言われてそのまま言葉通りの意味に受け取ってましたが、他のご本人の方々もそういう立場だったら、言葉通りに受け取るのでしょうか。
>
>  嫌いと言え、と言っているのだから、余計なことを喋らずに「嫌いになった」の一言で済ませればいいのに。あれこれ聞くだとか、心配をかけるだとか、ぐずぐず言われると、そうかやっぱりそれが本心だったのか、と考え込んでしまいます。

なるほどねー。私だったらたぶん、自分が指示して言わせた「きらいだ」は入ってくるけれど、他のいろいろは、自分の指定した語句が含まれていないので、とりあえず音声としてはキャッチするにしても、リアルタイムでは、関連のあるものとしては理解しないと思います。

つまり、「心配をかける」という文を聞いても、「きらいだ」の理由だということがなかなかわからないのです。「心配をかけるから、」と直接「から」で結ばれていれば別ですが。

自分が指定した言葉以外は、独り言として入ってきてしまうのです。だから、「あー、この人が自分で確認するのに必要なのかー」ってなモンです。

繭子はたぶん、過去に嫌われ体験をたくさん積んでいるとは思いますが、嫌われ体験ではたぶん負けないであろう私でも、改めて思い出してみたら、「きらいだ」という表現を使われた経験はめったにないことに気がつきました。つまり、内容はその人が私のことを嫌いだということを示していても、別の語彙が使われることの方が多かったのです。

そんなわけで、私だったら、「きらいだ」という音声は、過去の嫌われ体験と音声レベルで結びつくことはありません。そこで、新規の音声ファイルとして、新しく意味を解釈して登録することになります。

繭子のような繰り返しは、理解・納得のためというよりも、親の前で動転していても確実に口から出てくるように、発音の準備なのかなあと思っていました。私だったら、練習でバイパスを作っておかないと、緊迫した場面だと普通の経路では発音が出なくなりますので。


[839] Re[835][834]: 横浜 投稿者:なな 投稿日:2000/06/10(Sat) 02:40

> > 私としては言葉そのものよりもその周りにくっついてくる雰囲気(口調とか、声、声を発している人が出しているパワー)の方が強い情報として入ってきてしまうので、どうしても言葉通りの意味で受け取ることが出来ません。繭子はあの場で目をつぶって聞いていたからそういう意味では視覚情報はシャットダウンできてるけど、私としては肌に感じる雰囲気と言葉自体がまったく違うのでその違いに混乱して何を言われているのか分からなくなりそうな気がします。

> というよりも、すでに、「言葉」から情報をとりこむのが苦手なので、
> とりあえず、「聞こえた音」を「言葉」として認識するのが、まず、一苦労。(「先生は、わたしがきらい」と繰り返している作業が、多分、私にはそれにあたります)
> そうしたら、今度は、その「コトバ」にとらわれてしまうので、その「言葉の持つそのものの意味」だけをとりこんでしまいます。

なるほど、私も人から発せられた音を言葉として理解するためには、何回も自分の中でその音を再生しないといけないので、そこまでは同じなのでしょうが、どれにとらわれるのかが違うのですね。
私の場合は猫で言うところの「尻尾」にとらわれてしまいます。
よく、猫は尻尾で感情を表現すると言われますが、私は人間の「見えない尻尾」にとらわれやすいです。

でも、人間の場合は「言葉」を獲得したことで自分の感情に反したことを言うことができるようになり、結果的にはこんなに地球上で繁栄しているのでしょうね。

> でも、ドラマを観ていて思ったのは、「繭子は自己暗示をかけているのでは?」と思われる危険性です。

音を再生するときは頭の中だけでしないと、そう見られてしまいますよね。
小さいときは質問の意味を理解するために言われたことを何回も口に出していましたが(そうしないと頭の中で字を書くことができなかったので)、それでは変に思われることを知ってからは、語尾を上げるようにしました。黙っていても文字が書けるようになってからは、頭の中だけで再生できるようになりました。

でもあの状況だと、後ろにかぶっている先生の声といっしょになって尚更、自己暗示しているように見えるでしょうね。

> > 最近、言葉が出ないモードで苦しかったので、反動が出たようです。
> その、「コトバが出ないモード」はよく判ります。
> その時によって、「不貞腐れてる」とか、「ぼーっとしてる」とか言われますが、
> 実際には、なかみがいっぱいになって、あふれていっちゃうのを抑えるので精一杯、な状態なんですけどね。

ここまで私が伝えたいことが分かってもらえるととてもうれしいです。
こういうのを周りの人は「共感する」って言うのかなと思いました。
最近いろんなご本人の方の文章を読んで他の人を理解できるうれしさは実感していましたが、分かってもらえるのはもっとうれしいことなんですね。

でも周りの人はこうしたことが日常茶飯事なのかと思うととてもうらやましいような、反対にこんなにうれしいと思えないだろうから気の毒なような複雑な気分です。


[838] Re[834]: 横浜 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/10(Sat) 02:22

> 人にまつわる思い出ってあまり印象に残ってないのですが、場所にまつわる思い出はどうしてそんなに昔のこと思い出すのってぐらい次から次へと思い出せちゃって困ります。
> 実家にいたころは選挙の投票に昔通っていた小学校に行かなくちゃならなかったので、パニックを起こさないように押さえるのに必死で誰に投票したかなんて忘れちゃうくらいでした。

私も、人にまつわる記憶はあまり残っていなくて、場所にまつわる記憶はたくさん残っているのですが、

私の場合は、嫌な目にあった場所であろうと何であろうと、場所には罪がないというか、特に建物には関係なく愛着が残ります。

いじめにあっていた中学さえ、廃校になり、取り壊されたのが悲しいくらいです。私をだましてひどい目にあわせた人の部屋から、果ては事故にあった場所まで、全部、「愛おしい場所」になってしまいます。


[837] Re[834]: 横浜 投稿者:如月 投稿日:2000/06/10(Sat) 02:17

> あと、昨日の繭子は先生に「君が嫌いだ。」と言われてそのまま言葉通りの意味に受け取ってましたが、他のご本人の方々もそういう立場だったら、言葉通りに受け取るのでしょうか。

 嫌いと言え、と言っているのだから、余計なことを喋らずに「嫌いになった」の一言で済ませればいいのに。あれこれ聞くだとか、心配をかけるだとか、ぐずぐず言われると、そうかやっぱりそれが本心だったのか、と考え込んでしまいます。そのほうが効果的なのだろうけれど、何が本当で何が嘘なのか、さっぱりわからなくなります。結果として遠い人になるのは間違いないけれど、一言だけで十分だろうに、と思いました。


[836] Re[832][830]: 赤い三角屋根の公園 投稿者:如月 投稿日:2000/06/10(Sat) 01:56

> はて、どこでしょう? 田園都市線・東名・246・横浜の
> キーワードでたどると 青葉台〜藤が丘〜市ヶ尾 あたりでしょうか?

 藤が丘にも住んでいた事もあるので、初めは藤が丘か市ヶ尾だろうと思いました。でもスーパーが見えたので、今住んでいる田奈だとわかりました。
青葉台から田奈に向かっていくとトンネルをくぐるので、出た直後ぐらいに右手を見ると、高台に三角屋根か滑り台が見えるはずです。一週間ぐらい粘ってみれば、ロケが見られるかもしれませんね。
あの赤い三角屋根はテレビで見るよりも大きい感じがしました。


[835] Re[834]: 横浜 投稿者:「4番」 投稿日:2000/06/10(Sat) 00:43

> あと、昨日の繭子は先生に「君が嫌いだ。」と言われてそのまま言葉通りの意味に受け取ってましたが、他のご本人の方々もそういう立場だったら、言葉通りに受け取るのでしょうか。
> 私としては言葉そのものよりもその周りにくっついてくる雰囲気(口調とか、声、声を発している人が出しているパワー)の方が強い情報として入ってきてしまうので、どうしても言葉通りの意味で受け取ることが出来ません。繭子はあの場で目をつぶって聞いていたからそういう意味では視覚情報はシャットダウンできてるけど、私としては肌に感じる雰囲気と言葉自体がまったく違うのでその違いに混乱して何を言われているのか分からなくなりそうな気がします。
> で、訳が分からなくなると、「これではいかん。」と一歩退いて第3者としての私になってしまいます。だから繭子みたいに先生に嫌われて、会えなくなるのが悲しいと思えるようには、私はなれないだろうなと思ってしまいました。

というよりも、すでに、「言葉」から情報をとりこむのが苦手なので、
とりあえず、「聞こえた音」を「言葉」として認識するのが、まず、一苦労。(「先生は、わたしがきらい」と繰り返している作業が、多分、私にはそれにあたります)
そうしたら、今度は、その「コトバ」にとらわれてしまうので、その「言葉の持つそのものの意味」だけをとりこんでしまいます。

なみなみ〜とたゆたっている「世界」の中から、周囲に適応するために必要な情報を特化させようとすると、どうしても、そこに集中してしまうため、
普段なら、逆に、何かを考えながら接近してくる(私めがけて、じゃなくて、私が、その人の歩く道筋にいるだけなんでしょうけれど)人に過敏に反応してしまうくせに、
そういう時は、まるっきり、「雰囲気」を「察する」ことはできません。

自分に向かって、何か言われているんだ、と気付いた瞬間、そういうモードに入ってしまうので、厄介です。

でも、ドラマを観ていて思ったのは、「繭子は自己暗示をかけているのでは?」と思われる危険性です。

> 最近、言葉が出ないモードで苦しかったので、反動が出たようです。
その、「コトバが出ないモード」はよく判ります。
その時によって、「不貞腐れてる」とか、「ぼーっとしてる」とか言われますが、
実際には、なかみがいっぱいになって、あふれていっちゃうのを抑えるので精一杯、な状態なんですけどね。


[834] 横浜 投稿者:なな 投稿日:2000/06/10(Sat) 00:23

個人的なことですが、横浜(というよりは神奈川)は私にとってとてもいい思い出が多くてとても好きな場所です。私のことをかわいがってくれた祖父母が住んでいたところだし、大学時代も友達といろんなところに遊びにいきました。
その反対に実家は一番精神的に不安定な時期をそこで過ごしたせいか、嫌な場所のひとつです。
人にまつわる思い出ってあまり印象に残ってないのですが、場所にまつわる思い出はどうしてそんなに昔のこと思い出すのってぐらい次から次へと思い出せちゃって困ります。
実家にいたころは選挙の投票に昔通っていた小学校に行かなくちゃならなかったので、パニックを起こさないように押さえるのに必死で誰に投票したかなんて忘れちゃうくらいでした。
今度の選挙は初めていく場所なのでそれはそれで大変ですが、とりあえず1回目をうまく乗り切れれば、つぎからはちゃんと投票したい人に投票できるかなと思ってます。
でも投票前に1度下見をしにいかなくちゃいけないですね。きっと。
繭子みたいに1つ1つ行動をシミュレーションしとけば、結構まともに乗り切れます。
あとは信用できる誰か(いままでは主に親でした。)にくっついていって、真似をしてれば大丈夫なんですが今回は一人なのでちょっと不安です。

あと、昨日の繭子は先生に「君が嫌いだ。」と言われてそのまま言葉通りの意味に受け取ってましたが、他のご本人の方々もそういう立場だったら、言葉通りに受け取るのでしょうか。
私としては言葉そのものよりもその周りにくっついてくる雰囲気(口調とか、声、声を発している人が出しているパワー)の方が強い情報として入ってきてしまうので、どうしても言葉通りの意味で受け取ることが出来ません。繭子はあの場で目をつぶって聞いていたからそういう意味では視覚情報はシャットダウンできてるけど、私としては肌に感じる雰囲気と言葉自体がまったく違うのでその違いに混乱して何を言われているのか分からなくなりそうな気がします。
で、訳が分からなくなると、「これではいかん。」と一歩退いて第3者としての私になってしまいます。だから繭子みたいに先生に嫌われて、会えなくなるのが悲しいと思えるようには、私はなれないだろうなと思ってしまいました。

昨日の繭子を見ていると、この2ヶ月でものすごく大人になってますよね。あんなに短期間でいろんなことを分かってしまったら、とても苦しいだろうなと思いました。でも繭子の場合はそれまであまり世の中のことを分かってなかったみたいだから、その分まとめてきてしまったのかもしれないですね。
普通なら何年かに一回世の中のことがいきなり分かるようになると思うのですが。。。

どなたかがおっしゃられていた通り、私は周りの友達の倍かけて(もしかしたら3倍かも)、ゆっくり大人になっているような気がします。たぶん周りが人生に疲れ始める40歳(60歳)ごろようやく私は大人になるのでしょう。それまでのんびりとマイペースで生きていきたいものです。

なんか思いついたことを長々と書いてしまいました。ごめんなさい。
最近、言葉が出ないモードで苦しかったので、反動が出たようです。


[833] Re[828]: ↓下の話↓Re: 施設↓ 投稿者:こち 投稿日:2000/06/09(Fri) 23:44

Lingkoさん、sipponaさん、ありがとうございました。

>ヨーロッパで、施設に「居住」(?)している高機能の人と一度、
>メールのやりとりをしたことがあります。彼の場合、仕事よりむし>>ろ、私生活、日常生活の方が困難がひどかったためのようです。こだ>わりが強い方ではなく、そのせいで逆に、時間の管理ができないよう>でした。

 ヨーロッパだとグループホーム(小人数の支援付共同生活)でしょうか、日本の場合高機能自閉者は知的障害福祉施策が使えないので・・・。ホームヘルプ等を長野の一部では利用できると聞きましたが。

> だから、施設職員とか、利用者とかの話を読んだり聞いたりすると、「ああ、この人は、どちらか片方しかしなくていいのか」という感じになってしまうんです。

 そうですね、補助具としても有効に施設職員を使ってほしいです。もちろん仲間としても遊んでほしいのですが。(自閉症施設では、たいがい自閉者に合わない人はやめていきます。ADHDベクトルな人も多きがする)
>
> たとえば、手順表を見ながらなら、自分でも歯が磨けるとしても、「手順表を作る」ところも、手順表を作ったときに使ったマジックを片づけるのも、自分でやらないといけないわけです。本当にいい加減シンドイよー、この一人二役。いつまで続くのか、正直言って自信がないんです。まるで自転車操業です。

 私は仕事で居住者の情報の整理や調整をするのはがんばれるのですが、自分のことはまるでだめで、手順表のようなものが売ってないかとか、秘書的にスケジュール管理してくれる人と仕事が組めないかとよく考えてます。


[832] Re[830]: 赤い三角屋根の公園 投稿者:とら 投稿日:2000/06/09(Fri) 21:21

>  田園都市線と東名と246が左手に走っていて、右方向は田圃で今は蛙の声が賑やかになっています。住宅街にある眺めのいい公園で、天気のいい日は繭子でなくてもずっと座っていたくなります。あまり一人でポツンと座っていると変に思われるので、長居は出来ませんが、横浜市にしては出色の公園です。
>

はて、どこでしょう? 田園都市線・東名・246・横浜の
キーワードでたどると 青葉台〜藤が丘〜市ヶ尾 あたりでしょうか?
今まだロケやってるんですよね。


[831] Re[829][825]: あちゃー 投稿者:福田 投稿日:2000/06/09(Fri) 20:19

> > それにしても、「急性骨髄性白血病」とは……
>
> 出ましたね〜。やってしまいましたね、日テレ。(苦笑)

あちゃー。ドラマを駆動させるエンジンに変なターボが付けられましたね(もちろん白血病という病気を「変」と言っているわけではありません)。
最初のころに多少見られた「ごちゃごちゃしていながらリラックスしている」感じがどんどん消えるなあ。すごく残念。


[830] 赤い三角屋根の公園 投稿者:如月 投稿日:2000/06/09(Fri) 15:18

 繭子と狭山先生がよく会っている、赤い三角屋根のおうちがあるほうの公園は、うちのすぐそばにあります。引っ越しをしてきた時に、あんな高台に公園があるとは珍しいな、一度行ってみようか、と思いつつそのままになっていました。一回目を見た時にどうも知っている景色だなと思ってテープをスローにしてみると、うちの目の前にあるスーパーが映っていたのでわかりました。
 田園都市線と東名と246が左手に走っていて、右方向は田圃で今は蛙の声が賑やかになっています。住宅街にある眺めのいい公園で、天気のいい日は繭子でなくてもずっと座っていたくなります。あまり一人でポツンと座っていると変に思われるので、長居は出来ませんが、横浜市にしては出色の公園です。


[829] Re[825]: 施設 投稿者:sippona 投稿日:2000/06/09(Fri) 00:19

> それにしても、「急性骨髄性白血病」とは……

出ましたね〜。やってしまいましたね、日テレ。(苦笑)


こだわりやパニックが多い場合にはやはり本人に合わせてもらいたいものです。
本人も必死なんですから。


[828] ↓下の話↓Re: 施設↓ 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/09(Fri) 00:11

これだけじゃ、いったいどういう施設なのか、全然わかんないですよね。自治体がやってるのか、私立なのか、とか、お金はどうなってるのかとか、利用者何人に職員が何人とか、そういうことは私も全っ然わかりません。

彼と文通している間、そんな話はちっとも出なかったからです(私も彼も、そんなことには関心がなかったのです)。すみません・・・

ただ、何というか、私はつねひごろ、独立して暮らしていて、自分一人の中で、「利用者」と「施設職員」を一人で兼任しているという気が、いつもしています。腹話術の人形と人間みたい。

だから、施設職員とか、利用者とかの話を読んだり聞いたりすると、「ああ、この人は、どちらか片方しかしなくていいのか」という感じになってしまうんです。

たとえば、手順表を見ながらなら、自分でも歯が磨けるとしても、「手順表を作る」ところも、手順表を作ったときに使ったマジックを片づけるのも、自分でやらないといけないわけです。本当にいい加減シンドイよー、この一人二役。いつまで続くのか、正直言って自信がないんです。まるで自転車操業です。


[827] Re[826][825]: 施設 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/09(Fri) 00:04

>  よろしければ、施設や福祉について皆さんの意見を聞かせていただけませんか_(._.)_
>
ヨーロッパで、施設に「居住」(?)している高機能の人と一度、メールのやりとりをしたことがあります。彼の場合、仕事よりむしろ、私生活、日常生活の方が困難がひどかったためのようです。こだわりが強い方ではなく、そのせいで逆に、時間の管理ができないようでした。

大学を卒業したものの、学生寮を離れると日常生活が成りたたないので、施設に入ったとのことでした。会計(経理?)の仕事をしており、施設から一般の会社に通勤をしていました。ただ、余暇の使いかたが難しく、休暇になるとよくパニックを起こしていたようです。

今はどうしているのかわかりませんが、彼のメールを読んでいると、「私も入りたい」と思ってしまいました。何から順番にしていいかわからなくなると、キューを出してくれるとのことで、それがうらやましかった。

結婚して家庭を持っている私でさえ、「掃除は図の通りにやればいい」「食事の時間の少し前には教えてくれる」という話はめちゃくちゃ魅力的に聞こえたんです。


[826] Re[825]: 施設 投稿者:こち 投稿日:2000/06/08(Thu) 11:35

> 昨日の放送で輝がいた「施設」は
> 個室だし、床屋さんのくるくるもあったし、犬も飼えるし
> 自閉症の人の特徴を大切にしている感じがしました。

> でも、実際は入所者の都合を考慮して守ってくれる施設は
> あまりないのではないでしょうか?

 個室や個人・小人数での作業が確保できる施設はあまりありません。配慮しない施設の方が多く、知覚的に過敏な方には苦しい事も多いと思います。
 犬ですが逆に苦手な人は本当に苦手であったりで、「他人に迷惑をかけない」ことが過剰に望まれやすい施設では、なかなか個別の希望にあわせる事は難しいです。もちろん飼っているとこもあります。
 知的障害福祉のなかで自閉性障害が取り扱われています。対応困難な場合、施設入所を敬遠されたり、入っても「わがまま」などと判断されて放置されている場合がありえるので、施設選びは慎重に選ぶ必要があります。また、知的障害を持たない高機能自閉症の方には、まったくといっていいほど福祉は使えない現状です。

 自閉性障害を中心に取り組んでいる施設としては、自閉症協会施設部会を参考にしてみてください。それぞれまじめに取り組んでいます。
輝さんの入った施設もその中で一つで、著名な施設です。
http://web.archive.org/web/20011006195957/http://www1.biz.biglobe.ne.jp/~asj/

 よろしければ、施設や福祉について皆さんの意見を聞かせていただけませんか_(._.)_

 相応しくない話題でしたらすみません


[825] 施設 投稿者:megumi 投稿日:2000/06/08(Thu) 08:21

昨日の放送で輝がいた「施設」は
個室だし、床屋さんのくるくるもあったし、犬も飼えるし
自閉症の人の特徴を大切にしている感じがしました。

以前、輝は施設を嫌がったということでしたが、
きっと違うところだったのでしょうね。

公式サイトによると、撮影前にフミヤさんやスタッフが訪問した施設での
ロケーションだったということです。

でも、実際は入所者の都合を考慮して守ってくれる施設は
あまりないのではないでしょうか?

それにしても、「急性骨髄性白血病」とは……
冷血の父親が骨髄移植のドナーになったりして。


[824] Re[823][822]: むずかしいですね 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/08(Thu) 06:44

読みたいと思います。
ありがとうございました。


[823] Re[822]: むずかしいですね 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/07(Wed) 21:37

> 「お母さん以外はダメ」の危険性は良くわかりました。
>
> 臨機応変がむずかしい以上、何をどう教えても、どこかで問題があるように思えます。
>
> 『何を優先して教えたいか』で考えていこうかなと思いはじめています。

最近出た、パトリシア・ハウリン著「自閉症−−成人期に向けての準備」(ぶどう社)に、この種の問題が詳しく扱われています。小さいうちから、「大人になった場合」を頭に置いた教えかたをする、という話です。


[822] むずかしいですね 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/07(Wed) 07:22

「お母さん以外はダメ」の危険性は良くわかりました。

臨機応変がむずかしい以上、何をどう教えても、どこかで問題があるように思えます。

『何を優先して教えたいか』で考えていこうかなと思いはじめています。


[821] ごめんなさい 投稿者:「4番」 投稿日:2000/06/06(Tue) 21:18

> そうそう、些細な点ですが、カンガーさんの「お母さん以外はだめ」の言い方はウチの娘には危険だなあと思いました。

自分で書いておいて、ごめんなさい。です。

私は、この、「母親が作ったモノ以外食べてはいけない」のために、給食が食べられず、
やむを得ず、母親が「給食委員」になって、私のところへ給食を運んだ、という経緯があります。

結局、「やっていい時と悪い時がある」なんて区別がつけられない以上、
自分の世界を壊されない(叱られる、というのはそういうことでした)よう、自衛するためには、
一度ダメと言われたことは、二度とやらない、しかなかったんでしょうね。


[820] Re[817][811]: やっぱり 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/06(Tue) 09:49

> と、ラブホテルへ連れ込まれてしまうんです。

ちょっと脱線。最近はどうか知らないけど、ラブホテルの看板に「ご休憩¥○○○○・・」とか書いてありますよね。「なんで休憩するのにこんな高いお金払わなきゃいけないんだろう。」と思ってました。真相を知ったのは大学卒業後です。これは普通の人でも「世間知らず」ならありそうですよね。ないかな〜???

そうそう、些細な点ですが、カンガーさんの「お母さん以外はだめ」の言い方はウチの娘には危険だなあと思いました。「だめ」という表現はウチの娘にとっては「×」に等しいので、「母親以外のヒトを無条件に警戒せよ」になってしまう。かといって、色々な表現をやみくもにしていったら、今度は混乱するだろうし。ただでさえ娘の頭の中は、ヒトに言われたセリフや規則の丸暗記でいっぱいなのに。


[819] 知っている人と知らない人 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/06(Tue) 08:56

我が家の近くの公園の入り口には
「知らない人についていかない」という看板と、
「ちかんに注意」という看板があります。

注意書きが大好きな娘は、すぐに覚えてしまい、公園の前を通ると口にします。

「知らない人」と「知っている人」をどこでどう分けて考えるかむずかしいですね。

娘は人の顔を覚えるのは得意なのですが、「知らない人」の概念はわかっていません。
どこからどこまでが「知っている人」なのでしょう?
教えるのもむずかしいですね。
「4番」さんのように、「お母さん以外はだめ」のほうが安全ですね。
そう教えることにしました。

「ちかんに注意」も「ちかん」の意味がわからないので、『「時間に注意」のこと?』ってきくので、絶句してしまいました。
4歳の子供にちかんの意味を説明するのはむずかしいですね。

私が幼稚園の時、ある日突然母親から、「知らない男の人にパンツをおろしてといわれてもおろしちゃだめ」といわれました。
「どうしてそんなこと言うの?」ときいたら、「砂をかけられた子がいて、ばい菌が入ると大変だから」といわれ、「???」だった記憶があります。

おそらく、女の子のパンツをおろさせて、いたずらする事件があったので、注意したのだと思いますが、なんだか妙な説明に納得できなくて、記憶に残っています。


[818] Re[814][812][800]: 左右(Re[794][788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可) 投稿者:如月 投稿日:2000/06/06(Tue) 01:28

> しかし、鏡の中の自分に慣れているせいか、私は自分の写っている写真を見るととても違和感を感じます。

 写真は盲点でした。写真に撮られるのは嫌いだし、自分の利き腕がわかるような写真を見た事もなかったので、考えていませんでした。もしも、ボールを投げているような写真があると、あれ、俺は左利きだったのかな、と多分思うでしょう。
 写真を見るとまず、自分は左利きなのかな、という他人事のような疑問が沸きます。その後に、右利きのはずだったのにどうしてかな、と頭で考えて、そうか写真に撮られたから反対に見えるのだ、と納得して、写真の方が間違っている、と結論が出るわけです。
 左右にはあまり深入りしたくないので、左利きなのかな、とはあまり気付かないでしょうが、見たり聞いたりしたものと自分の常識が違う場合は良くあるので、こんな疑問が沸いても驚きません。周りを観察して、受け入れ難いものを仕方なく自分の感覚に付け足し続けていると、どうしても自己の同一性が曖昧になって、自分自身を他人のように捉えるようになります。アスペルガーの人が自己の同一性に悩む原因の一つには、こんな過度の適応があると思います。
 私の場合は頭で考えて、写真の間違いだ、と感覚と現実の間に齟齬が起きないような補正を入れられますが、それが出来ないと自分は左利きだと思い込んでしまったりするのでしょう。知らない人は、何を馬鹿な事、と思うでしょうが、ありそうな話です。

 右利き、左利きぐらいではそれ程驚きませんが、椅子から転げ落ちる程に驚いた事もあります。
 中学三年の国語の教科書に、「山椒太夫」が載っていました。安寿が厨子王を逃がそうとする場面で、道端の花を指差して、「もうすぐ春が来る」というような事を言います。先生は、これから厨子王は人買いから逃げて明るい未来があるので、それを暗示しているのがこの場面だ、と言いました。
 これを聞いた時には、鈍感な私もさすがに驚きました。それまで生きて来た14年の中で最大の驚きでしょう。もしも、明るい未来があると言いたいのならば、そのまま「明るい未来がある」と言わない限り、通じる訳がないではないか、と開いた口がふさがりませんでした。
 当時の自分の感覚では「もうすぐ春が来る」と「明るい未来がある」は、文字も違えば発音も違うし、どう逆立ちしても同じではないのです。絶対に違うと思っても、ポカンと口を開けたままで、例によって疑問を口には出さない性格なので、問題児にはなりませんでしたが。
 百歩ぐらい譲歩して、仮にそんな言い方があるとしても、自分は死んでもそんな意味には取らないし、想像もつかないと思いました。その時の衝撃があまりにも大きかったので、つまらない事ながら今だに覚えています。ある程度の年になるに連れて、文学作品とはそういうものなのだ、と理解するようになりましたが、通じる訳がないじゃないか、という感覚の方が今でも多く残っています。
 記憶に残る些細な出来事は、ほとんどが当時の自分の常識では想像もつかなくて、強烈に印象に残った事なのだろう、と思います。


[817] Re[811]: やっぱり 投稿者:「4番」 投稿日:2000/06/05(Mon) 23:56

> 「知らない人についていってはいけない」
> 「知らない人から物をもらってはいけない」等など
「知らない人」という概念が、そもそも判らなかった私は、
人(通常の常識を持っている人)に話すと、「空恐ろしい」といわれる体験をしているらしいです。

未だに「そうなのかー」としか思えませんが、
六歳ぐらいの頃、道ばたで「おじさん(本人がそう名乗ったので)」に呼び止められ、
「お○っこするところから、カルピスを出してあげるからねー」と言われ、
「おうち以外のところで、お母さんが出したんじゃないものを飲んだり食べたりしちゃいけないの」と断っただけなんですけどね。

そういう子が大人になると、「酔って気分が悪いので、看病してくれ」
と、ラブホテルへ連れ込まれてしまうんです。
…というのは極論ですけど、一例です。


[816] Re[813][801]: 女の子の将来の不安について 投稿者:おサルのジョージ 投稿日:2000/06/05(Mon) 13:00


> 「自閉症者は社会適応が出来ないのではなく、適応できるまでに時間がかかる。出来ないとすれば、まだその時が来ていないだけなのだ。私は20代、30代、40代よりも今は多くの事ができるようになった。進歩は遅いけれど、生きている限り進歩していくのだ」
二十でやっと思春期らしきものが始まると考えて、30ぐらいまでに何とかそれなりの社会常識を持つようになれればいいか、というぐらいの気の長さで考えるのも一つの方法かな、と思いました。
>  平均寿命は80ぐらいですから、それでもまだ50年残っている、とも言えますので。


これは、わたしもかなり感じます
高校の時の自分はまったく、小学生なみだった
とおもうのですが、同窓会であつまったとき
同級生が高校のころのキャラクターのままなのに
正直おどろきました。
そのころに比べれば、自分なりにはかなり
差が詰まったような気がしました(あくまで、高校のころの
自分と同級生の精神年齢の差、と大人になってからの差です)
同級生が、高校からは年取るばっかりで、、、と言うのを聞くと
ああ、みんなは、あのころにもう、一応人格が完成していたの
だろうとおもいます
それに比べると、からだは老けていきますが、精神的には
あんまり老け込むと言う感じがないのはひょっとすると
いまも、多少変り続けているからかもしれないと思います

ゆっくり適応していくゆとりが無い社会になっているのが
一番の困ったところかもしれません
大人にしてもこどもにしても
>


[815] 鏡の中では、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/04(Sun) 22:51

左右はひっくり返りません。
右半身の性質(特徴)と、左半身の性質(特徴)が入れ替わるだけです。


[814] Re[812][800]: 左右(Re[794][788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可) 投稿者:なな 投稿日:2000/06/04(Sun) 21:56

>右を決める時は、伝統的な日本流の方法に則って、箸を持つ手はどちらかと考えます。左に関しては、横着をして右の反対が左としています。

「お箸の持つ方が右」という決まり文句は曲者です。
このおかげで、私はいまだに右と左の言葉を獲得できていません。
左利きを矯正しない風潮にあるいま、この文句は世の中の1割の人を混乱させます。
いまでもいざとなると、「あっち」「こっち」に指差し動作付、もしくは「○○があるほう」で乗り切っています。

> この左右の絶対感覚のなさから来るのか、昔からの大きな疑問の一つは、鏡では左右が引っくり返る、と誰もが言うことです。

頭の中で私に反対を向かせてみたら、鏡の中の自分は右手に歯ブラシをもっている事に気づいたので、鏡の中はあべこべである事は理解できました。
しかし、鏡の中の自分に慣れているせいか、私は自分の写っている写真を見るととても違和感を感じます。


[813] Re[801]: 女の子の将来の不安について 投稿者:如月 投稿日:2000/06/04(Sun) 20:45

 蛇足ながら付け足させて下さい。
 自閉症であるないに拘わらず、誰でもが痛い目にあって色々な事を覚えていくのではないでしょうか。障害があれば、痛い目にあう可能性は高くなりますが、普通と言われる人にも危険はあります。やはり、誰でも一つ一つ自分で体験していくものだと思います。
 自分の子供がアスペルガーと診断された後に、当人もアスペルガーと診断された、かなりの猛者がこう書いていました。
「自閉症者は社会適応が出来ないのではなく、適応できるまでに時間がかかる。出来ないとすれば、まだその時が来ていないだけなのだ。私は20代、30代、40代よりも今は多くの事ができるようになった。進歩は遅いけれど、生きている限り進歩していくのだ」
 有名な「自閉症だった私へ」という邦題も、正確に言えば、「自閉症から回復しつつある私へ」であって「自閉症から回復した私へ」ではありません。
 まあ、自分の事を振り返ると、30ぐらいまでは噴飯ものの事もありましたが、今はそれよりもマシになりました。きっと、10年経つと同じ様に、40ぐらいまでは・・・、と言っているでしょう。
 体と精神面のバランスが取れていない所に問題もありますが、二十でやっと思春期らしきものが始まると考えて、30ぐらいまでに何とかそれなりの社会常識を持つようになれればいいか、というぐらいの気の長さで考えるのも一つの方法かな、と思いました。
 平均寿命は80ぐらいですから、それでもまだ50年残っている、とも言えますので。


[812] Re[800]: 左右(Re[794][788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可) 投稿者:如月 投稿日:2000/06/04(Sun) 20:06

> 右と左を考えないとわからない、という表現はよく目にするのですが、私にはこっちがわかりません。

 上と下の区別が自動的につかない人は、当然右と左もダメだろうと思っていたのですが、そんなに単純なものではないのですね。
 実は、ある時ふと、世の中の人は考えなくても左右の区別がつくのではないか、と思ったのです。何故ならば、右とか左という言い方が氾濫しているこの世の中で、邪魔くさがりの世の人達が、いちいち考えて決めているとは到底思えない、と閃いたからです。
 上下ならば自分も自動的にわかるので、左右もそうなんだろうと思いつつ、この年になって確かめるのも気が引けて、そのままになっていました。右を決める時は、伝統的な日本流の方法に則って、箸を持つ手はどちらかと考えます。左に関しては、横着をして右の反対が左としています。
 だから、上下に比べて右を決めるには一呼吸遅れて、左の場合は右の反対という一段階が更に加わるので二呼吸遅れます。当然、何かのはずみで忘れてしまうと、もう一度やり直しです。右の反対を左とするような横着は、今に至っても変わらない性格で、この手抜きのために随分と痛い目にあっていますが、三つ子の魂百までなので、もう諦めています。

 この左右の絶対感覚のなさから来るのか、昔からの大きな疑問の一つは、鏡では左右が引っくり返る、と誰もが言うことです。子供の頃には絶対にそんなことはないと思っていましたし、今でも半分以上は信じていません。
 視点の反転をしないからなのか、向こう側という概念がないからなのか、理由はわかりません。鏡に映っている自分は、鏡に近づいて行ってボディペインティングしたようなものだと認識しているので、右手は右手だし左手は左手のままです。
 関取の手形は、右手で押したものは右手の手形のはずなので、鏡もそれと同じ様な認識方法です。散髪屋で他人の姿が映っている場合には、左右反対という認識で見ていますが、自分の姿は今でも反転させていません。
 こんな細かい話は沢山ありますが、疑問を口に出さない性格なので、周りの人から変だと見られることはあまりなく、寡黙にも美点があったなあと思います。積極的に疑問を表に出す性格ならば、周りとの摩擦が増えて精神的に持たなかったでしょうから、助かりました。


[811] やっぱり 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/04(Sun) 20:04

あるんですね、そういうこと。

「知らない人についていってはいけない」
「知らない人から物をもらってはいけない」等など

これからどうやって教えるか、むずかしいですね。


[810] Re[809]: ありがとうございました 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/04(Sun) 13:42

> ですから、「知らない人についていってはいけない」「知らない人から物をもらってはいけない」

小包を届けにきた郵便屋さんを追い返したのは、私です・・・ 小包を受け取るのを拒否した。

病院で、看護婦さんが誘導してくれるのを拒否したのも・・・ 

なぜなんだろう、って不思議に思っていましたが、そういうことだったような気もする。

ただし、「知っている人の顔が覚えられない子」にとっては、「わからない顔の中にも、知っている人がいる」というのが、なんとも大変です・・・。この辺は、「ずっと『普通』に・・・」に詳しく出てくるので、くり返しませんが。

つまり、「どれが『知っている人』で、どれが『知らない人』か?」を、独自の規準で判断するしかなくなるわけですから。


[809] ありがとうございました 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/04(Sun) 08:42

>ペンギンさん、屁こきのプーさん
ありがとうございました。
やはり、きちんと話して、教えてやる必要があるのですね。
ちゃんと話し合う必要もあると思いました。(今はまだ、能力的にちょっと無理かな?)。


>フリーラジカルさん
「怒っちゃダメ」を丸暗記されたお嬢さんのように、家の娘も丸暗記で言葉をよく使います。
丸暗記なので、応用はききませんし、例外もありません。
ですから、「知らない人についていってはいけない」「知らない人から物をもらってはいけない」などを教えてしまっていいものかどうか迷っています。
「人を疑え」ということになるからです。
それに「知っている人にならついていっていい」になるのも、なんだか危険だし。
今、言葉を選んで何をどう教えるか考えています。

感覚過敏については、音に対して何かしらあるようですが、大きい音とか特殊な音ではなさそうです。
どんな音が嫌なのか、それとも本当に音なのかもつかめません。
たまにそうなのかなと思う程度です。
心理的ストレスとの間に関係があるのだとしたら、これからいろいろでてくる可能性はありますね。


>如月さん
「セブンイレブン」
ある日突然入れなくなりました。
それまでは大好きだったのに。
はじめて入れなくなった日、耳をふさいだので、音かなと思っていますが、はっきりしません。
他の町のセブンイレブンも入れません。
ほかのコンビニはすべて大丈夫です。
ある日店内でとても嫌な音をきいてしまって、その後はセブンイレブンの店を見るだけでフラッシュバックして入れないって感じかしらと勝手に想像しています。


[808] 感覚過敏 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/04(Sun) 02:42

感覚過敏に関するカンガーさんの疑問に。

感覚過敏の素質(?)がもともとあっても、年齢やストレス状態でずいぶん波があるようです。私の娘は2歳ぐらいまではフラッシュなどの光過敏はなかったのに、最近は本当にひどいです。今日も「ピカチュー」のかぶりものショーで周りのフラッシュがどうしても目に入ってきて目を開けられなくなり、やむなく途中で退場しました。そんなわけで外出はままなりません。2歳ぐらいまでは聴覚過敏が本当にひどくて、しょっちゅうパニックを起こしていましたが、今はずいぶん軽減した(でもかなりひどい)ので、聴覚過敏のマイナスと光過敏のプラスで相殺し合ったみたいです。

私自身は小学校低学年ぐらいまではクラス写真が撮れないほど、太陽光に敏感でした。それも高学年になったら不思議と平気になり、そのまま20代中頃まで来ました。音に対しては一貫して過敏でしたが、特に20代中頃からひどくなりました。今はスーパーへは耳栓をして入っています。ショッピング・カートの滑車がキリキリいうのと、BG音楽とかが気に障ってたまりませんので。

感覚過敏の程度と、心理的なストレスとの間に正比例の関係があるようです。そんな訳で、娘の感覚過敏の程度を心理的ストレスのバロメータに使えるな、と思っています。


[807] Re[801]: 女の子の将来の不安について 投稿者:如月 投稿日:2000/06/04(Sun) 02:24

> あとはセブンイレブンに入れないこと。

 実は私もセブンイレブンは苦手です。最近入った二ヶ所の店は、冬でもないのにあのおぞましい臭いのおでんが入り口近くに、でんと居座っていて、とても耐えられません。電話代を払う時は、息を止めてあの毒ガスを吸わないようにしています。
それが原因とは思えませんが、ある時から急にダメになったのか、最初から入り口の前で嫌がったのか、一度入ってから嫌がったのか、で原因の絞込みぐらいはできるでしょう。

> 繭子が、ホテルについていってしまった原因はなんだと思われますか?

 私の常識では、言葉というものは意味を伝えるためにあるものなので、言外の意味を持たせてしまうと、言葉自体の存在意義がなくなってしまいます。「食事をしよう」と言われれば、それ以外の意味はありえなくて、それ以外の意味があるのならば何故はっきりと言わないのか、理解できません。
 繭子の発想も似たようなものでしょうし、二十ぐらいならば、例えある程度外に出た経験があるとしても、言外の意味を推測するのは到底不可能だと思います。少なくとも自分の経験から言えば、不可能です。ある程度異性に関する知識があったとしても、それは大事な事なのだから、大事な事を曖昧な表現で表すはずがない、従って、本来の言葉の意味以外の部分に大事な事が含まれているはずなどありえない、と私ならば考えます。
 立場を変えて、「今夜は帰りたくない」と言われたとすると、この発想から出てくる答は、何か今日は家に返りたくない事情があるのだろう、です。今ならば、少しは言外の意味に思いが至りますが、はっきりとイエス、ノーを確かめない限り、確信は持てません。
 間違った方向に一般化される可能性もあるので、どう教えても正しい理解は難しい気がします。どうしたら良いのかは、本人の性格やその時の物事の理解度にもよりますし、まあやっぱり、女の人に聞いたほうが良いでしょう。


[806] Re[804][800]: 左右 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/04(Sun) 01:52

> > 右と左を考えないとわからない、という表現はよく目にするのですが、私にはこっちがわかりません。私の中では、右は赤かピンクで、ピアノで言えば高音で、左は青とか黒で、ピアノで言えば低音で、という区別がきっちりついています。
>
> 私の場合は、箸を持つ手の方が右、ボールを投げる手が左、という区別の仕方をします。そのときに、身体運動感覚で確かめているので少し時間がかかる、だから少し「考えないとわからない」のです。Lingkoさんの場合、身体運動感覚に頼らず、瞬間的に鍵盤や色を参照できるのでタイムラグがほとんどないのかなーと推測しました。

視覚映像で確かめているわけではないんです。右側という概念そのものが、赤やピンクだったり高音だったりという感覚と結びついている。

「右」っていう文字は赤く見えるし、「みぎ」という音声は赤く聞こえて、ピアノの高音部のような音に聞こえます。

左については、その逆。
>
> > だから、グランドピアノの弦の先(鍵盤があるのと反対側)に立って、ピアニストと向かい合うような形になると、ひどく混乱するし、

まあ、混乱するという言いかたは不適切でした。
右から聞こえるべき音が左から聞こえる、という不満というか不快というか。

オーケストラの楽器の配置って決まっているでしょう。ステレオの配線するときにスピーカの左右をつなぎ間違えたら、あるいは、ヘッドフォンを左右逆につけたら、不快だと思いませんか。それに似た感じです。

> > 水道の蛇口の、お湯と水の印が、左が赤で右が青だと、不快になります(かなり慣れましたけどね)。
>
> これも、赤が右、青が左っていうのは信号機がそのまんまなので、抽象的な赤や青の代わりに信号そのものをイメージするとかすれば、混乱せずにすむように思うのですが、どうでしょう?

これも、混乱するわけでなく、自分の中の体感に違反しているから、不満で、不快なだけなんです。まあ、一種のワガママですね。
>
> それから上下についてですが、
>
> > そうです、頭で考えて(というか、目と頭で共同作業をして)「こっちが上だな」と計算しているので、何かに気を取られると、転んでしまうわけです。
>
> 「目と頭で共同作業をして」っていうのは、空は上で地面は下とか天井は上で床は下とかそういうことを意識し続けるっていうことですか?

子どもの間は、そうでした。

> 自分のことを振り返ると、上下については、視覚からの情報に加えて身体運動感覚を判断基準にしています。重力を感じていて、引っ張られる方が下、と判断しているのです。だから目を閉じていても上下を間違うことはない。左右のときと違って、重力は常に存在しているからまごつかないのでしょう。Lingkoさんは、重さの感じ、引っ張られる感じ、についてはどうですか?

これはね、引っぱられる感じと、地面(靴底)や、椅子の座面などに押しつけられる感じと、両方あるでしょ?

子どものときは、どちらも、自分が静止しているとわからなくなってしまっていたんです。

じっとしていると、そのときかかっている重力が、ハカリで言えば目盛りがゼロのところになっちゃうんです。じっとしてると、感覚がなくなってしまう。動くと、変化によって、重力がどこにかかってるかが初めて確認できる、という感じでした。

「引っぱられる感じ」であれば、脚をぶらんぶらんとさせていると、下がわかる。傾く感じにしても、ロッキングしていれば、頭の重さが動くので、何とかわかる(転ばずにすむ)んですね。

ロッキングしていると、お尻が椅子の座面に当たる感覚も変わります。押しつけられる場所が変わる。それによって、自分が確かに椅子に乗っていることが確認できて、とても安心です。

ただ、ロッキングは、とても幼い頃に厳しく禁じられたので、がまんしていました。

33のときに、私はロッキングを解禁して、もう一度練習しました。最初はあまり使えませんでした(ロッキングしても、重力の確認には変換できなかった)が、3分くらいで、変換できるようになりました。なんか生まれ変わったように快適で、驚いてしまいました。

ひっぱられる、ぶら下がる感覚、という意味での重力は、いまでも解釈が苦手ですが、足の裏とか、椅子の座面の「圧迫」の感覚は、成長と共に身についたようです。

私は、ビルケンシュトックというメーカーの靴を愛用しています(繭子と同じ)。この靴のいいところは、土踏まずの部分が盛り上がっていて、青竹踏みのようになっているところです。

盛り上がった靴底を土踏まずに押しつけられていると、足の裏で重力を確認できるので、目に頼らなくても立っていられます。


[805] Re[801][802][803]女の子の将来の不安について 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/04(Sun) 01:44

一般化、汎化についてLingkoさんも書かれていたように、それに「怒りの抑圧」で私も書いたように、この件には本当に慎重に当たらねば、と思っています。

自分のプライバシーなどどうでもよいので赤裸々に書いておきますが、私自身、高校生のときにレイプ寸前の目にあいました。幸い、未遂で終わりましたが。後で友達に相談したときも「そんな世間知らずなんてあり得るの?」と言われましたが、こんな場合の「世間」とは「男性」のことなんですよね。

「転がるペン事件」のところでも書いたように、私は、言葉で表現できない経験・場面は一般化できないのに、(多分、それを補おうと)いったん言語で表現されてしまった規則はそのまま丸暗記してしまいます。「怒っちゃダメ」を丸暗記してしまった娘のように。

高校生のときの私はどこで覚えたのか、「ヒトを疑ってはいけない」と思っていました。父親のいない私に向かって、親ぐらいに年の違う相手の男性は「僕のことをお父さんだと思っていいよ。『足長おじさん』だと思ってもいいよ」と言いながら色々なレストランに連れて行ってくれたものです。夜、男性の車で二人きりでどこかに行くなんて、今考えてみれば信じられないくらい無防備でした。その夜も「僕の仕事場に連れて行ってあげる」というので、「職場なんて、なぜ?」と思い、確かに一抹の不安が頭をよぎったのです。でも「ヒトを疑ってはいけない」という、私の中の「人間関係のルール箇条書き」を参照して、ついて行ってしまいました。バカでした。


[804] Re[800]: 左右 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/06/04(Sun) 01:15

> 右と左を考えないとわからない、という表現はよく目にするのですが、私にはこっちがわかりません。私の中では、右は赤かピンクで、ピアノで言えば高音で、左は青とか黒で、ピアノで言えば低音で、という区別がきっちりついています。

私の場合は、箸を持つ手の方が右、ボールを投げる手が左、という区別の仕方をします。そのときに、身体運動感覚で確かめているので少し時間がかかる、だから少し「考えないとわからない」のです。Lingkoさんの場合、身体運動感覚に頼らず、瞬間的に鍵盤や色を参照できるのでタイムラグがほとんどないのかなーと推測しました。

> だから、グランドピアノの弦の先(鍵盤があるのと反対側)に立って、ピアニストと向かい合うような形になると、ひどく混乱するし、

(自分ではなく)相手のピアニストにとっての左右という点ではその通りですよね。Lingkoさんは目の前に無いものの視覚像をイメージすることはあります?あるのなら、自分の目前にピアノの鍵盤をイメージして、自分にとっての左右を確認するとか、

> 水道の蛇口の、お湯と水の印が、左が赤で右が青だと、不快になります(かなり慣れましたけどね)。

これも、赤が右、青が左っていうのは信号機がそのまんまなので、抽象的な赤や青の代わりに信号そのものをイメージするとかすれば、混乱せずにすむように思うのですが、どうでしょう?

それから上下についてですが、

> そうです、頭で考えて(というか、目と頭で共同作業をして)「こっちが上だな」と計算しているので、何かに気を取られると、転んでしまうわけです。

「目と頭で共同作業をして」っていうのは、空は上で地面は下とか天井は上で床は下とかそういうことを意識し続けるっていうことですか?
自分のことを振り返ると、上下については、視覚からの情報に加えて身体運動感覚を判断基準にしています。重力を感じていて、引っ張られる方が下、と判断しているのです。だから目を閉じていても上下を間違うことはない。左右のときと違って、重力は常に存在しているからまごつかないのでしょう。Lingkoさんは、重さの感じ、引っ張られる感じ、についてはどうですか?


[803] Re[801]: 女の子の将来の不安について 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/06/04(Sun) 00:14

「君が教えてくれたこと」のビデオを娘さんに見せて、それを教材にして、誤解を招きやすい状況や言葉について説明してあげてはどうでしょうか。
また、犯罪者のように悪意を持った他人を避けることを教えるために、たとえばストーカーものなどの映画が使えるかもしれません。用心しなればならない場所や相手、危害を加えられそうになったときの対処方法などについて、ある程度の学習は期待できそう。ただ、その後の場面があまりにショッキングすぎないものを選ぶ必要があるだろうし、Lingkoさんのおっしゃる過度な一般化による誤解を防ぐために、観た後にじゅうぶん話し合う必要があるかも。
そして、学習したことを実践できるかどうか、実際にそういう場面を作ってみてロールプレイしてみる、というのも有効ではないでしょうか。


[802] Re[801]: 女の子の将来の不安について 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 23:02

> 繭子が、ホテルについていってしまった原因はなんだと思われますか?

繭子があまりにも無知なので、例え空ばかり見ていたとしても、いったい、あの年まで小説を読んだりテレビを見たりしたことがないのかと思われた人もいるかと思います。
それに父親の発言を繋ぎ合わせると、どうせ人に無関心で「愛」だの「恋」だのには無縁だと思われていたようだし、家からも出さずに守り通そうとしていたようですね。

まっ、恋愛感情を持つ持たない・自立欲求のあるなしに係わらず、いずれは世間の荒波にもまれなければならないことを考えると、本当は「異性と二人きりでどこかに行くとはどういうことか」とか、いろんな危険があることをきちんと教えておかなければならなかったんです。
でも、繭子は何の知識も無かったし、たまたま覚えたての言葉を状況も分からずに使ってしまって、そこに隠されていた本当の意味が全く分からなかった。しかも、言われた言葉を字義通りに受けとって「綺麗な夜景が見える」とか「食事をする」としか思っていない。

こんなこと教えなくたってと言うより、普通なら自然に関心を持って子供同士で情報交換をさかんにして、むしろ抑制する方に忙しいようなことなのかもしれません。でも、もともと興味が無いところにもってきて、もともと友達がいなかったりいてもそういう話題を話すことがなかったりするので、本当に知らないということも有り得ます。(と言うより、そうでした。)
逆に、たまたま聞きかじったことや人に言われたことから、ヘンな知識を埋め込まれていることもあります。(と言うより、そうでした。)

まあ、ドラマですから「世間知らず」で「触覚過敏」ということだけが強調された出来事でしたが、実際は「世間の常識」を誤まって覚えてしまってそれほど「触覚過敏」がひどくない場合の方が多いので、「こんなこと知っているだろう」と思わずにちゃんと教えてあげてください。

それに、タイミング良く現場に駆け付けてドアをバンバン叩いてくれる精神科医なんて絶対にいませんから。
どんなに周囲で守ろうとしても、生きていくのは「ひとり」なので。


[801] 女の子の将来の不安について 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/03(Sat) 22:08

うちの娘の問題行動というか、私が人前ではやめてほしいなあと思うことは、以前書いた「物の注意書きをいう」ことくらいで、他には思いあたりません。

だから、Lingkoさんの書き込みを読んでいると、家の子の場合は感覚過敏などは、軽度なのかなあと思ったりしています。
それとも、これからいろいろ出てくるのでしょうか?

あとはセブンイレブンに入れないこと。
でもこれは、べつに困ったことではなくて、セブンイレブンくらい入れなくってもいいのです。
ちょっと入れない理由が知りたいなあっていう思いはあるけれど、言葉では説明できないようです。
彼女の意思を尊重して立ち寄らないようにしています。

一番の問題は、言葉でコミュニケーションがとれないことです。
先日書いた、「いや」「やめて」が言えないこと。
椅子には問題なく自分から座るので、そういった意味では不安はありませんが、言葉による抵抗ができないことに将来の不安を感じています。

繭子が、ホテルについていってしまった原因はなんだと思われますか?
自閉症であるかぎり、ある程度は仕方ないことですか?
娘の将来のために何かできることはありませんか?
物騒な世の中になりました。
繭子の年令になる以前にも、小学校にあがり、1人で行動するようになったら、常に危険はあるように思えて、非常に不安です。


[800] 左右(Re[794][788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可) 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/03(Sat) 20:14

> > たとえば、私は椅子に座っていると、まっすぐ身体を支えることができませんでした。「どちらが上でどちらが下か知らない」ので、油断しているとどちらに転んで落ちるかわからないのです。
>
>  これは考えなくてもわかる絶対的な感覚としての上と下がなく、頭で考えないと上と下の区別がつかない、という意味でしょうか。そのために、こっちが下だろうと見当をつけてバランスをとろうとしている時に、何かのはずみでこっちが下という感覚をなくしてしまうと、バランスがとれなくなって転げ落ちてしまうという事ですか。

そうです、頭で考えて(というか、目と頭で共同作業をして)「こっちが上だな」と計算しているので、何かに気を取られると、転んでしまうわけです。

>  上と下がわからないという表現はよく目にするのですが、それが何を意味しているのかがよくわかりません。私は上と下ならば考えなくてもわかるのですが、右と左は考えないとわかりません。

右と左を考えないとわからない、という表現はよく目にするのですが、私にはこっちがわかりません。私の中では、右は赤かピンクで、ピアノで言えば高音で、左は青とか黒で、ピアノで言えば低音で、という区別がきっちりついています。

だから、グランドピアノの弦の先(鍵盤があるのと反対側)に立って、ピアニストと向かい合うような形になると、ひどく混乱するし、

水道の蛇口の、お湯と水の印が、左が赤で右が青だと、不快になります(かなり慣れましたけどね)。

さて、上と下がよくわからないという点ですが、絵などを見ると、「遠く」が上に、「手前」が下に描いてありますよね。だから、そのせいか「前」(奥)と「上」の区別、「手前」と「下」の区別がよく混乱していました。


[799] 一般化、応用 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/03(Sat) 20:03

> ただ、私が「目を細めてはいけない」「指の間を広げてはいけない」といった「普通のしつけ」から類推して、「ふむ、そうか、転んだときに手が出るのも、きっと悪に違いないぞっ」と考えた(大まじめで考えて、本人は内心、大得意だったんですよね、これでも)発想のメカニズムを考えると、
>
> 【治安の悪い国で】【女児を】育てる場合には、椅子に座らせるのに【長時間抑えつける方法をとる】のには反対、と思った

なぜこんな「後味の悪い」ことをわざわざ「ついでに」なんて書いたかというと、

私たちは応用が利かないとか、汎化ができないとか、一般論がわからないとかいうことは、よく言われていますが、その逆のことはあまり知らない方もいるかもしれない、と思ったからです。

私の出会って来た仲間たちの中には、ある程度の年齢になるまで、「汎化」ができなかった分、あるとき突然、「はっ!」と「例」と「一般論」の関係に気づいたときに、今度は過剰な一般化をした、という人がたくさんいました。

つまり、何でもかんでも、通用しない範囲にまで「応用」しようとしてドジを踏むわけです。

「応用できない」ということが広く知られている割に、「いったん『類推』という概念に気がつくと、いらんことまで応用してみようとする子もいる」ということが知られてないかもしれない、と思ったから。

(私、よく言われるんですよ、自分なりに「これが規則かな?」と推測して、過剰な一般化をして間違えた経験を語ると、「そんなことがあるはずはない、なぜなら、あなたがたには一般化はできないはずですから」とね。)

>>言葉の訓練などの時に、椅子に20分も30分も抑えつけることで座らせる
>というのは療育方法の間違いであって

というのは、私にはわかりません。私は療育のことは何も知らないし、もしかしたら、こういう方法が合う、あるいは、必要なこともあるのかもしれないし。間違いなのか間違いでないのかは、私には判断できません。

ただ、私の発想の特性と組み合わせて考えたら【治安の悪い地域で】生活する可能性のある【女児に】使うのには反対、と言うのはドシロウトの私にもできますので。


[798] 「怒り」の抑圧 投稿者:フリーラジカル 投稿日:2000/06/03(Sat) 19:50

また話題が前に戻りますが、今、私が母親として痛いほど反省しているエピソードについて。

4歳の娘はやはり、「あるはずのものがない」「できるはずの、できなければいけないことが、できない」などの点で癇癪をよく起こします。そのたびに「怒っちゃダメなの!、いつかは見つかるから。いつかはできるようになるから。」と言い聞かせてました。そう、「怒っちゃダメ!」と確かに私は、軽い気持ちで言っていました。

娘は最近、保育園に行きたがりません。やっぱり「バカ」「アホ」「ヘン」と言われているところを、時折目にします。今日、私は娘に「『イジワルはダメ』って言ってやりなさい。怒ってやりなさい。」と言いました。そしたら娘は言いました「怒っちゃダメなの・・。」

私は愚かでした。
ただでさえ、私たちには「怒り」という感情を認知・表現するために必要な「強固な自我の形成」が欠けていて、そこに「自己検証」という余分な回路が邪魔だてしてくるのに、「抑圧」まで加えてしまったのです。4歳の子供にとって、親の言う言葉の一言一言がとてつもない重み・定義を持っていることを忘れていました。

話題をそらしてすみませんでした。もしかしたら私の愚かな過ちが反面教師になるのでは、と思いましたので。


[797] Re[790][789][788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/03(Sat) 19:30

> > 今現在は、ちゃんと診断されて正しく「療育」されている限りではそういうことはありません。ただ、ちゃんと診断されて正しい「療育」を受けている人がどれだけいるかというところが大問題なのですが。
>
> 私はこのごろ、やっぱり「放置」されてきて良かったのかもしれない、という気もするようになってきました。
>
この発言は、単に【私が育ってきたのが1960年代だから】、という前提があるからです。

そして、診断されていない条件下で、しつけをしてくれたのが母だったから(そこから推測して)、というだけのことです。

ついでながら、60年代には、抑えつけて椅子に座らせる方法はあまりやっていなかったと思うし、私も、たとえ座れなくても最初からおとなしく座る子どもだったので、抑えつけられた経験は一度もありません。

ただ、私が「目を細めてはいけない」「指の間を広げてはいけない」といった「普通のしつけ」から類推して、「ふむ、そうか、転んだときに手が出るのも、きっと悪に違いないぞっ」と考えた(大まじめで考えて、本人は内心、大得意だったんですよね、これでも)発想のメカニズムを考えると、

【治安の悪い国で】【女児を】育てる場合には、椅子に座らせるのに【長時間抑えつける方法をとる】のには反対、と思っただけです。

この掲示板は、安全大国(と言われている)日本在住者だけが読んでいるとは限らないと思うし。


[796] Re[792]: まあ、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/03(Sat) 19:18

> >言葉の訓練などの時に、椅子に20分も30分も抑えつけることで座らせる
> というのは療育方法の間違いであって、それをそのまま「療育」に対する批判材料にするのは性急過ぎます。

私は別に療育に反対しているわけでも何でもないし、

【治安の悪い国で】【女児を】育てる場合には、椅子に座らせるのに【長時間抑えつける方法をとる】ことの危険を、療育に対する批判材料にしたわけでもありません。

単に、

【治安の悪い国で】【女児を】育てる場合には、椅子に座らせるのに【長時間抑えつける方法をとる】ことには反対、というだけです。

日本はこの先もずっと治安が良いと確信しているなら、別に関係のないことですし。


[795] Re[794][788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 18:48

>  これは考えなくてもわかる絶対的な感覚としての上と下がなく、頭で考えないと上と下の区別がつかない、という意味でしょうか。

上下の感覚の無さは、左右の場合とちょっと違います。
身体意識がまるでなくて視覚的な情報に頼ってしまう場合は、目に映るものはすべて自分の「前」にあると錯覚してしまいます。
視空間認知に障害がある場合は、物の距離感が分かりません。
更に、運動性の障害があって抗重力姿勢の保持ができないことがあります。
それで、上下という座標軸が出来にくいのです。

ですから、頭で上と下の区別が考えられても、上下の区別がつかない感覚に陥ることはよくあります。


[794] Re[788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可 投稿者:如月 投稿日:2000/06/03(Sat) 17:34

> たとえば、私は椅子に座っていると、まっすぐ身体を支えることができませんでした。「どちらが上でどちらが下か知らない」ので、油断しているとどちらに転んで落ちるかわからないのです。

 これは考えなくてもわかる絶対的な感覚としての上と下がなく、頭で考えないと上と下の区別がつかない、という意味でしょうか。そのために、こっちが下だろうと見当をつけてバランスをとろうとしている時に、何かのはずみでこっちが下という感覚をなくしてしまうと、バランスがとれなくなって転げ落ちてしまうという事ですか。
 上と下がわからないという表現はよく目にするのですが、それが何を意味しているのかがよくわかりません。私は上と下ならば考えなくてもわかるのですが、右と左は考えないとわかりません。上と下もそれと同じだろうと理解していたのですが、真相はどうなのでしょう。是非教えてください。


[793] その前に、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 16:15

「自閉症」に詳しい専門家が、少な過ぎる。
「広汎性発達障害」となると、更にお寒いのが現状ですから。


[792] まあ、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 16:11

日本の現状では、まず正しく診断されていない。そして、正しい対応を受けていないという場合が多いのです。
>言葉の訓練などの時に、椅子に20分も30分も抑えつけることで座らせる
というのは療育方法の間違いであって、それをそのまま「療育」に対する批判材料にするのは性急過ぎます。

しかし、正しい対応の恩恵に浴しているごく一部の限られた人たちは、自分たちが恵まれていることにさえ気づいていない。
あまりにも地域格差が大き過ぎるというのもまた、大問題だと思います。


[791] Re[790][789][788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 15:59

> 正しく診断されていたら、もっといろいろな「悪癖」を発見されて、矯正されていたかもしれないので。
> 知らなければ「症状」とは思わない「症状」まで、つぶしにかかられたのではないかという気がするのです。

診断は正しくても対処法が間違っていれば、こういうことが起きるでしょう。つぶしたり矯正することは、治療ではありませんから。


> 「抑えつけられたら従わなくてはならない」という思い込みが刷り込まれてしまうと、

正しい治療法をとったなら、「抑えつけられたら従わなくてはならない」というような間違った療育はしないはずです。

それから、第8話で参考図書になっていた『自閉症スペクトル』では、子供に対する治療的介入と青年期の抱えている問題をきちんと分けています。
ですから、繭子のような年齢になってから子供に対するような接し方をして、双方に良い結果をもたらすなどということはまず絶対に有り得ないでしょう。


[790] Re[789][788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/03(Sat) 15:18

> 今現在は、ちゃんと診断されて正しく「療育」されている限りではそういうことはありません。ただ、ちゃんと診断されて正しい「療育」を受けている人がどれだけいるかというところが大問題なのですが。

私はこのごろ、やっぱり「放置」されてきて良かったのかもしれない、という気もするようになってきました。

正しく診断されていたら、もっといろいろな「悪癖」を発見されて、矯正されていたかもしれないので。

知らなければ「症状」とは思わない「症状」まで、つぶしにかかられたのではないかという気がするのです。

ところで、「問題行動つぶし」ですが、
日本は比較的治安の良い国でしたが、これから先、どうなっていくかわからないし・・・

治安の悪い国で、女の子を育てる場合、たとえば言葉の訓練などの時に、椅子に20分も30分も抑えつけることで座らせるのは、私は大反対です。

「抑えつけられたら従わなくてはならない」という思い込みが刷り込まれてしまうと、そのときは一般化ができていなくても、何年か後に「一般化」ということを覚えたときに、昔習ったことにまでさかのぼって適用してしまう危険があるからです。


[789] Re[788]: 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 15:01

> 子どものころは診断されていなかったので、療育などは受けたことのない私ですが、一応、「健常児の礼儀作法訓練」として矯正されたわけです。

「自閉症」をこじらせるのは、ほとんどが「普通」を押し付けられて「自閉症」ならば当然のはずの行動を「悪いもの」と思わされてしまうことに原因があります。それが、自己否定の元凶になってしまうのです。
(ただし、「死にたい」と思うのは、合併症が「気分障害(鬱病)」の場合だけです。)
今現在は、ちゃんと診断されて正しく「療育」されている限りではそういうことはありません。ただ、ちゃんと診断されて正しい「療育」を受けている人がどれだけいるかというところが大問題なのですが。


[788] 「自分の身体の面倒を見てもいい」という許可 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/03(Sat) 13:54

これまでは、もともと持って生まれた身体感覚のことを書きましたが、ここで少しだけ、後天的な「しつけ」による影響のことにも触れておこうと思います。

私が、「気分のすぐれなさ」を自分で特定して、それなりに自力で手当てしていると、それはたいてい「悪癖」とか「問題行動」などとよばれ、矯正の対象になりました。

子どものころは診断されていなかったので、療育などは受けたことのない私ですが、一応、「健常児の礼儀作法訓練」として矯正されたわけです。

たとえば、私は椅子に座っていると、まっすぐ身体を支えることができませんでした。「どちらが上でどちらが下か知らない」ので、油断しているとどちらに転んで落ちるかわからないのです。

唯一、転ばずに済む方向は、前方です(机がありますからね)。しかし、机にいきなり突っ伏したら、額が「ごん!」といって、音がうるさいですから、それも避けたい(痛覚はありませんでしたから大丈夫でした)。

そこで工夫したのが、世間一般に言う「ほおづえ」と同じ姿勢でした。これは厳しく叱られました。

あるいは、目の明るさの調節がうまくできず、ときどき視界がさーーーっと明るくなってまぶしくてたまらなくなることがあり、そのたびに目を細めることを覚えました。これも、「変な顔しないの」「レディが台なし」と叱られました。

手の指と指の間の、水かきに当たる部分が、むずむずと気持ち悪いときは、指と指を思い切り引き裂くように広げて耐えましたが、これも、一人のときとか休憩時間とかはいいけれど、授業中は許されませんでした。

家では、耳なりがうるさいとき、あるいは、蛍光燈などの持続音がうるさくてしかたがないときは、持続音と同じ高さの音をハミングしたら耐えられることがわかったのですが、これも家族がいるときは厳しく禁じられていました。

また、つらい記憶の断片(学校でだまされて恥をかかされた場面、ぬれぎぬを着せられて叱られた場面、持ちモノを壊された場面、服を脱がされた場面など)が連続再生されてうっとうしいとき、こだわりの本(犬の品種の図鑑)を広げると、そちらに意識が切り替えられて楽だったのですが、犬の図鑑を広げても良い時間は何時から何時までと決められていたので、それ以外は許されませんでした。

よみがえってくる記憶が画像ではなく音(叱られた声、笑われた声、
脅かされた音など)のときは、犬の品種名を大声で暗誦するとかき消せるのですが(要するに独り言ですね)、これも家族がいるときは禁じられていました。

つまり、私が、自分の心身の不調を自分なりのやりかたで「手当て」する行為は、全部、「悪い癖」だったのです。

小さいうちは、「一般化」のできない私でしたが、あるとき「一般化」を覚えてからは、今度は逆に、過剰な一般化をするようになりました。心身の不調に対処しようとすることは「悪」という公式ができたのです。

お腹が痛いとき、お腹に手を当てるのは悪。ボールが飛んできたとき、目をつぶるのは悪(これはいくら決心しても守れなかったので、ひどく自分を責めたものです)。転んだときに手を着くのは悪(これも、守れなかった。ちゃんと手が出てしまうので、私は悪い人間なんだと思いました)。

大げさなんじゃなくて、いじけていたのでもなくて、すねていたのでもなくて、私は論理的に考えて、本気で信じていたのです。


[787] Re[781][769][767]: はじめまして&怒りについて 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/03(Sat) 13:22

> > 「この扱いは不当だ」というのが、モタモタと頭の中であぶなっかしい計算をするのではなく、感覚で実感できたら、安心するだろうと思うのです。
>
>  怒りの存在自体が曖昧で、はっきりとした形にすぐにはならないという意味でしょうか。

わりと近いかな。

何か身体がおかしい、と思う。
よくよく調べてみたところ、かなりひどく気分がすぐれないぞ、とわかる。
ところが、外から来たモノ(何かに反応している)か、中から来たモノ(病気になった)かが、区別できない。

だから、「外から不当な目に会ったんだ」と理解できれば、「あ、何かに反応しているだけなんだな」ってわかるし、「こんな感じになるのも無理はないんだな」とわかるから、まず、「病気になったわけではないらしい」とわかって、安心します。

それに、「毅然として抗議してもいいらしい」とわかると(どうせできないに決まっているのですが)、多少、かんしゃくなどを起こしてしまっても、あまり罪悪感を持たずにすみます。

>他傷しようという気は起こりませんが、悪意はわかりますので、嫌なヤツだと思うのです。

悪意がわかるっていうのは、なんだかすごく便利そうですね。とてもうらやましいです。

>  「生まれて来なければ良かった」という感覚が少しわかりました。でもその状態で、今までよく持ちましたね、というのが素直な感想です。
>
この感じ以外知らないので、こう思っていない人がいるというのは、不思議な感じです。

でも、よくしたもので、私は「生まれてこなければよかった」とは思っても、「死にたい」と思ったことがありません。なぜなら、「今あるものは何でも継続するのが好き」だからです。変化はいやですから。

ただ、「死ななければいけないような気がする」ことは、よくあります。自分の中からの必然ではなく、どうも人の邪魔になっているらしい、と思ったときです。

私は人より恵まれているのだ、私は贅沢なのだ、私より苦しんでいる人がいるのだ、ということを感じると、「死ななければいけない」ような気になるのです。

だから、うらやましがられたとき、ほめられたときなどは、「ごめんなさい、死んでお詫びします」という体調になりますが、でも死にたいとは思いません。「既にあるモノは、なんでもなるべく長持ちさせたい」からです。


[786] Re[781][769][767]: はじめまして&怒りについて 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 07:42

>「生まれて来なければ良かった」という感覚が少しわかりました。でもその状態で、今までよく持ちましたね、というのが素直な感想です。

そうねえ、よく持ちましたねえ。自分でもそう思います。


[785] 更に、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 07:37

高機能で言葉の遅れがなく、その経過を冷静に見ていられるほど身体症状が軽ければ、その外傷の原因となった体験を追体験して言語化することで、その当時一体何が起こっていたのか解明することが出来ます。
これが出来ない場合は、いつまでもその外傷を精算できずに悪循環を繰り返してしまうのです。


[784] Re[778]: 感情について 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/03(Sat) 07:32

> 入眠時幻覚というのかな、眠るとき意識がとぎれる直前に、首から下が存在しないかのような感じになるときはあります。

これが、「自閉症」者にとっての普通の状態です。そして、何らかの理由があるときに限り、「身体」を感じると言う方が適切です。
基本が「身体」ゼロの状態なのにもかかわらず、何があってもすぐ身体に変調が生じます。で、よくよく考えてみたら、その原因に何らかの「感情」があったという順序になります。
例えば、何かをキッカケにフラッシュバックを起こすと、外傷体験の記憶がその時の身体感覚を伴って甦ってきます。動悸・発汗・めまいがしたり気を失ってしまったりするほど「恐怖感」が強い人は、パニックを起こすでしょう。身体の違和感という程度なら、それをぬぐう為に自傷する人もいるでしょう。或いは、単に眠ってしまう人もいます。いずれにしても、その「痛み」から逃れようとしているのです。
でも、常にその原因となる「感情」よりも「身体症状」が先に出てしまうので、何を感じてそうなったのかが分かるのは一番最後になります。


[783] Re[747]: 場違いですが 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/06/03(Sat) 01:24

いもうと さんへ

私も兄が障害者なのですが、おなじようなきょうだいのためだけの掲示板を作っている方がいます。よかったら参加されてみませんか。yahooの「障害者」のカテゴリーから飛べるようになっています。


[782] ただ、 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/06/03(Sat) 00:32

怒り下手な人間として思うことなのですが、
感情という自動運転装置のなかで、とりわけ、怒りというハンドルは、使いづらく思い通りにいかない困ったヤツです。障害物をよけようとして、別の障害物につっこんでいったり、コントロールできずに蛇行を繰り返したり、なんていうことは、しょっちゅうです。
もちょっと性能のいいハンドルがほしい。


[781] Re[769][767]: はじめまして&怒りについて 投稿者:如月 投稿日:2000/06/03(Sat) 00:22

> 「この扱いは不当だ」というのが、モタモタと頭の中であぶなっかしい計算をするのではなく、感覚で実感できたら、安心するだろうと思うのです。

 怒りの存在自体が曖昧で、はっきりとした形にすぐにはならないという意味でしょうか。それならばわかります。私は瞬間的に怒りが沸いてこないということはありませんので、特定の誰かに怒りを感じられます。他傷しようという気は起こりませんが、悪意はわかりますので、嫌なヤツだと思うのです。
 自傷行為もしませんので、その効用は想像するばかりです。やはり、体験していないものはわからないもののようです。「生まれて来なければ良かった」という感覚が少しわかりました。でもその状態で、今までよく持ちましたね、というのが素直な感想です。


[780] Re[763][750]: 繭子は怒らない。 投稿者:こち 投稿日:2000/06/03(Sat) 00:13

はじめまして こちといいます。
この掲示板をみて初めて知った事、ひかれることが多くて、
毎日欠かさず見ています。

> > 実は、私も怒れないんです。抗議できない。不当な目にあわされたら、抗議する代わりに自傷してしまうんです。方向を決める能力が欠けているからです。
>
>  もしも怒らなければならない時に自傷してしまうのならば、それは方向が内向きになっているだけで、立派な怒りです。臨床例を知らないので確信はありませんが、高機能自閉の男の人の場合、そういう時に自傷したりはしないはずです。男だからどうだとか、女だからどうという発想は全然ありませんが、統計的に違いが認められる事例はあると思います。

 自閉症者の施設で、知的障害の「中軽度」の方のグループのサポートをしていたのですが、ストレスが内向きに自傷として出る人と、外向きに他傷として出る人がいると感てました。
 「興奮に対する鎮静のための独自的な対処方法として」あるいは、「ストレス要因の消去の為」に自傷と他傷があって、獲得してきた技術の違いの様に感じられます。ですがなかには、怒りを感情的に表現できる人もいました。他傷をする人の方が相手に怒りを表現できる人が多かったです。ドラマやマンガ、ゲーム、などから学習した言葉つかいもよく怒りの場面で見られました(非自閉者もそうなのだけど)。
 ただし、自傷と同じく繰り返し止まらない場合もあり、周囲の理解が難しく、他傷する本人、家族が、同じ施設の知的障害を持つ家族などから白い目で見られ苦しんでいる場合があります。
 とはいっても、いい子・いい人な自閉者像はなんとかしたいです。怒りを知ってその表現をうまく使えてくれたら・・・ドラマで先生が繭子さんに教えてくれたら参考にしたいです。
 


[779] 治るんじゃなくて・・・ 投稿者:マム 投稿日:2000/06/03(Sat) 00:10

はじめまして。アスペルガーの子供の母です。
「君が教えてくれたこと」を見て、どうしても気になることがありました。
繭子さんの理解者であった弟君が、繭子さんの自閉症を治したいというような発言をされていたことです。
(ずいぶん前の放送になりますが・・・。)
自閉症を治したいということは、繭子さんの人格を否定することにもなると感じました。
私は、息子を治したいとは、思っていません。
ただ、彼が生きやすいように、この社会の中で生きていくためのノウハウを取得してくれたら・・・とは思いますが・・・でもそれが、治ってほしいってことになるのかな。
本当は、世の中が理解のあるものに変われば、それがベストなのですが・・・。

彼の心に同調しようとすることと、社会に合わせるためのノウハウを教えることに矛盾を感じて、時々悩みます。


[778] 感情について 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/06/03(Sat) 00:05

感情は煎じ詰めると、好きか嫌いかのどちらかに収束すると思います。身の回りの感情表現が豊かな人を思い浮かべてみても、まず好き嫌いを明確にして、その範囲内のディテールをよりわけているように見えます。自動運転できるのも、まずは好きか嫌いか、良いか悪いかをトップダウン的に判断しているからかもしれません。

ただ、それが身体感覚に結びつくことは、よほど強い感情が伴わない限り、私の場合ありません。たぶんそこが、Lingkoさん、ミサキさん、ペンギンさん、ななさんと違うところです。尊敬の念を感じるほど、みなさんの身体感覚の表現が緻密なことに驚きました。


>>この感覚が、「自閉症」じゃない人には一番分からないところだ>>と思います。自分の体に違和感があって、自分の体が自分のもの>>として感じられないなんて、どういうことか想像もつかないでし>>ょうね?
>
>ああ、そうなのか! もしかして、みんな、この感じを知らない>わけ?!

入眠時幻覚というのかな、眠るとき意識がとぎれる直前に、首から下が存在しないかのような感じになるときはあります。でも起きて普通の生活をしているとき、まして人としゃべっているときにはないです。
あー、ときどき、絵を描いているときに、耳の奥でつーんという音がして、自分が目だけの存在になって、色そのものが見えたり物の細部が大きく見えたりすることがあるけれど、これは違うなあ。

んー、難しい。