autismドラマに関するBBS 過去ログ(2000年5月16日〜6月2日分)
[777] 感情 投稿者:なな 投稿日:2000/06/02(Fri) 22:44
感情の起伏がほとんどないことは前々から自覚してたけど、私としてはなんで周りはあんなに感情の起伏が激しいのか理解できずにいました。
ようやくそれは自分がいちいち頭で考えながら手動で対応していることを、周りの人は無意識に自動運転で対応してるからなのだと言うことが分かり、前に母親に言われた一言にけりがつきました。
私と母とで旅行にいったとき、
「あなたと旅行にきてもつまらない。旅行を楽しんでいるようには見えない。」
と言われ、言われたときは「そう言われれば、あんまり感激したことがないな。」と思った程度でしたが、そのあと、たびたびこの言葉を言われた場面ごとフラッシュバックしてくるので、私はそのときとても傷ついたのだなと、1年後ぐらいに気づきました。
その後もことあるごとにその場面がフラッシュバックしていたのですが、テンプル・グランディンさんの本を読んで、なんだ私の脳みそのせいなのかと分かってそのフラッシュバックも収まりました。
皆さんの場合どうなのか分かりませんが、私は私に対して第3者として見られるぐらい、気持ちの収まりがつかないと自分の感情に名前を付けることはできません。感情に名前がつくまではどう対応すべきかも分からないから、周りからみるとただボーッと無感動に見えるようです。
だから、怒るとか、笑うとか、泣くとかその場の感情に即した対応をしなければいけないのはとても大変です。
友達と一緒にいて、なにか起きたとき周りの友達が一斉に反応するのに、私一人何が起きたのか分からずかやの外にいるのはしょっちゅうです。
そういうときは周りの反応を見て、なるほどこういう場面はこういう対応をするのかと、勉強する毎日です。勉強しても役に立つことはほとんどないですが...
[776] そして、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/02(Fri) 22:11
それを知識で対応できるのが、「高機能自閉症」と呼ばれるものです。
[775] それから、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/02(Fri) 22:05
そうやって裏切ったり騙した人に対して、何故「怒り」の「感情」を持てないかというと、他人に対する「感情」を持てない「自閉症」の「こころ」の中では、そういう苦い経験が一気に「恐怖心」にスライドしてしまうからです。
早い話が、全体的に「人」に対する「感情」がなくって、ほとんどが「自分」の「気持ち」なんです。だって、そもそも人との関係が無いのだから。
これも、どうしてかと言われても、人がいるという感覚が持てないのだから仕方ない。ほとんどが知識で対応していますが、それもとっても意識して気にしていないと、すっぽり抜けてしまいます。
[774] Re[769][767]: はじめまして&怒りについて 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/02(Fri) 21:57
> > 不当な扱いを受けたその時その場で、相手に対して適切な怒りの
> > 表現をしたいのだが、うまくできない、ということでしょうか。
その前に、相手に対して「怒り」の感情を持つこと自体がないのです。
物がなくなったことと誰かが何かをしたということの関係が分からないのは、認知の障害です。こういう場合は、物がなくなったことに癇癪を起こすしかありません。だって、人は登場しないわけだから。
でも、誰がどうしてどうなったことも、誰が何を言って他の人がどういう反応をしたかもすべて分かっていても、人に対して「怒る」ことができません。何故なら、人が私に対して何か発言すると、それを聞いている私は「耳だけ星人」になってしまいます。で、言われたことを丸のみにします。あたかも、それが私に対する指示であるかのように受け取ってしまいます。もしそこで、第三者が何かを言わない限り、現場はそれで終わりになります。
あとになってその真意がわかり、「裏切られた」とか「騙された」と分かって癇癪を起こすのは当然でしょう。けれど「怒り」にはならないのです。
何故なら、「人」に対して何らかの働きかけをするような関係を人と持つことが出来ないからです。人に係わるときは、常に一方的に働きかけるか完全に受動してしまうかのどちらかになってしまうのです。どうしてかと言われても、出来ないものは出来ないから仕方ないのです。
[773] Re[772]: 自傷について。 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/02(Fri) 21:55
> この感覚が、「自閉症」じゃない人には一番分からないところだと思います。自分の体に違和感があって、自分の体が自分のものとして感じられないなんて、どういうことか想像もつかないでしょうね?
ああ、そうなのか! もしかして、みんな、この感じを知らないわけ?!
だとしたら、私が自傷する姿を、人が珍しがる理由もわかるような気がします。
> 手足をいくら伸ばしたって、気持ち悪さは一向に解消しないのに、自傷するとスッキリします。手首をちょっと噛むとか、それほど凄まじくないのなら、不安感を消すのには一番便利なんですがねえ。こういうのは、やめさせないで欲しいです。
そうですね、「便利」という表現はまさにぴったりですね。
実は、私は、自傷をできなかったころは、もっと状態が悪かったです。何ていうか、「回復」っていうのか「成長」っていうのか、「感覚が育ってきた」というのか、「やっとこさ回路が完成した」結果、自傷ができる「能力」を獲得して、かなり調子がよくなりました。
ただし、自傷は無条件で推奨することもできません。
自閉の特徴の一つに、「くり返しの輪から抜けるのを好まない」という性質があります。これが暴走すると、「自傷が足りてしまった後も繰り返しが止まらない」状態になることがあります(情けない)。
自傷が便利なのは最初の一クール(他にどう表現していいかわからない)までなので、これが済んだのに止まらなくて「あれあれあれれ」の時は、強制的に止めてくれると助かるんだけど・・・
「もういいのに止まらない時」っていうのは、何とも情けなく、屈辱的で、無力な気分になるものです。でも、最初から止められてしまうと、その方がもっと辛いんですよね。
難しいところですね。
[772] 自傷について。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/02(Fri) 21:37
> 「なんでこんな感じになるのーーーーーーーーーーー?」
> 「こんな身体ではいられない」
> 「なんでこんな世界に生まれてきてしまったの?」
> 「なんでこんな身体の中に生まれてきてしまったの?」
> 「この感覚、勝手に解消して」(本当なら「助けて」と言いたいところですが、言う相手は人間とか、人物とかではないので)
> 「こんな身体、いらない」
この感覚が、「自閉症」じゃない人には一番分からないところだと思います。自分の体に違和感があって、自分の体が自分のものとして感じられないなんて、どういうことか想像もつかないでしょうね?
手足をいくら伸ばしたって、気持ち悪さは一向に解消しないのに、自傷するとスッキリします。手首をちょっと噛むとか、それほど凄まじくないのなら、不安感を消すのには一番便利なんですがねえ。こういうのは、やめさせないで欲しいです。
[771] Re[769][767]: 怒りについて 投稿者:ミサキ 投稿日:2000/06/02(Fri) 21:34
私も2年ほど前に、「怒るべきときには、怒れるようになろう」と決心して、
瞬間的に怒りの表現ができるようにと、がんばっているところです。
成果ははかばかしくありませんが(−−;)
何がいちばんの問題かというと、何かされた、その瞬間に
とっさに自分の状況と感情が把握できないことです。
ペンギンさんの言うように、
> 「何となくオカシイ」とか「何故か分からないけれどイライラする」状態が、
> 実は「嫌な気持ち」だったことに自分で気がつかない。
のです。
「おかしい、おかしい」とずっと思って、理由を考え続けて、
何日かあと、何ヶ月かあとにやっと、「これは怒ってもいいことだ」と気がつくのです。
その時にはもう、文句を言うべき相手はそこにいなかったり、
いても向こうはもう忘れていたりするので、「何を今更」みたいな感じになってしまいます。
おかげで、蓄積されたまま何処にもむかっていけない怒りが体中にたまってきて、
最終的にはその怒りを自分に向けるしかなくなってしまいます。
私のこの不器用さが自閉に関するものなのかどうかはともかく、
怒るべきときに、ちゃんと怒れるというのは、
自分の身を守るために、生きてゆくために、絶対必要なスキルだと思います。
周りから「絶対怒らない人」だとなめられて、つけこまれるのがふがいないです。
とにかく相手の言い分を全部聞いて、「ごめんなさい」の連発です。
繭子も、ドラマの中でそれを身につけるのは無理にしても、
そこに問題があることに気がついて欲しい。
あ、これ書いてるうちにLingkoさんの書き込みが。
Lingkoさんは、私よりもずっと「瞬間的な理解」が難しいみたい…。
> 「自分の感覚を正当と思わない訓練」を、日ごろさんざん積んでいるのですから、
> たとえ「もしかして嫌なのかも」と気づいても、「おかしいのはこっちの方」
> 「嫌だと感じるのはおかしい」「きっと普通の人は平気なのに違いない」と
> 想像する癖がついていますから。
私も、これだよなあと思っていました。
何かトラブルが起きた場合、悪いのはまず自分、ということになっていますから、
その時に相手を疑うなんて発想はまず出てきません。
とにかく自分が悪かったんだろうと思い、いくつもいくつもその理由を数え上げて、
このケースに該当するかどうか照らし合わせて…( この作業がものすごく時間かかる。)
その結果、自分に非はないという事がわかれば、初めて怒りの感情が出てくる。
でもそこで、「もしかして私のこれがわるかったのかな?」という箇所が
ひとつでもあれば、もう全て自分が悪かったような気になって、怒れなくなるし。
「怒るべきかどうか」の判断がつかなっちゃう。
これでは、困るのです。
[770] Re[742][740][738][737][736][734]: Re:[733] カタトニア…? 投稿者:ミサキ 投稿日:2000/06/02(Fri) 21:31
カタトニアについて質問したミサキです。
フリーラジカルさん、ペンギンさん、レスありがとうです。
今日母親に「みんなこういうのある?」ときいてみたところ、
「私はないよ」という答えが返ってきました。そうなのか。
私は子供の頃からこいうのはあったので、みんなあるものだと思っていました。
私の場合は、家事をしているときや、車の運転しているとき、
外にいるときなどに、よくそうなります。
あ、いちばん多いのは人の話を聞いてるときでした。(これがちょっと困る。)(^^;)
何かにはっきりと意識を向けているとき(集中しているとき)には、そうなりません。
運動性の障害というよりは心因性のもの、といったほうが
自分でもしっくりくるような気もします。
今のところ特にこれで問題があるわけでもないのですが、
ちょっと謎が解けたような気持ちです。(^^)ありがとうございました。
*****
いもうとさんへ。
私の妹も障害者です。(自閉症とは違いますが。)
私も、彼女のやることを何でも許してしまう母親を、複雑な気持ちで見ながら育ってきました。
(父はかなり自閉傾向の強い人だというのが私の読みで(笑)子供のやることには何の興味も示さないです。邪魔になれば怒るだけ。)
ただうちの妹はわがままながらも優しい子なので、両親よりもずっと私によくしてくれます。
だから仲はいいです。
(きっと私が年上で、彼女が年下というのも、いいのだと思います。威張られないから。)
妹の同級生の家族を見ていても思うのですが、障害者の兄弟を持っている人には、
時々ものすごくアンバランスになってしまった人がいます。
障害を持った子供のことを心配して可愛がるのもいいですが、
その端で存在を忘れられがちな他の兄弟にも
少し気を配ってあげて欲しいな、といつも思います。
[769] Re[767]: はじめまして&怒りについて 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/02(Fri) 19:36
> 特にここ一両日、Lingkoさんの文章を読んで、「あーLingkoさんは怒ってるんだなー」と思いました。めらめらとした怒りが伝わってきました。もし私が当事者でLingkoさんに直接言われたら、繭子のように「ごめんなさい」と謝ってしまうでしょう。
> でもLingkoさんが「私も怒れないんです」とおっしゃってるので
> ビックリしました。よくわかりません。
>
> そこで考えたのですが、Lingkoさんの趣旨としては、
> 不当な扱いを受けたその時その場で、相手に対して適切な怒りの
> 表現をしたいのだが、うまくできない、ということでしょうか。
んー、かなり「それ以前」の段階です。
「なんでこんな感じになるのーーーーーーーーーーー?」
「こんな身体ではいられない」
「なんでこんな世界に生まれてきてしまったの?」
「なんでこんな身体の中に生まれてきてしまったの?」
「この感覚、勝手に解消して」(本当なら「助けて」と言いたいところですが、言う相手は人間とか、人物とかではないので)
「こんな身体、いらない」
みたいな感じです。
この、死ぬほど居心地の悪い感覚は、自分の内側に原因があるのか、外から起きたことに原因があるのか、どちらなのかも、よくわかっていない。
だから、とりあえず目についたものに反応してみる。
別に表現できなくても構わないのですが、怒りを感じることができるってことは、「不当なのは相手だ」という位置づけが自分でできるってことです。
「この扱いは不当だ」というのが、モタモタと頭の中であぶなっかしい計算をするのではなく、感覚で実感できたら、安心するだろうと思うのです。
[768] 私の場合、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/02(Fri) 19:08
物を取られたら、「この人にとられた」でも「この人がとった」でもなく、「あ、ない」と感じます。
そして、「あるべきものがあるべき場所になくなった」から「悲しい」。
また、「あるべき場所にあるべきものがなくなって、景色が変わった」ので、視覚的に違和感があり、それが「不安」(異常事態だから)、「恐怖」(世界の連続性が破られたから)。
自傷は、私の場合、不安をしずめる働きがあるようです。不安はごちゃついていて対応が大変なのですが、自傷によって整頓ができます(だからといって、推奨していると思わないでください。他の人のことまで言ってるわけではありません、あくまでも私自身の経験ですから)。「人に叱られる」などの理由で自傷をがまんすると、不安はますますひどくなり、収拾がつかなくなります。
さて、物をとられたのに「あ、ない」になってしまうのは、「物があった状態」「取られている現場」「取っている人」「なくなった状態」を、それぞれバラバラに見ているからのようです。
映画やビデオじゃなくて、絵本のページやマンガのコマのように、不連続なんです。「○○さんにとられた」という、一つながりの物語として再構成するのが、負担なんです。どうしても、「ない」の絵だけに注意がとらわれてしまう。
というわけで、「とられた」という理解は、頭の中で連立方程式を解くような、人工的で、不自然な演算の結果でしかなく、イメージの保持も難しいんです。
私が「怒れない」というのは、そのせいです。なくなった悲しさやフラストレーションはあるけれど(こちらはこちらで、かんしゃくとか八つ当たりという形になる)、自傷は「ない」という景色を見たことから起きる不安に対する対処法でしかなく、怒りが内向しているとは思えません。
[767] はじめまして&怒りについて 投稿者:屁こきのブー 投稿日:2000/06/02(Fri) 19:08
はじめまして。屁こきのブーと申します。
へんなハンドルネームでごめんなさい。
ドラマについての掲示板を探していてここに行き当たりました。
「ずっと普通になりたかった」の本も買いました。
私は、発達に遅れのある学齢前の子どもと接する機会があるのですが、それを抜きにしてもみなさんの議論はとても興味深いです。
特にここ一両日、Lingkoさんの文章を読んで、「あーLingkoさんは怒ってるんだなー」と思いました。めらめらとした怒りが伝わってきました。もし私が当事者でLingkoさんに直接言われたら、繭子のように「ごめんなさい」と謝ってしまうでしょう。
でもLingkoさんが「私も怒れないんです」とおっしゃってるので
ビックリしました。よくわかりません。
そこで考えたのですが、Lingkoさんの趣旨としては、
不当な扱いを受けたその時その場で、相手に対して適切な怒りの
表現をしたいのだが、うまくできない、ということでしょうか。
それならば、私にも同じように後悔することがよくあります。
このあいだも、あるひとに電話口で、誤解に基づいた不当なクレームをつけられました。相手は言いたいことだけしゃべって電話を切りましたが私はおさまりません。でも電話の最中は、何て言ったらいいのかわからず、ただ言われるがまま。私は少し鈍いのか、自分が不当に扱われているって気づくまで間があるし、気づいたら気づいたで、頭に血が上って、感情に翻弄されてうまく言葉がでてこない。今だったら、ああ言ってこう反撃して・・・といくらでも台詞が浮かぶのです。
怒りの感情は確かに自己を主張するための原動力になるのは確かだとおもいます。でも上手にコントロールするにはどうしたらいいのかなあ。よくプロ野球で判定に抗議して怒ってる監督がいますが、あれは自軍の選手を鼓舞するためだったり、選手交代の時間稼ぎをするために、半分醒めた状態で怒って見せているのだと聞いたことがあります。やっぱり、決定的な場面に直面する前に、普段からちょっとずつ怒る練習をする必要があるのかなあ。
うーなんか言葉たらずですね。でも腹減ったので飯食ってきまーす。
[766] それに、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/02(Fri) 18:55
日ごろ、「変なことをしてはいけない(ただし、何が「変なこと」に当たるのかは自分ではわからない)」「自分の好きなことをしていてはいけないらしい」「なんでも、がまんしなければいけないらしい」と教えられているのに、
嫌なときは嫌と「言ってもいい」というのは、かなり難しい気もします。
そもそも、「これは、『嫌な感じ』というものなんだ」という判断さえ難しいわけですが、
「自分の感覚を正当と思わない訓練」を、日ごろさんざん積んでいるのですから、たとえ「もしかして嫌なのかも」と気づいても、「おかしいのはこっちの方」「嫌だと感じるのはおかしい」「きっと普通の人は平気なのに違いない」と想像する癖がついていますから。
だって、楽しい独り言を言うのは悪いこと、予定変更されてかんしゃくを起こすのは悪いこと、楽しい一人遊びに熱中して他の子と遊ばないのは悪いこと、大きい音をうるさがるのは悪いこと、気持ち悪くて食べられないものを残すのは悪いこと、
そう学んできたのに、「これは嫌がってもいい」とは気づくはずもありません。
[765] Re[764][750]: 繭子は怒らない。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/02(Fri) 18:13
> 「嫌な時は嫌っていいなさい」
> 「やめてっていいなさい」と教えていますが、むずかしいようです。
それはそうでしょう、私も「何となくオカシイ」とか「何故か分からないけれどイライラする」状態が、実は「嫌な気持ち」だったことに自分で気がつかない。
随分後になって取り返しがつかなくなってから、「どうしてこんなことなってしまったのかわからない」と思うことの連続でした。
> でも、よく考えると他人に対する怒りで、癇癪はおこさないですね。
> 自分自身のなかだけで、癇癪を起こす感じです。
だって、もともと他人と関係なく生きているので、たとえ他人のしたことに不満があっても、他人に対して怒る事は出来ません。癇癪という不満をぶちまけて、たまたまそれが誰かに当たるだけです。
上手く当事者である相手に当たれば、事態は多少改善するでしょう。
> 女の子の場合は、繭子のように、ホテルに連れ込まれても、抗議できないってことはまずいですよね。
> それ以前に、ついていっちゃうことも恐いけど。
> まだ先のことだけど、いかにもありそうで、不安です。
ありましたよ。そうするものだと思い込まされてしまったので。そして、いつまでもフラッシュバックして来ます。結局、何があっても全て自分自身を傷つける材料にしてしまうんです。
[764] Re[750]: 繭子は怒らない。 投稿者:カンガー 投稿日:2000/06/02(Fri) 17:28
うちの娘も怒りません。
抗議しない。
やめてといわない。
相手に対して、怒りをあらわにしない。
お友達の悪ふざけで、洋服をぬがされそうになっても、泣きそうな困惑した表情、あるいはへらへらした抜け殻の笑顔で(笑顔でもうれしそうではない)されるがままになっています。
これには、大きな問題があると、ずっと感じていました。
お友達に怒りの表情を見せたことがないんです。
幼稚園でもないそうです。
たまに泣くことはあるそうですが、嫌なことをされても決して怒らないそうです。
「嫌な時は嫌っていいなさい」
「やめてっていいなさい」と教えていますが、むずかしいようです。
癇癪はあります。
随分減りましたが、何か上手く出来ない時とか、急に予定を変更された時とか。
これも、怒りの一種なのでしょうから、怒らないとはいえないのかもしれませんが。
でも、よく考えると他人に対する怒りで、癇癪はおこさないですね。
自分自身のなかだけで、癇癪を起こす感じです。
自傷はありませんが、いずれでてきたらどうしようと不安になります。
おかげさまで、なぜ、ルーが怒らないのか、なぞが解けた気がします。
>
> 繭子は怒れないんですね。怒りを抑圧しているとか、遠慮しているとかではなくて、「自分」と「相手」がよくわかっていない、自他の関係が見えていないから、「怒りを感じる前段階の、下準備になるべき基本の能力」がないんですね。
なるほど.......。
さて、これからどうやって教えよう。
教えることなんて、できるのかなあ?
女の子の場合は、繭子のように、ホテルに連れ込まれても、抗議できないってことはまずいですよね。
それ以前に、ついていっちゃうことも恐いけど。
まだ先のことだけど、いかにもありそうで、不安です。
> 確かに、障害者は「怒らない」「抗議しない」方が、健常者にとって都合がいいし、健常者に愛され、保護されやすくて、生存に有利なのかもしれませんが、私は「怒り」を学習したいです。
私は、娘にはこの社会で周りの人たちに愛されて、安全に生きていって欲しいと思ってきました。
でも、ドラマを見て、「怒らない」、「抗議しない」ことが生存に有利とは限らないと思うようになりました。
是非、娘に「怒り」を学習させたいです。
[763] Re[750]: 繭子は怒らない。 投稿者:如月 投稿日:2000/06/02(Fri) 17:11
> 実は、私も怒れないんです。抗議できない。不当な目にあわされたら、抗議する代わりに自傷してしまうんです。方向を決める能力が欠けているからです。
もしも怒らなければならない時に自傷してしまうのならば、それは方向が内向きになっているだけで、立派な怒りです。臨床例を知らないので確信はありませんが、高機能自閉の男の人の場合、そういう時に自傷したりはしないはずです。男だからどうだとか、女だからどうという発想は全然ありませんが、統計的に違いが認められる事例はあると思います。
男の人の場合は方向が外向きになって、物を壊したり殴りかかったりして、怒りと理解できる形をとるはずです。そういう場面で男の人が自傷するとは到底思えません。理由は全然違いますが、男の人の書く自伝がほとんどないように、かなり根源的な理由から、女の人が怒りを外に出す形で表す可能性も低いのだろうと感じます。
敢えて怒りを外向きにする必要はないと思います。外に表すのならば、怒った理由を書いた紙をクシャクシャに握りつぶして、これでも食らえ、と紙つぶてを投げつけてやればいいんじゃないでしょうか。
[762] なんとも 投稿者:とら 投稿日:2000/06/02(Fri) 16:46
絶対手に入らないものに言い訳をつけて「手に入らない事を正当化」するのは単に私の性格かもしれませんね。本当は Lingkoさんに「そうだね怒りが取得できたら、もっと生きやすいかもね」って言えればいいんですが...ごめんなさい。
[761] うーん、 投稿者:とら 投稿日:2000/06/02(Fri) 16:38
>でもね、怒りは「毅然とした抗議」の原動力になるんじゃありません?
ちょこっと違うような気がする。「怒り」を取得しなくても直接「毅然とした抗議」そのものの方法を取得すれば良いと思うのです。仕事していてもなまじ「怒り」を持っていると、目的以外の事で抗議してしまったり、「そもそも、あなたは...」なんてなることもあるし、表現や言いまわしが悪くてその後人間関係ギクシャクしたり。
[760] 繭子はすぐ謝る 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/02(Fri) 16:29
会社ではそうでもないけど、狭山先生に対しては、謝ってばかりいる。自分にわからないものがわからないからといって謝り、自分に耐えられない感覚に耐えられないからといって謝る。
これまでの人生で、自分は悪い人間だ、だめな人間だと思い込まされてきた、その延長でしょう。
それなのに、狭山先生はそれに気づかない。繭子の自虐に気づかない。自分を否定して謝る姿に勝手に感動している。たぶん、日本じゅうで、たくさんの視聴者が感動しているのでしょう。繭子の自虐、自己否定を「美しい」と思って。
この先ストーリーがどうなっていくのかわかりませんが、仮に繭子が無理をする不自然さに気づき、ありのままの自分を生きようという風に考えを改めたら、自分の自虐を止めなかった狭山先生からは離れていくでしょう。
「私は、普通の人になることにこだわっていたんだ。私は、普通になりたいというこだわりのために、この人を利用したんだ。そしてこの人が愛していたのは、『無理をしている私』だったんだ。私たちはお互いに、利用し合っていたんだ」と悟るでしょう。
そして、「お互い様だからしかたがない」と、自分の愚かさを自覚するのでしょう。
こうして狭山先生の方も、医師として新しい経験を一つ積み、一回り成長して、患者との距離のとりかたが上手い医師になり、前の彼女の妹と結婚。
「患者が本来の自分を否定して、無理な努力をしているときには、それに気づかなければならない」というのが、狭山先生にとっての「君が教えてくれたこと」っていうのはどうでしょうかね?
[759] Re[748]: 感動の涙 投稿者:とら 投稿日:2000/06/02(Fri) 16:24
> 狭山先生は、感動した時にも涙を流すと昨日言っていましたが、あれは本当なのでしょうか。
> 私もこの頃は、夕日を見て綺麗なものだと感動するのですが、涙は出ません。他にも感動したことはありますが、涙が出たりはしません。涙が出るのは、悲しい時やかわいそうだな、と思った時です。
> かわいそうを厳密に言うと、かわいそうな誰かを見てその人のために涙が出るのではなく、そこから思い出した記憶の中の自分に対して涙が出る、というほうが正確だろうと思います。悲しい時の主体は勿論自分です。
如月さん、
感動しただけでは健常な者でもそうそうは涙はでません。感動で涙を流した事の無い人もたくさんいると思います。自然現象などで感動するのは「驚き」が大きく「共感」ではないからです。仮に涙を流すほどの感動というのが有るならそこには、他の要因が有ると思います。特別な想い出がオーバーラップしたり、ずっと努力してきた後などに、その思いがあふれてしまったり。如月さんが「かわいそう」にあてはめているように、例えば苦労を重ねて頑張った末に成功した人の話や映画などを見た場合も、結局は涙を流す人はその人に同化して、その気持ちになって泣いているのだと思います。(おそらくこれを共感というのでしょう。)
[758] 怒り 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/02(Fri) 16:12
でもね、怒りは「毅然とした抗議」の原動力になるんじゃありません? 利用されたときに、侮辱されたときに、抗議する代わりに、かんしゃくを起こすか、自傷するしかない状態を、このままでいいと思いますか?
それは、歩けないために何をされても逃げられない人にむかって、「歩けなければ交通事故にあう心配がない」と言うようなものではありませんか?
[757] Lingkoさん、 投稿者:とら 投稿日:2000/06/02(Fri) 16:05
Lingkoさん、
怒りという感情は諸悪の根元でも有ります。確かに皆に備わっていて自分に無いとしたらそれを上手く取得したいと思うのは当然だと思います。でも怒りを制御できない健常者がどんなに多い事か。この世で起こる暴力事件や離婚や退職などの何割かは往々にして、それらの抑制が効かなかったり、怒りの表現が悪い事によるものだと思います。
もし今、怒りを学習しないと使えない状況なら覚えるほどの価値は無いと思うのです。また、そう簡単に取得できて使いこなせるものでは有りません。健常者ですらほとんどのものがうまくコントロールできていないんですから...もちろん私も。
[756] 怒れない自閉者を 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/02(Fri) 15:39
「素直」「純真」と呼ぶのは、寝たきりの子どもを「走り回らないし、物を壊して回らないので助かる」と呼ぶようなものではないでしょうか。
[755] Re[747]: 場違いですが 投稿者:如月 投稿日:2000/06/02(Fri) 15:15
繭子の様に出来た弟がいる場合はあまりないと思います。親は多分子供可愛さがあって、出来るだけ家の中では好きにさせてやろうとするでしょうが、それ以外の家族にとっては迷惑であったりするものです。それ以外の家族の中には、他人の心の読めない親に対してのある程度は理解できる子供、も含まれています。
うちの父親もその手の人間だったので、周りは随分と迷惑を蒙りました。心の読めない人には二つのタイプがあって、読めていないことすらわかっていない場合と、どうして読めないのかと少し悩む場合です。読めていないことすらわかっていない場合には、本人は気楽です。冷たい人間だと頻りに周りから言われて、さすがに本人も何かを感じるのか、戸惑ったような表情にはなりますが、そういう人は冷たいも暖かいもわからないので、蛙の面に小便です。
あまり何も感じないそういう人も、外に出ればその人なりに何らかの努力はするようです。症状次第ですが、その努力はあまり報われず年月が過ぎてもその傾向はほとんど変わりません。不幸という言い方はあまり適切ではないのでしょうが、感じにくい人も結果として、不幸せらしき感覚を持つようです。
家の中で保護し続ける事は、親もだんだんと年をとっていくので、いずれできなくなります。保護され続けた人は、その後不幸せらしき感覚の中で暮らさざるを得ないでしょう。若い間は少しマシだったけれど、年をとるにつれて不幸せらしきものの中に入っていくので、平均すれば普通かなと思います。
巻き添えを食った人はどうするのでしょうか。子供の頃の出来事はもう一度やり直す訳にはいかないので、取り返しがつきません。はやりの言葉で言えばトラウマです。しかし取り返しはつかないけれど、他人の巻き添えで自分まで影響を受けたのでは癪に障ります。
自分は自分、家族であっても他人は他人、と割り切ってもそんなに非人間的なやり方ではないと思います。他人のことは考えず、自分のことだけを考えたとしても、それは正当防衛のようなもので、普通の話ではないかと思います。
[754] それから、 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/02(Fri) 15:13
みんな人に愛されるように努力をする、可愛い「自閉症」者だけを担ぎ上げようとする傾向が生まれてしまったら、そうでない人たちは以前よりもっと肩身が狭くなってしまいます。
「どうして、繭子のようになれないの!」が殺し文句にならないことを祈ります。
[753] 結局、 投稿者:Lingko 投稿日:2000/06/02(Fri) 15:01
けなげで純真で、というキャラクターしか登場しないというわけで、視聴者に「自閉の人はみんなこうなのか」と思われたら、それと比較されたら、生身の私たちは、ますます「毅然として抗議」なんてできないようになってしまいます。
[752] Re[750]: 繭子は怒らない。 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/02(Fri) 14:54
> 確かに、障害者は「怒らない」「抗議しない」方が、健常者にとって都合がいいし、健常者に愛され、保護されやすくて、生存に有利なのかもしれませんが、私は「怒り」を学習したいです。
だから、私のような癇癪持ちの「自閉症」者は、決してドラマに登場しない!
[751] Re[747]: 場違いですが 投稿者:ペンギン 投稿日:2000/06/02(Fri) 14:50
>この兄は障害柄、相手の気持ちを思いやるというスキルが欠如しているため、私は幼い頃からずっとつらい思いをしてきました。
>一番困っているのが私ということになります。兄の人を思いやらない(やれないとは思っていますが)言葉でいつも傷ついています。そういう環境だったので、私も少し精神的に不安定な人間に育っています。兄の何気ない一言にカッとなってしまい、住んでいる5階のマンションから飛び降りそうになったことも一度や二度ではありません。それは私が兄を思いやれない悪い人間だからでしょうか?いくら兄にそういうことを言っても「何を怒っているのかわからない」と言うばかりで、両親にいたっても「我慢してね。」と言うばかりです。私はこのままいくと気が変になりそうです。
>兄のつらさはよく理解できるのですが、まわりにいるいるものも辛いのです。そのことをわかっていただきたくて場違いですが書き込みました。
いえ、決して場違いではありません。通常、あんなに可愛いだけの「自閉症」者はいないし、その「自閉症」者をとりまく異性に「いとおしく」思われるばかりなんてことは決してありません。どんなに理解のある親子、兄弟でも確執があって当然です。
現に、我が家でも次男は常にアスペの長男の犠牲になってしまっています。確かに、長男は自立することすらできるかどうか心配しています。でも、人間的・精神的な危険を感じるのは、次男の方です。
「障害」のある家族の為に、他の家族が犠牲になって良いということでは決してないと思います。本当は、両方が歩み寄らなければいけないと思います。そうしない限り、真の理解にはならないはずです。
見ている限りでは、繭子は弟が来たのが「嬉しいこと」、ティアがいるのが「嬉しいこと」だと自分でわかるみたいですよね。
いくらなんでも「悲しい」を知らなかったはずはないのに(「これまで、悲しいときは「おかしいわね、何泣いてるの」と言われる一方、悲しくない状況で周囲に不用意に「悲しいのねー」という言葉を押しつけられてきたために、用語と内容のマッチングをミスっていただけなのでしょう。それが、たまたま「猫の死」は、普通の人も悲しいとわかってくれるものだったから、用語が正しくハマっただけなのでしょう)、都合よくあたかも「健常者(狭山先生)に『悲しい』を教えてもらった」かのような形になりました。
ところで、繭子は「怒らない」。
第二話で、「普通の人みたいに、喜びや、悲しみや、愛情を感じてみたい」と言っていたときにも、「怒り」は上がってきませんでした。
第5話の職場での半分パニックの時って、怒ってもいい状況だと思うのだけれど、それが困惑や悲しみになってしまって、ちゃんと「怒り」という形にならない。
人のミスを押しつけられて、利用されようとしたのに、その反応が、「自傷」っていうのは、やっぱり問題だし、釈明したり抗議したりするスキルだって身につけて行かないといけないでしょう。
でも、狭山先生は、「怒り」に言及しない。繭子も、「怒り」を学習したいと言い出さない。
繭子は怒れないんですね。怒りを抑圧しているとか、遠慮しているとかではなくて、「自分」と「相手」がよくわかっていない、自他の関係が見えていないから、「怒りを感じる前段階の、下準備になるべき基本の能力」がないんですね。
実は、私も怒れないんです。抗議できない。不当な目にあわされたら、抗議する代わりに自傷してしまうんです。方向を決める能力が欠けているからです。
そして私はそれを、とてもとてもとても問題だと思っている。
自分の感情が人と違っているのは知っているし、だけど、繭子とは違って、普通になりたいと思っていない。私はこう生まれてきたんだから、と思っている。それでも、そんな私でも、「怒り」だけは獲得したいと思う。この世界で、他人と(主に健常者と)生きて行くのに必要だから。
でも、これまでの展開を見る限り、繭子のセリフにも、慎一のセリフにも、「怒り」を覚えたいとか、教えてとか、そういう言葉は出てきません。わずかに、繭子が潤の顔を見て「怒ってる」と読みとっただけです。
もしかして、このままずっと、「怒り」は登場しないのでしょうか? 制作側はずっと、「怒り」を無視していくつもりなのでしょうか?
「怒れない」のは、とても、他人から見て、都合のいい問題です。
本当は、「怒るのに必要な、理解力が育っていない」だけなのに、「人当たりがいい」とか「人間ができている」とか「やさしい」とかいった、まちがった判断を下されます。
狭山先生に、「物がなくなるのと、命がなくなるのは違うんだ!」という、自閉者に対する最大級ともいえる無礼な言葉を投げつけられながら「何をーっ?」と思わない。
潤にキラキラのコレクションを「こんなの良くないよ」と粗末にされても、「そういう言いかたは撤回して」と怒らない。
潤に携帯電話を取り上げられたとき、私は、「おっ、いよいよ今度は『怒り』の学習かなっ!♪」と期待したのに、それっきり。怒るどころか、取られた自分の携帯に電話して「帰ってきて」だなんて!
最終回までに、「怒り」が扱われることはあるのでしょうか? それとも、やはり、都合よく避けたまま終わってしまうのでしょうか?
確かに、障害者は「怒らない」「抗議しない」方が、健常者にとって都合がいいし、健常者に愛され、保護されやすくて、生存に有利なのかもしれませんが、私は「怒り」を学習したいです。
> 自伝と呼ぶには短いけれど、半生をふり返って、短い文章にしている人はいます。書籍ではなく、ウェブサイトで。下にURLを記します。
ありがとう。ちょっと考えてみます。
狭山先生は、感動した時にも涙を流すと昨日言っていましたが、あれは本当なのでしょうか。
私もこの頃は、夕日を見て綺麗なものだと感動するのですが、涙は出ません。他にも感動したことはありますが、涙が出たりはしません。涙が出るのは、悲しい時やかわいそうだな、と思った時です。
かわいそうを厳密に言うと、かわいそうな誰かを見てその人のために涙が出るのではなく、そこから思い出した記憶の中の自分に対して涙が出る、というほうが正確だろうと思います。悲しい時の主体は勿論自分です。
だから、狭山先生は自分の涙の本当の理由を誤魔化すために、人は感動した時にも涙を流す、と言ったのかなと推測したのですが、真相はわかりません。
はじめまして。高機能自閉症(アスペ?)の兄を持つものです。ここでお話されているご本人の方や親御さんの話を聞いて、ああ、なるほどなと思う反面、親以外で一緒に暮らしている人間の話も聞いてほしいと思い、はじめて書き込みます。私の兄は専門学校を卒業して職業についていますが、私たち家族と同居しています。この兄は障害柄、相手の気持ちを思いやるというスキルが欠如しているため、私は幼い頃からずっとつらい思いをしてきました。職業先では「変人」と思われながらもなんとかやっているようです。家でも親たちは、いくら兄が困らせる言動をとっても我が子のことですから余り困ったふうにも見えません。一番困っているのが私ということになります。兄の人を思いやらない(やれないとは思っていますが)言葉でいつも傷ついています。そういう環境だったので、私も少し精神的に不安定な人間に育っています。兄の何気ない一言にカッとなってしまい、住んでいる5階のマンションから飛び降りそうになったことも一度や二度ではありません。それは私が兄を思いやれない悪い人間だからでしょうか?いくら兄にそういうことを言っても「何を怒っているのかわからない」と言うばかりで、両親にいたっても「我慢してね。」と言うばかりです。私はこのままいくと気が変になりそうです。兄は幼い頃に「自閉傾向」という診断を受けましたが、ずっと普通に専門学校を卒業しました。今24歳です。私は20歳の大学生の女性です。ここを見ていると、兄のつらさはよく理解できるのですが、まわりにいるいるものも辛いのです。そのことをわかっていただきたくて場違いですが書き込みました。私は繭子の会社のいじわるな女性の気持ちがよくわかります。彼女はけっしていじわるではありません。彼女も人の怒らないことにでも腹がたってしまう、そういう人なのです。なぜ繭子ばかりが保護されて、そういう気質の彼女が悪く言われるのか・・・。それこそ繭子を差別していませんか。みんなひとりづつ違っていいのでしょ?うちの家でも兄は保護されて、もっと普通に見える私の心などだれもわかろうとしてくれません。
国際治療教育研究所セミナーの案内用パンフから。
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「高機能自閉症の人からの提言」 ドナ・ウィリアムズ女史
主 催 国際治療教育研究所
後 援 (社)日本自閉症協会 (財)日本知的障害者愛護協会
全国情緒障害教育研究会 全国特殊教育推進連盟
【東京会場】2000年8月6日(日) 九段会館ホール 地下鉄「九段下」下車
【大阪会場】2000年8月9日(水) 朝日生命ホール 地下鉄「淀屋橋」下車
プログラム
09:15〜10:00 受 付
10:00〜10:30 講師の紹介と導入 佐々木正美(東京) 竹田契一(大阪)
10:30〜17:00 ドナ・ウィリアムズ(Donna Williams)女史のプレゼンテ
ーション及び質疑応答
17:00〜18:00 まとめと質疑応答 佐々木正美(東京) 竹田契一(大阪)
佐々木正美(川崎医療福祉大教授) 竹田契一(大阪教育大教授)
受講料 12,000円
問い合せ 国際治療教育研究所 〒107-0052
港区赤坂2-21-15 赤坂OSビル1階
TEL 03-3586-3240 FAX 03-3505-2959
E-mail:iiet@msb.biglobe.ne.jp
エドガー・シュナイダーっていう人は本出してますが(未邦訳)、
自伝形式にはなってないですね。テーマごとの短文の集成です。
自伝と呼ぶには短いけれど、半生をふり返って、短い文章にしている人はいます。書籍ではなく、ウェブサイトで。下にURLを記します。http://web.archive.org/web/20011006195202/http://www.mindspring.com/~dspicer/tale.html
文章解読能力の低さはなかなか実感できないと思うので幾つか例をあげます。
> TBSの山崎プロデューサ、本当に感謝しています。
仮に↑のような文章を普通の状態で読んでいると、私の場合主語は自動的に、TBSの山崎プロデューサになります。良く考えると、感謝しているのは書いている人だ、とわかるのですが、他の文章との矛盾が出てこない限り、山崎プロデューサが感謝している、と理解して、覚える時も当然そのように覚えてしまいます。
この間違いの訂正は、他の文章とのはっきりとした矛盾が出てこない限り、出来ません。矛盾が出て来ると、もう一度読み直し、筋の通る解釈は何だろうかと考え始めて、ああこれが違うと間違いに気付くのです。
ですから、新聞の様に簡潔な表現の文章でも、読んでいる途中で意味がおかしくなって、何度も前の方を読み返したりします。はっきりとした矛盾が出て来る場合はそんなに多くないはずなので、相当な数の読み間違いがあるはずです。
それからもう一つかなり愕然とした間違いがあります。さだまさしに「元気でいるか、お金はあるか、今度いつ帰る」という、親からの手紙の歌詞が出てくる曲があります。その曲の中で「お袋に聞かせてやってくれ」という所があるので、私は当然書いたのは母親だと思っていました。
紅白歌合戦で、さだまさしがこの曲を歌ったことがあり、その時司会者が父親からの手紙と紹介したので、この人はNHKのアナウンサーのくせにとんでもないことを言うな、と思いました。けれども良く聞いてみると、これは母親からの手紙ではありえないとわかって、おもわず唸ってしまいました。
小学校の2,3年生ならば、もう間違えないぐらいの問題だろうなと思いました。父親からの手紙というヒントがあったので、間違いに気付きましたが、ヒントがなければ何回聞いてもわからないでしょう。
口で言われたとすれば、山崎プロデューサの方は「、」の所で少しの間が空くはずなので、それがヒントになって多分間違えないと思います。さだまさしの方はヒントがなければ、何度聞いてもわからないでしょう。この程度の文章解読能力なので、何かを読んでの反応は、話している時よりも遥かにトンチンカンな場合が多いだろうなと思います。
余程の矛盾が出ない限り間違いに気付かないので、これに起因する誤解は相当あるだろうと思っています。思ったとしても、解読能力の向上はこの年になってもほとんどありませんので、なるべく小さな矛盾にも気付くように集中力をつけるしか手がありません。いい年をした大人の話とは思えませんが、本当にこの程度の文章解読能力しかないのです。
幼稚園に出掛ける緊張を無意識のうちに感じて、逃避しているのかもしれません。
> 無理に止めさせたいわけではないのですが、
> 毎朝食時に幼稚園に行くのに時間がないというのに
> 食卓で固まっているので、
まあ、とりあえずお楽しみはお楽しみとして、時間に間に合うように「お〜い」と呼びかけてあげればいいのではないでしょうか?
「世の中」のお付き合いも大切なので。
> ドナ・ウィリアムさん、テンプル・グランディンさん、その他日本の方もそうなのですが、私が出会った「ご本人が書いた本」は女性のものばかりで、やはり女性のほうが会話というコミュニケーション方法を強いられるために、文章力も強いのでは無いかと・・。違うのかもしれませんが。
私の知る限りでも、邦訳されているもので男の人の書いたものはありません。数的には男の人のほうが4,5倍多く、高機能自閉に限定すればその比率は更に上がると言われていますので、何かの理由があると思います。
自分の直感からいけばそれはある程度当然で、男の人が書くと断片的なものにはなっても、自伝のような形にはならないからです。テンプル・グランディンの「Tinking In Pictures」の様に、幾つかのテーマに対して自分の考えを書くという形ならば、ありえると思います。邦訳されていないものの中には幾つかあるようなので、どんな形のものか興味があります。
それに自伝となると内情の暴露になる部分もあるので、それを無意識的に嫌がる所もあると思います。瀬戸内寂聴さんの作品の中には、かなり内情暴露的なものがありますが、男の作家のそういう作品はあまりないと思います。仮にあったとしても、都合の悪い部分はまず書かず、真実の度合いがかなり違うと思います。
私の文章解読能力は信じられない程にひどいもので、あまり小説も読みませんが、その傾向はあるだろうな、と思っています。
それから、ドナ・ウィリアムズの本の中に、彼女の弟はかつて同じ世界の人間に見えたのに、彼が大人になってから再会すると、半分ぐらいは普通になっていて失望した、と書いてあります。男の人の方が、この普通になってしまおうとする度合いが強く、本当の自分を殺してでも普通になりきってしまう人が、かなりいると思います。
男の人は洋の東西を問わず、結構世間体や男らしさというものを気にしていて、前の社会党の党首の様に、ダメなものはダメと言い切れない所があります。男の人がダメなものはダメと言った場面は、あまり思い浮かばず、ダメなものはダメ、イヤなものはイヤ、と言い切れる度合いは、遥かに女の人の方が高いと思います。
高機能自閉で書ける可能性のある男の人は、普通になる道の方を選ぶだろうな、とも思うのです。
> だったら、木が風でそよいでいるのを見ているのでは。
> 私も、これは大好きです。特に雨の日などは、雨垂れが葉っぱに落ちて面白い動きをしているのをボケ〜ッと眺めていると、幸せな気分になれますが…。
これは
1.カタトニア?
2.自閉傾向の人が好む特徴的なもの?
3.個性の範囲の趣味?
無理に止めさせたいわけではないのですが、
毎朝食時に幼稚園に行くのに時間がないというのに
食卓で固まっているので、
3なら食事をするまで止めさせるけど1とか2なら
「憩いのひととき」を奪うのは可哀相かと思ったものですから。
> 「上を見たらキリがない」みたいなこと言われると、「暮らしやすい環境を作ろう」としてる人はワガママのバカみたいに見えてきちゃって元気出ないっす。
ぐはぁ。(泣)
そんなことを言いたいわけじゃないのに、うまく伝わらないのがもどかしい。
俺はただ「こんな子でかわいそう」だなんて思われたくないだけなんです。
ドラマってよほどのことがないと「これが新しい”かわいそうな人”なのだ」
ってふうにしか受け取られないじゃないですか。
<新しいかわいそうな人>のカテゴリを、世のはやりで次から次へと取替えて
「私はかわいそうな人に同情する良い人」ヅラの連中が増えたってイヤなんです。
それは俺の勝手な思い込みなのかもしれんけど。
「めくらの次はツンボでその次は白痴、今度は自閉症が今はやりのかわいそうな
人」(あえてこう書きます)って銭勘定で取り上げられたって、そのはやりが廃
れた後も俺達はこの先ずっとこういうシンドイ不便と付き合っていく。
そのしんどさと付き合うには、不便は不便以上でも以下でもないってことを
自分自身も俺のコゾウも受け入れるのが割り切るコツなんじゃないか、ってコト
なんですよ。。。
> もちろん外で特別何か変わった事が起きている様子では有りません。
> あえていうなら、木が風でそよいでいるくらいです。
だったら、木が風でそよいでいるのを見ているのでは。
私も、これは大好きです。特に雨の日などは、雨垂れが葉っぱに落ちて面白い動きをしているのをボケ〜ッと眺めていると、幸せな気分になれますが…。
子供の事ですが、食事中に外をボーっと眺めて、
食事をしなくなり、わざと視線の先に入ると、
顔を動かして私をよけて、それでも外を見ようとするのは?
もちろん外で特別何か変わった事が起きている様子では有りません。
あえていうなら、木が風でそよいでいるくらいです。
> 私は経験上は食事中が多いです。突然ギョロ目になって固まるので、
こういう、日常的な動作が理由もなく突然止まるのは、カタトニアだと思います。
> 私も時々動きが固まる…というか、
> ボーッとしてしまう時があります。
> キーワードなども必要なく、
> その状態に自分で気づいてやばいと思えば
> すぐに任意で戻ってこれるのですが、
記述された症状だけで共通するところだけを拾いたくなってしまう気持ちは分かりますが、カタトニアというのはチックと同じように純粋に運動性の障害です。
心因性のものはうつ状態の現れの可能性もあるのではないでしょうか?
それから、以前問題になった件ですが。長く続くカタトニアというのもあるそうです。
偉いお医者さんが何を「カタトニア」と呼んでるのか、知りませんが、私の「カタトニア」とミサキさんの「カタトニア」は同じもののような気がします。
機能の一時停止、視線が動かない、そして極めつけは「ヤバイ」と感じること、この3点が「そうそう」と思えました。
またコンピュータの喩えで恐縮ですが、キータッチを速くやりすぎて画面が「フリーズ」すること、ありますよね。あんな感じかな。「ちょーーっと、待ったあーー!」みたいな感覚。
私は経験上は食事中が多いです。突然ギョロ目になって固まるので、トモダチに笑われます。笑われるということを鑑みれば、他の人には起きないらしいですねえ。
こんにちは、はじめて書き込みします。
ドラマの事とも掲示板の流れとも
はずれた話で申し訳ないのですが、
以前こちらで「カタトニア」のことが
話題になっていたので、
それについてちょっと質問があります。
私も時々動きが固まる…というか、
ボーッとしてしまう時があります。
思考もほとんど止まって(頭の中が
スローモーションに間延びしたようになるんです)
機能の一時停止、という感じです。
ふつうのボーッとする感じとちょっと違うのは、
視線を動かす気に、どうしてもなれないところです。
ただボーッとしている時は、視線くらいは動くので。
キーワードなども必要なく、
その状態に自分で気づいてやばいと思えば
すぐに任意で戻ってこれるのですが、
時々「これはなんだろう?」と思うときがあります。
こういうのも、カタトニアというのでしょうか?
それともみんなにある事ですか?
私は左利きなので、世の中便利になればなるほど、活き難くなっています。
ほとんどの人に効率がいいように機械でもなんでも作られていますが、肝心なところが使い辛くなるのです。
駅の自動改札なんか、私はラッシュアワーの時間は使いたくないもののひとつです。
それじゃなくても、周りのペースに合わせるのが難しいうえ、切符なんていう大事なものを意識の不確かな右手に持たせておくわけにはいかず、あんなスピードであんなに小さい入り口に歩いたまま切符を入れ、立ち止まらずに出でくる切符をつかまなくてはいけないなんて至難の技です。
以前はお財布からのお金の出し入れがどうしてもうまくできなかったのですが、左利き用のお財布を使い始めてから、小銭がすぐにこぼれてしまうということが無くなり、人前で恥をかく機会が減りました。
例を挙げればきりがないですが、左利きみたいに自閉症も少数派として世間に認めてもらえれば、私のお財布みたいになにかしら、自閉症であることを不便に感じない生活がおくれるようになるのではないでしょうか。そのためにも今回のドラマには頑張ってもらいたいです。
私としては昔から全体の1割という少数派に属してましたから、それが1千人に何人の少数派になろうが特に関係無く、左利きも自閉症スペクトルも私という人格を作る強烈なる個性だと思っています。
銀行強盗にされてしまった人というのは、アメリカの話で、事情を知った真犯人が怒って名乗り出て助かったとか。
特に不穏当な部分だけをカットして再投稿します。
====================
自然災害などで避難しなければならないとき、
救急医療を受けなければならないとき、
警察に怪しまれて職務質問されたとき、
そういった非常の際には、私たちはたちまち、危険にさらされます。
(略)
警察官の質問に、意味もわからないで「はい、はい」と言っているうちに、やってもいない銀行強盗の犯人にされてしまった人もいました。
(略)
気の滅入る話ばかりではなく、少しは良い話もしましょうか。
一昨年、とある自閉者のキャンプで、ある男性がてんかん発作で呼吸困難に陥り、病院に運ばなければならないことになりました。でも、彼本人を始め、キャンプには聴覚過敏のある人々が大勢います。
みんなが何も説明しなかったら、救急車がサイレンを鳴らしてやってきたでしょう。そんなことになっていたら、彼は亡くなっていたかもしれません。
きちんと説明したおかげで、静かに彼を病院まで運ぶことができたのです。
あるいは、北米にはソーシャルシグドッグ(対人シグナル読み取り介助犬)を連れている自閉者が何人かいます。でも、ソーシャルシグドッグは、まだ介助犬として認知されていません。レストランに入店を断られたり、飛行機への搭乗を断られたりしています。これだって、これからの課題です。
やることは、これからだって、まだまだあるんです。
自閉症の人のための介助犬というのは、知らなかったので、
目からうろこでした。
今回の有珠山もそうですが、阪神大震災の避難所の様子を見ていて
自閉症の人、特に子どもたちはどうしているのか、本当に心配になりました。
って、いいじゃないですか
暮らしにくい人が、暮らしやすくしたいとおもうのは、
少数派でも、認められていいとおもいますし、
ちょっとぐらい、余計な贅沢をもとめるのも
いいとおもいます
もちろんその前に、非常事態での安全を確保する方が
急務なのでしょうが
繭子がたとえ、狭山先生に愛されていなくても
同じような支えが得られるようにならないと、、、
あ、これは、ドラマに、いちゃもんをつけているのでは
ありません
ドラマは、どらまですから
少数派の暮らしにくさが、無視されてしまうことに
慣れてしまっている事の方が、よほど、こわいですよ
そういう世の中で、もし、自分が少数派になったときの
不安が逆に、少数派のひとの差別につながるような
気もするのです
いじめられている子を無視するのは、いつ、自分が
いじめられる方にまわるかという、不安のせいだ
と言う悪循環があるでしょう
少数派が贅沢を(程度もんだいですから、つっこまないで
ください)いえる世の中の方が、多数派だって
絶対くらしやすいでしょう
「よけいな贅沢を言わずに、与えられた範囲内で日常を楽しんで生活する」っていうのと、
「どんなときでも(非常時でも)、そしてどんな仲間でも(とても行動障害の重い同胞たちや、とても言語能力の低い同胞たちでも)安全に暮らせる社会に少しでも近づけるために努力を怠らない」っていうのは、けっして矛盾した概念ではないってことです。
私は比較的、贅沢を言わずに「手元にある物で楽しめる」方ですが、それでもやはり、文句は言う。
それに、いくら安楽で快適な生活でも屈辱的な扱いはイヤなの。恩恵として与えられ、守られるのはイヤなの。「これは『保護』です」「『恩典』です」って言われると、突き返したくなっちゃう。「当然の権利」としてじゃないと、受け取るのイヤなの。
だからどうしても、(繭子や輝さんと違って)可愛くない障害者になってしまいます。健常者に愛されるアンクルトムにはなれないし、ポスターチャイルドにもなれない。スーパーヒーローにもなれない。お手本になるのもいや。
これからも、すてきな「嫌われる障害者」めざして、お仕事がんばります(はあと)
いえ、「救急車」の話なんか、超聴覚過敏の私は身につまされました。最近、家の前を消防車が何台も通っていったときに心臓停止しそうなくらいでしたから。時々本当に音が原因で死ぬんじゃないか、と思うことがあります。
個人的には「警察」と「税務署」は要注意だと思っています。アイ・コンタクトができないこと、話し言葉の理解が悪いこと、質問をされたときに「質問の意味は分かりました」というつもりで「ハイ」と答えてしまうこと(←治らない)、は、とんでもない結果を招きそうです。
きのうの、「火事」とか「救急車」とか「介助犬」とかの話は、えらそうすぎるっていうか、縁起でもないっていうか、読む人を不愉快にさせると思うので削除しました。
まあとにかく、少数派っていうのは、平時には比較的安全に暮らしていられても、非常時に弱いんです。
平時に、個人的に、主観的に幸福を感じているのも大切だけど、「上を見たらキリがない」みたいなこと言われると、「暮らしやすい環境を作ろう」としてる人はワガママのバカみたいに見えてきちゃって元気出ないっす。
先日、妻と話をして、事実関係が少しばかり判りましたので、報告させていただきます。
母親三人の観察・・・と書きましたが、妻は直接会ったことはないそうです。
ただ、後の二人の話では、言葉も出ているし、その子の母親はまったく気にしていない様子らしいです。ちなみにその子の姉と、うちの長男が小2の同じクラスで、妻とその子の母親は知り合いらしいですが、妻曰く、かなり勝ち気なお母さんで、迂闊に子供のことを話題にしたら、「うちの子に難癖つけるんですか」と逆上しそうなタイプだそうです。
もうじき3歳児検診があるから、それで引っかかってからの方が良いんじゃない。と言うのが妻の意見でした。
私も妻の意見に納得しました。
伝聞ばっかりのあやふやな話で色々ご心配いただいて申し訳ありませんでした。
ただ、親を始め、周りの人間の無知で自閉症の子供が過度に虐げられていることもあるのではないかと思うとやはり気になります。
児童虐待のニュースを聞く度に、もしかして犠牲者は・・・と思ってしまいます。
我が子の将来を考えても、もっと自閉症について理解が広がっていくことを願わずにはいられません。その意味で、このドラマが良い方向へのきっかけになってくれればと祈っています。
普通の人の仕様に合わせて設計されています。
主観的に幸福を感じるかどうかではなく、
「不便」というレベルで。
私は、聴覚は過敏なのに、話し言葉の聞きとり・理解は苦手です。
聞いてすぐにはわからず、頭の中で再生して、ゆっくり解釈しようとしたりします。
そうやって返答に間があくと、
ほとんどの「知らない人」(警察官、駅員、銀行員など)は、
大きな声でくり返してくれます。
人によっては、近寄って耳元で言おうとする人も。
「話し言葉の理解に時間がかかることがありますが
耳は不自由ではありません。
大きな声はかえって聞きとりにくいので、
普通の声で話してください」
と書いたカードを持ち歩いていましたが、
見せても、あまり見てくれない人が多いし、
不思議なことに、これを見せてもなお、大声をやめない人も少なくありません。
そういう意味では、
世界は「普通の人の普通の感覚」(言われてわからないのは、難聴なのだろう)を中心に動いているといえます。
> この世の中は普通の人を中心に回っているのは事実だけど
そりは違うと思うよ。
世の中は自分を中心に回っているんじゃないでしょうか。
あなたが生きにくいように、他の人も生きにくい。
あなたが楽しく感じることがあったとしたら、それはあなただけの権利
であって、誰からか指図されてそう思わされているわけじゃない。
生きにくいのと不幸とは違うし、不自由と不便とは違う。
世の中にインドの国家予算と同じくらいの資産を持っている人がい
ますけど、それを見て自分はなんて不幸なんだろうって考えるのはばか
ばかしいじゃないですか。
たしかに、こういうカテゴリの人がいる、というのが知られれば、
ちょっと便利にはなるかもしれないです。説明が不用になりますから。
でも、「オタク」という人種が世間に知られたからって、オタクの子
がのびのび振る舞えるようになったかを見れば、一目瞭然。
あー、こういう書き方をすると誤解を生むかもしれませんが。うまく言えないけど。
世間に知られようが知られまいが、俺は幸福だし、俺のコゾウもきっ
と幸福だと思っているだろうし、これからもその幸福は変わらないと思
うんだよね。
あ。このBBSに出会って幸福度はさらにアップしましたけど。
(その意味ではドラマが結んだ縁ってことで、ドラマがあって良かった
ね、とは思いますにゃぁ)
自分が自閉症と知らずに生きている人だっていますよね。
生きにくさをなんとなく感じていてという人。
この世の中は普通の人を中心に回っているのは事実だけど
自閉症であるにしろ、ないにしろ
こういう人達もいるんだという事は分かってほしいなぁ・・・。
繭子のドラマはそんな面で、一般の今まで自閉症を知らなかった人達から
注目をされているようです。
「こんな障害だったんだ・・・・」「感動させられる」「考えさせられる」
↑ここからなので、実際きついけれど。
でもドラマが布石にはなりそうです。
TBSの山崎プロデューサ、本当に感謝しています。
私は毎回テレビの前で微動だにしないで見ています。
(ここに来られている方なら分かってくれます?)
キャラとしての繭子は『極端すぎるのでは?(こんなこと彼女なら今まで知らないはずは無い・・・)』
と思う事も有るのですが、彼女は自閉症の代表なので・・・と思って黙っています。
しかし・・・繭子の「自閉症と知ってから」の生活は知る前からは
変わったのだろうな。
> それと丁度入れ替わるように意識し始めたのは、はたして自分は本当に思っている事を話したり書いたり出来るのだろうか、という疑問です。書けない話せないが当たり前で、どうして他の人は自分の考えを書いたり出来るのだろうか、が長年の疑問でしたから。
> 又、顰蹙を買うのだろうなあと思いつつ、でも誰かの参考にはなるかもしれないなという気持ちと、本当に書けるのだろうかを確かめずにはいられない利己的な気持ちの両方があるので、BBSに投稿するのです。多分信じられないでしょうが、100%本当の話です。
少し話題がずれるかもしれませんが。
実は前々から思っていたのですが・・・
ドナ・ウィリアムさん、テンプル・グランディンさん、その他日本の方もそうなのですが、私が出会った「ご本人が書いた本」は女性のものばかりで、やはり女性のほうが会話というコミュニケーション方法を強いられるために、文章力も強いのでは無いかと・・。違うのかもしれませんが。
如月さんはいつもとても端的に、分析しつつ書いてくださいますね。
とてもとても参考になります。
男の方がこれだけの文章をきちんと書いてくださると、それだけで嬉しくなってしまいます。長男は比較的文章の方もかける方だとは思いますが、やはり「これでいい?」と
誰かに確認をしてからでないと書けません。
本当に自分の思っていること、考えを文章にするというのは難しいことのようですね。
これからも確認作業でもかまいません、たくさん書いてください!
> 最初の会社を辞めた時に、もうヘラヘラ笑いや課長もう一杯というのは止めて、俺は職人のエンジニアだ、結果を出せば文句はないだろう、の路線で行く事に決めました。
うちのコゾウがナンギな人生(「苦労」という語感とはちょっと違う)
を歩むだろうことは小学校5年のいまの様子からもうかがえます。
サラリーマンみたいな細かい人間関係が必要な仕事じゃなくって、職人
のような職業についてくれたらいいなと思っています。
彼は彼なりに彼の人生を生きていくんですから、それなりに自立できる
生活ができるようになりゃそれでいいです。
でもまあ、こういうのって、誰にもあてはまることなんだけどね。
> 実は私も、猫の生態を詳しく聞けば聞くほど、自分にそっくりだなと思っているのです。
俺も猫好きですが、コゾウも猫好きです。
SF作家と分裂病者には猫好きが多く、推理作家と鬱病者には犬好きが多
いそうですけど、なんか自閉症にも関係があるんですかね。
(あっても不思議はないけど)
ああ、俺も生まれ変わったらりっぱな猫に生まれたいニャァ。
私も切れば血が出る生身の体なので、自分はおかしいのかな、と随分悩んだ時期がありました。その頃かなり意識的にやっていたのは、自分の書いた筋書き通りに物事が運ぶのならば、自分は正常であるという証明方法でした。電気のエンジニアが主な仕事ですので、設計した回路やプログラム等が正しく動作すれば、よし自分は大丈夫だ、と納得できたのです。自己否定に陥りにくい性格でも、こんな確認を常にしていないと不安になったのでしょう。相当しつこくやっていました。これをやれば仕事のほうも良い結果になるので、一石二鳥ではありました。
最近は、これをほとんど意識しなくなり何故かなと考えると、95年に自閉症の正確な症状を知ってから、自分はおかしい訳ではないのだと安心できたので、証明の必要がなくなったからなのだ、と気付きました。今では、少数派ではあるけれど、変でもおかしいわけでもない、と言い切れるので、自己否定の可能性はゼロになりました。そこから来る副作用もあるので、良いことばかりではありませんが。
それと丁度入れ替わるように意識し始めたのは、はたして自分は本当に思っている事を話したり書いたり出来るのだろうか、という疑問です。書けない話せないが当たり前で、どうして他の人は自分の考えを書いたり出来るのだろうか、が長年の疑問でしたから。
又、顰蹙を買うのだろうなあと思いつつ、でも誰かの参考にはなるかもしれないなという気持ちと、本当に書けるのだろうかを確かめずにはいられない利己的な気持ちの両方があるので、BBSに投稿するのです。多分信じられないでしょうが、100%本当の話です。
鈍感とはいえ不安はあるので、証明しなければならない内容は変化しても、確認作業は未だに必要です。私程に鈍くなければ、不安感はもっと強くて大変だろうなと思います。
私も最初の会社は、周りに合わせろと言われて、それは死ねという事だな、と悟ったので辞めました。その時に、協調性とかチームワークという言葉も一緒に捨てました。そこをつつかれると、自分の存在を否定するしかないので、言われると無言になるしかありません。捨ててしまっても何とかなる仕事をしていたので、それは幸運でした。しかし、そういう立場にない人には、ただただ申し訳ないなと思うばかりです。
http://web.archive.org/web/20011006195202/http://www.mdn.ne.jp/~tukahara/wwwboard/messages/877.html
と、ゆう掲示板のところにアメリカに住んでる
日本人で自閉症の子ども教育のこと詳しく説明してありますhttp://web.archive.org/web/20011006195202/http://www.mdn.ne.jp/~tukahara/wwwboard/messages/877.html
私もかなり鈍感な方だと思います。「おまえは変わっている」「あなたって変わってるわね」という言葉だけだったら、「私は人と違う」という事実を受け止めるだけで、私も自己否定まではしなかったと思います。ところが「そんなことも分からないの?」「肝心なことが分かっていない」と何人もの人に言われると、さすがにコタえます。そんなことは人に言うもんじゃない」とか、「あんな言い方はなかっただろう」とか言われて、「なぜ言っちゃいけないのか」「どんな言い方ならいいのか」としつこく食い下がり、「あなたはロボットなの?」と言われたこともあります。そのときに相手が辟易としていたのも、(「うんざり」という表情は何度も見ているので)分かります。(でも私のこの疑問に答えてくれる人はいなかった。少なくとも最近までは。)
正直に書きます。私は前の会社で「人の気持ちが分からない」ために退職に追い込まれました。社長には「仕事がいくらできたってダメなんだ。会社はチームプレーなんだから。理屈じゃないんだ。」と言われました。私の「人間不信」は、正確に言えば、そして非自閉の人の定義で言えば「自分不信」なのでしょう。
「自閉症」そのものに「自己否定」の要因があるのではなく、合併症の重さいかんにかかっているのだと思います。
「不安障害」が重くてパニックや恐怖症があると、基本的な感情が「不安」や「恐怖」になってしまいます。
「気分障害」が重くてうつ状態になりやすいと、自分を否定する方向に容易に走ります。
私の場合は、感覚的な過敏症はひどくないので、繭子のように視覚や聴覚の情報で混乱することはあまりありません。けれど、人と接触した記憶がすべてフラッシュバックして来るので日常生活全般が「苦しさ」に直結しています。
私の場合、もともとの「自閉症」だけならとっても明るくて脳天気な世界です。「自分の世界」にいられる限り、安定していられます。でも、「心の理論」を獲得して自分の周囲に「人」がいることに気づいて以来、基本感情が「不安」と「恐怖」になってしまいました。
それで、完全に「自己否定」してしまいました。
私は精神的にはかなり鈍感に出来ていて、この鈍感のお陰で随分と助かっている部分が沢山あります。言葉がうまく通じていないと感じるのは日常茶飯事で、子供の頃から慣れっこになっていますが、やはり気持ちの良いものではなく、疎外感はあります。普通はこの疎外感や孤立感が、自分はおかしいのではないかという自己否定につながり、自らの影に怯えるようにどんどんと自己否定が自己否定を呼んで、心のバランスを崩してしまったりするものです。
けれども、私の精神構造はそんなふうには出来ていません。疎外感は間違いのない事実ではあるけれど、それを元にして自分を否定してしまう想像力に欠けているので、ほとんど自己否定には陥りません。自分をおかしいのではと考えるのは、疎外という事実ではなく、感情や主観に属する部分なので、それらの間に大きな壁があってほとんど両者に干渉のない私の場合、自分はおかしいのではないか、とは考えないのです。
他人であれば、確かに孤立しているかもしれないけれど、だからといってそれはあなたに問題があるという事を意味しない、と忠告するでしょう。孤立は事実であっても、自分がおかしいと思うことは主観であって事実ではないので、他人であれば両者を客観的に区別して、そう忠告します。私の場合は、他人の力を借りるまでもなく、他人並に両者が遠い存在なので、孤立は事実であるけれど、自分がおかしいという方は事実ではなく一つの考えに過ぎない、と客観的に見ます。
普通は縦横につながった状態で存在している心の内部構造が、縦のつながりはあっても横のつながりはないような形なので、自分自身を客観的に見てしまいます。自閉症スペクトルに関る人は、本来ならば縦横のつながりを持っているはずの心が、あまり相互のつながりを持たない状態になっている場合が多い、と思います。縦横の無数のつながりが、コンピューターにはできない曖昧な判断を可能にしているのだ、と思います。
つながりの少なさは物事の一般化を難しくしたりしますが、利点があるとすれば、つながりのなさからくる想像力の欠如が、自らの作り出した幻影におびえさせたりしないことです。悪循環に陥るための核になるものが、とても乏しいので、自己否定は大きくなる前にバラバラになって、有害な大きさにはなりません。
少なくとも自分の鈍感さはその精神構造からくるものだと思っています。繭子や美咲を見ていると、精神的に脆そうで外には出さず家の中に保護しておきたいと思うのは、常識的には人情だと思います。しかし、私の考えでは、彼女達にも個人差があっても、想像力は乏しいので、疎外感が自己否定につながる可能性は、普通の人よりは少ないと思っています。そうでもなければ、彼女達は疎外感に押しつぶされて、あまり長くは生き延びられないだろう、とも思います。
そんな鈍感な私でも、仮に繭子のように井沢という人間と問題が起きると、仕事を下ろされる前にもう会社には行けなくなります。目の前にその人物が座っている環境には、絶対に耐えられませんので、会社には彼がいる限り行きません。彼には完全なXがつくからです。実は、井沢と書くだけでもかなり嫌なのです。
しかしXがつくのは井沢という人間だけなので、他の人間に対してXがついたりはしません。一般化が難しい精神構造なので、人間全体にXをつけるためには、全ての人間に一つ一つXをつけていかなくてはならないので、それが元で人間不信になったりはしません。一人の個人に対しては絶対的なXをつけますが、その事実が他のものに影響を与える可能性はほとんどありません。だから私の場合、それで会社を辞めたとしても、Xが一つ増えるだけで、周りが心配する程の他への悪影響はありません。
個人差は勿論大きいのですが、一般的な傾向として普通の人よりは自閉の人のほうが、そんな精神的強さを持っていると思います。ちょっと問題があった程度で会社まで辞めてしまうと、過保護にしないと精神的に持たないのではないかと考えがちですが、そうではない部分もあるのです。そう考えているので、過保護にするよりは放り出すぐらいのほうが良い、という考えになるのだと思います。勿論それは最後の砦のようなものなので、ある程度の配慮が要るのは当然のことです。
ドナ・ウィリアムズや最近出版されたグニラ・ガーランドの自伝では、かなり苛酷な環境が少し醒めた他人事のような雰囲気で書かれています。この辺りも、自分をどうしても他人事のように客観化してしまう特性がそうさせていて、精神的に参ってしまう可能性は非自閉の人よりも少ないのだろう、と思うのです。
はじめまして。ドラマ開始前からずっと読ませていただいています。
みなさんの書かれる内容がとても参考になるので、
逃してなるものか!と、1日に2回はのぞいてます。
私自身は、診断名などがつくほどではなさそうですが、
スペクトルのどこかにひっかかってるなあと思ってます。
> 普通の人は、心が直接障害物にぶつからないような楯を持っていて、そこで悪意や皮肉を撥ね返しているようです。
というよりも、いわゆる普通の人は、障害物を見ることができるので、
自分である程度受けたりよけたりできるんじゃないかと思うんですよ。
(すみません、ケチつけたいわけじゃないんですが・・・)
多対多でドッヂボールをやってるんだけど、スペクトル上にいる人はルールを知らない、ボールが見えない、
そもそもドッヂボールのフィールドに自分がいることすらわかっていない、
そんな感じでしょうか。
いわゆる普通の人たちは、ルールも承知してて、ボールも見えるから、
投げたり、受けたり、投げ返したりよけたりできる。
受け方がヘタクソだと、やっぱり痛いんだけど、
作戦を立ててやり返したり、適度な強さでキャッチボールを楽しむこともできる。
私もこのやりとりがすごく下手で、
突然集中攻撃されたり、投げたつもりじゃない人にボールがあたっちゃったり、
ということが、子どものころからしょっちゅうです。
(実際のチームプレーもダメ。フォーメーションとか作戦とかがどうしても理解できません)
でも、いわゆる普通の人でも、すべてのボールが見えてるわけじゃない。
今の戦況がどうなってるか、必ずしもわかってない。
ルールも、ひとりひとり少しずつ違ったふうに思いこんでたりする。
「普通の人」だって、そんなに確固としてるようには思えないんです。
本質的には「個人差」なんだって言いきってしまいたい。
みんながお互いの事をそう思えれば、とってもラクそう。
> だから時と場合によっては、天使に見えたりもするのでしょう。悪意のない天上にいるからこそ天使も天使でいられるけれど、地上に落ちた天使はどうしますか。丸見えを隠すために心を閉ざし外には出ないか、破れ傘をさして雨の中に飛び出すか、猫かぶりの術を会得するか。どれも一長一短ですね。
でも現実は、ルールもわからないでうろうろしてる数少ない人は、格好の標的になってしまったりするんですよね・・・。
痛い思いだけはするけど、なぜそんな思いをしてしまったのかわかるチャンスがなかなかない。
「普通の人」は、、おのおの、自分がこうだと思いこんでいるルールが唯一無二だと信じ込んでいることが多いから、
そもそも「フィールド上にいることがわかってない人がいる」などという可能性は、想像もできないのではないでしょうか。
ですから、フィールドのことやルールのことから説明しないといけないんだ、なんて発想は、まず浮かんでこないでしょう。
「高機能」と呼ばれる自閉症もあるのだ、と知ったのは、今年のはじめのころ、新聞記事からでした。
それまでは「自閉症」というのはいわゆるカナータイプしかないものと思い込んでいました。
なぜ興味を持ったかというと、連れ合いとのことで悩んでいたからです(コミュニケーションがうまくいかない・・・)。
そういう自閉症があると知ってから、ネットで調べて、本人の方のページもいろいろ読ませていただきました。
うちの連れ合いは、かなり色濃い自閉傾向にあるようです。
もっと早く知識があれば、不必要に連れ合いを傷つけずにすんだのに、と思うと、とても悔やまれます。
と同時に、そういう人に魅力を感じたのは、自分にも同じ要素があるからだ、とわかりました。
いろいろな自閉について知ったのは、とてもためになりました。
連れ合いに限らず、おや?と思う人に出会った時、わがまま、変わり者だと判断する前に、
「この人には、こういうふうに伝えたらわかるのかも・・・」と、
あるいは、自分がどうもズレてるそ、と感じた時、
「こう聞けば自分にわかるかも・・・」
と考えることができるようになったからです。
このBBSで、また他でも、本人の方や、そのご家族の皆さんのご発言を読ませていただけることに、心から感謝しています。
長くなってすみませんでした。
> > たまごサンドのときの距離はちょっと極端でしたが。
> 私は、あれで普通です。
私は、できればそれに付け加えて、真横じゃない方が良いです。
自分の方がちょっと斜め後ろで。
おお!上には上が。私は(聞かれてないけど)二人分近く、またはそれ以上空けて座ってました。
> たまごサンドのときの距離はちょっと極端でしたが。
私は、あれで普通です。
> 私としては昔堅気の職人さんのように、無口だけど周りからすごい人と認めらるという生き方を選べる男の人のほうが、ずっと生きやすいだろうなと思ってました。
> それに私は生まれ変わるなら猫になりたいほど、猫の生き方を尊敬しているので、猫かぶりという言葉はとっても私にあっていると思ってます。
最初の会社を辞めた時に、もうヘラヘラ笑いや課長もう一杯というのは止めて、俺は職人のエンジニアだ、結果を出せば文句はないだろう、の路線で行く事に決めました。適当な誤魔化しをやれる体質ではないので、中途半端な状況では、自然と何もやらない方向に流れてしまいます。徹底的にやらないか、徹底的にやるかの二つしかないので、仕方なくやるほうを選びました。
若い頃には、常識や疲れるという概念もなかったので、この方針で何とかうまくいき、今に至っています。寝癖のついた頭で、二、三日同じ服を着ていても何にも言われませんので、ポキンといかなければ、確かに楽かもしれません。
実は私も、猫の生態を詳しく聞けば聞くほど、自分にそっくりだなと思っているのです。二匹の猫が、街中でバッタリと出会ってしまった時、御互いに害意がなければ、相手を見つけた瞬間によそ見をして、気付かない振りをして通りすぎるそうです。目を合わせてしまうと、敵意ありとなって喧嘩になります。人間のように、互いの目を見てニャーと挨拶をしたりはしません。猫のマナーは人間と反対になっています。ところが、私の体の反応は猫と同じで、もしも街中で知っている人を見つけると、アッ隠れなきゃ、見られてはいけない、となっています。心の準備が出来ていないと、余程の努力をしないと普通の挨拶は出来ないので、猫のようによそ見をして見なかったことにします。運悪く向こうが挨拶をしてくると、初めて気がついたふりをして、こんにちは、と言います。こういう場合、朝晩は関係なしに、こんにちは以外の言葉は絶対に出てきません。相手が、おはよう、で来た時に、鸚鵡返しをすることさえ不可能なのです。
それから、猫が時々家の中を歩き回るのは、何も家の中に変化がないのを確かめるためです。変化は危険につながるので、何かが変わっていると危険信号が点ります。猫を借りてくると、借りてきた猫になってしまうのは、全ての環境が変わってしまい、完全なパニック状態になるからです。パニック状態になった猫は、椅子の下のようなひとまず安全な場所に潜り込んで、普段の寝だめを活かして皆が寝静まるまで固まったまま過ごし、暗くなってから危険だらけの新しい環境を調べ始めるのです。
又、猫の感覚の中で視覚はあまり重要ではなく、臭いが無い物は目で見えていても存在しないと判断するので、イソップ物語の犬のように、くわえている肉を川に落としたりもしません。私も目で見ているものをあまり信用していなくて、疲れてくると特に、音、触覚、臭いの方に頼るのです。
本当に猫がよそ見をするのか疑いはありますが、ひとまず信じている話です。
> 何故、星のペンダントをなくした時の悲しみと猫を失った時の悲しみを同じ悲しみに見てくれないのだろう。
これにはかなり本質的な世界観の違いがある、と思います。人間とものを同列に扱うと大抵の場合、怒られたり相手の機嫌を損ねます。余程注意をしていないと、何故相手を不機嫌にさせたかの理由がわかりません。特に意識をしない限り、私は両者を区別しません。人間であろうが物であろうが、大事なものは大事であって、どうでもいいものに興味はありません。それは空気を吸うように当たり前の感覚です。
例えば、今使っているフライパンは、18の時からもう25年になるので、当然愛着があります。誰かが邪険に使っていると、表立ってかばう訳にもいかないので目の端でチラチラ見ながら、とても気になり痛みを感じるような気持ちがします。25年一緒に暮らした人間に愛着が沸くように、フライパンにだって同じものを感じます。唯一つの違いは、人間ならば双方向のやり取りが片方向になっていることぐらいですが、それはあまり大きな意味を持ちません。
普段は当たり前過ぎて考えもしないことですが、人間と物を区別しない発想は往々にして誤解の種になるのでしょう。
如月さん、前回のコメントでは失礼しました。敬称略になってました。
> 百匹と言わず一匹でもかぶれるようになれば、免許皆伝の高機能ですね。男の子は、女の人を柳とすれば樫なので、強そうでも結構ホキンと折れてしまい、もろく出来ています。でも子供の頃から修行を始めれば、何とかなるでしょう。繭子のように大人になってからだと、ちょっときついかも。
男性より女性の方が社交的なのは、どの世界でも共通してますよね。
そのせいで、私は猫100匹かぶらないと、うまく対応できません。
でも、敬称略みたいな小さなミスから、化けの皮なんてすぐに剥がれてしまいます。朝100匹かぶって家をでても、帰ってくるころには1,2匹しか残ってないこともよくあります。
私としては昔堅気の職人さんのように、無口だけど周りからすごい人と認めらるという生き方を選べる男の人のほうが、ずっと生きやすいだろうなと思ってました。
それに私は生まれ変わるなら猫になりたいほど、猫の生き方を尊敬しているので、猫かぶりという言葉はとっても私にあっていると思ってます。でも一人で世の中に対峙するのはとても大変だということは身に染みているので、生まれ変わるなら3食昼寝つきのマンション猫がいいなと思ってます。
「君が教えてくれたこと」をみて思ったことがどうしてもあったので書かせて下さい。
何故、
星のペンダントをなくした時の悲しみと猫を失った時の悲しみを同じ悲しみに見てくれないのだろう。
それを、理解することが、自閉症の理解つながると思うのに。
(健常者の方が歩み寄ると言う意味で・・・・)
多分、繭子にとっては共にかけがえのないものだったはず。
(繭子は、猫がペンダントが違って生き物であると知っていたはず)
ドラマが、健常者の理論の押しつけの方に行くのではないかと少し
心配しています。
繭子は、狭山先生に教えてもらう前に悲しみを知っていたはず・・・。なんとなく、そう思います・・・。
>人間には隠すべき秘密がある、他人に話してはならないことがある、なんてことを知ったのはつい、去年です。
普通の人は、心が直接障害物にぶつからないような楯を持っていて、そこで悪意や皮肉を撥ね返しているようです。自閉症スペクトル上の人は、何故かそんな楯を持っていなくて、心がむきだしか、あっても破れ傘程度の楯なので、外から心が丸見えです。
だから時と場合によっては、天使に見えたりもするのでしょう。悪意のない天上にいるからこそ天使も天使でいられるけれど、地上に落ちた天使はどうしますか。丸見えを隠すために心を閉ざし外には出ないか、破れ傘をさして雨の中に飛び出すか、猫かぶりの術を会得するか。どれも一長一短ですね。
>それに私もその人の前では素の自分に戻っているのを感じます。(普段は猫100匹ぐらいかぶってます。)
百匹と言わず一匹でもかぶれるようになれば、免許皆伝の高機能ですね。男の子は、女の人を柳とすれば樫なので、強そうでも結構ホキンと折れてしまい、もろく出来ています。でも子供の頃から修行を始めれば、何とかなるでしょう。繭子のように大人になってからだと、ちょっときついかも。
この「同じ感覚の人間」については、前にも書いたように私はそれらしき人、二人に出会ったことがあるのですが、不思議なことに両者とも私のことを「懐かしい感じがする」「前に会ったことがあるみたい」と表現しました。私も「何だか同じ血が流れているようだ」と感じました。しゃべっていると、それまで感じたことがないほどの会話の同調を感じて、周りから見ると異様なハメのはずし方をしたものです。本当に不思議な直感でした。距離を置くことに失敗して決裂しましたが。
> 自分には告知が必要な子供はいないのて、考えたこともありませんでした。まず最初に、世の中には多数派と少数派がいて、数が多いから正しいとか数が少ないから間違っているという発想はしてはいけない、と言うでしょう。
> おまえは薄々気付いているように、少数派の人間だけれど、数は問題ではない。多数派には常識と言って、考えなくてもそれに従っていれば問題を引き起こさない魔法が備わっているけれど、おまえにはそれがわからない。それでも何とか楽になりたいから、手に入れようとあれこれやってみるだろうけれど、努力は報われない。時々手に入れる人もいるようだけれど、失うものも大きい。残された道は、自分の頭で考えて自分が納得できる方法を編み出していくしかない。苦労はあるだろうけれど、他に方法はないようだから、そういうものだと諦めなさい。少数派と言っても、一万人に数人はいるのだから、同じ感覚の人間をまず探してみろ。
>
私はこのコメントをみて 簡単な文章で、こんなにもアスペの
本質を語っているものはない!!と感動しました。
ありがとうございました。
私も、この言葉をかみ締めて子どもに接していきたいです
>
皆さん、告知の質問にたくさん答えてくださって
ありがとうございました。
1日 仕事でこのBBSを見られなかったので
お返事とお礼が遅くなりました。
ご本人の皆さんのコメントはどれも深く納得致しました
告知するなら、その後の援助がしっかりできる事が大前提
ですね。
今、うちの子は、自分は足が遅いとか、ボ−ルを上手く扱えなくて
ぽろぽろ落とすのはグル−プで自分だけだとか、不器用な事を
意地悪な同級生に「ばかじゃないの」と言われたりして
「器用になりたい」
「ねえお母さん悩みってある?私は不器用で、足が遅い事が悩みなの」と言ったりするので
足が速い順に一番、二番って順番はつけれるけど、それは早さの順番で、偉い順じゃない事、同じ顔の子が一人もいないように
みんな違う速さで、みんないいんだと言う事、だれがなんと言っても
あなたはばかではない事、それだけはお母さんが自信をもって
保証してあげるという事は、繰り返し言って来てはいるのですが
自信がなくなっているので、アスペの事を言ったほうが本人は不必要な
自信喪失をしなくてすむかな、と思い、皆さんい聞いてみました。
でも皆さんのコメントをよんで、本人が聞いてもいないのに
3年生で告知してしまうとやはり、得意げに「私はアスペルガ−
っていう障害なの」と言ってしまう可能性は否定できないし
周りとの関係がそれによって悪化する事は考えられますね。
私はそのデメリットを考えていませんでした。
やはり今の時期は自信を失わない様に、いいところを見つけて
のばしてやったり、自己肯定を、告知と言う方法を使わずに
援助していったほうがいいですね。
一人一人にお返事を書けませんが
ペンギンさん・如月さん・ななさん・フリ−ラジカルさん
ありがとうございました。
未熟な母ですので子どもと伴に成長していかねばと思っています
これからも質問するかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします
繭子は「一般的な悲しみ」ではなくて「死別の痛み」を知りました。
でも、あの描き方だと「死」を知らなかったみたいに見える。
繭子ほど非自閉の世の中で過ごしてきた人なら「死」という事実を
知らないわけはないのに。
自閉・非自閉にかかわらず、自分の一部をもぎ取られてしまった
ような、自分自身が壊れてしまったような「痛み」を
経験したことのない人には、想像はできても共感はできない、
少なくとも自分は自分が経験するまではわかっているつもりでいて
わかっていなかった、と思います。
と、ここまで考えてきて、
非自閉の人の場合、自分の存在に深く関わる対象が
「人間」や「生き物」である場合が多いので、
「死別」という永遠の別れが特別なものになると思うのですが
自閉症の人の場合、自分を支え、慰め、精神的に融合する対象が
「もの」である場合もあるのではないか、
とすれば、繭子の「星の形のキーホルダー」がなくなったことを
狭山先生は「ものは探せば出てくるけれど、命はもう戻らないから
ものと命は違う」といったけれども、
それは、「非自閉側の常識」じゃないか、とも思います。
探しても見つからないものとの永遠の別れの「痛み」を
経験する機会が多いのは自閉症の人のほうなのかなとも思いました。
如月さんwrote
>まず最初に、世の中には多数派と少数派がいて、
>数が多いから正しいとか数が少ないから間違っているという発想は
>してはいけない、と言うでしょう。
>おまえは薄々気付いているように、少数派の人間だけれど、
>数は問題ではない。多数派には常識と言って、考えなくても
>それに従っていれば問題を引き起こさない魔法が備わっている
>けれど、おまえにはそれがわからない。
>それでも何とか楽になりたいから、手に入れようとあれこれやって
>みるだろうけれど、努力は報われない。時々手に入れる人も
>いるようだけれど、失うものも大きい。残された道は、
>自分の頭で考えて自分が納得できる方法を編み出していく
>しかない。苦労はあるだろうけれど、他に方法はないようだから、
>そういうものだと諦めなさい。少数派と言っても、
>一万人に数人はいるのだから、同じ感覚の人間をまず探してみろ。
ありがとうございます。自分のとるべきスタンスとして
とても納得できました。
たしかに、子ども本人に対してする説明としては、
かなり難しいものだと思いますが、
子どもにかかわる大人達に対してならば、
こういう考え方を求めていけると思います。
ただ、
「多数派とは脳の構造がちがうから、感じ方・考え方も違っている」という
大前提を理解していない人に対して、上記のようなことを言うと
繭子の会社の井沢さんのように
「彼女にだって意志はある。僕のほうが自然に彼女に接している。」
「僕よりあなたのほうが、彼女の邪魔をしている。」
という反応になってしまいます。
以前、Mさんがおっしゃっていたように、
「いろんな《普通》がある」ということを、多数派が認めない限り
差別以前の「誤解」の溝はうまらない。
私は繭子の父親のようにあきらめたりしない。
矢口リナが訪ねて来たときに狭山先生が持っていた本は
杉山登志郎先生の「発達障害の豊かな世界」(日本評論社)でした。
私の《普通》とは別の《普通》で息子は生きている。
それは私にとっては、彼と出会わなければきっと知りえなかった
新鮮で豊かな世界です。
>自分の言葉が通じないような時に、こういう訳があるからなんだと、素直にありのままを少し得意げに説明する
私ならいかにもやったでしょうねえ、特に「得意げに」ってところ(笑)。それまでの自己嫌悪感がひどければひどいほど。自分はこんなにSpecialな存在なんだから、許して〜!っていう感じかも。つい去年まで、「話せば分かる」と思っていましたから。人間には隠すべき秘密がある、他人に話してはならないことがある、なんてことを知ったのはつい、去年です。それまでは「行き過ぎた自己開示」の見本のような人間でした。今は人間不信の見本です。
私はテレビを見ているとき、フラッシュバックが起きそうな場面になるとチャンネルを意味も無く回して気をそらす癖がついているので、繭子はあまり見てられません。輝さんは普通にドラマとして見られるのに。まだまだ我慢して見ていられるほど修行ができてないようです。
それはさておき、如月がおっしゃられていた第六感のことでですが、
私のいままでの友達(片手にも満たないのですが)の共通点とい
えば私が話せない状態でなにかを伝えたいときに、それを理解してくれることでしょうか。
私は本当に伝えたいことは言葉にならないので、なんとか伝えたい時にはジェスチャー(と言ってもただたんに手がわなわな震えているだけです、きっと)に頼るのですが、私の友達には通じます。
これを以心伝心とか第六感とかいうのかなとも思っています。
残念ながら、私の親には通じないようです。これがとても残念。
あといきなり私が手を伸ばして興味の対象に触れたときに驚かないことでしょう。相手に驚かれると私のほうがもっと驚いてしまいます。
たいていそういうときは、その人ではなくその物に興味が集中しているからです。この間もいきなりピアスを始めた友達の耳をいつの間にか引っ張っていましたが、その人はするがままにさせておいてくれました。こういう人達は私がどういう風に変わっているかを肌で感じ取ってくれていると思います。それに私もその人の前では素の自分に戻っているのを感じます。(普段は猫100匹ぐらいかぶってます。)
で、そういう奇特な人はそうめったにいないし、本人自体があまり社交的ではないので、私の友達になれる人はほんとに数える程度です。
でも周りに1人でもそういう人がいると、それだけでとても心が軽くなります。
> ウチのアスペの長男が、最初に「僕はバカだ!」って言ったのは4〜5才の頃でした。
うちのコゾウは何か失敗をした時「僕はばかだ!ばかばかばか!」
と言って自分の頭を叩きます。
叱っている時でも、そういう態度を見ると不憫になって「そんなに
叩かなくていいよ」と言いますが…
ああ、そうか、叱っている最中は叩かないな。自分で思い出して、
うまくできない自分に腹を立てて叩いているな。
「もういいよ、そんなに自分を責めなくていいよ」ってちゃんと伝わ
ってるかなぁ。
自分には告知が必要な子供はいないのて、考えたこともありませんでした。まず最初に、世の中には多数派と少数派がいて、数が多いから正しいとか数が少ないから間違っているという発想はしてはいけない、と言うでしょう。
おまえは薄々気付いているように、少数派の人間だけれど、数は問題ではない。多数派には常識と言って、考えなくてもそれに従っていれば問題を引き起こさない魔法が備わっているけれど、おまえにはそれがわからない。それでも何とか楽になりたいから、手に入れようとあれこれやってみるだろうけれど、努力は報われない。時々手に入れる人もいるようだけれど、失うものも大きい。残された道は、自分の頭で考えて自分が納得できる方法を編み出していくしかない。苦労はあるだろうけれど、他に方法はないようだから、そういうものだと諦めなさい。少数派と言っても、一万人に数人はいるのだから、同じ感覚の人間をまず探してみろ。
ある程度自分の立場を客観的に考えられる判断能力がないと私の説明は通じないので、聞かれでもしない限り、何も大きな問題がなければ、大学生ぐらいまでは何も言わないかな、と思います。男親と言うものは母親よりも冷たくて、それが夫婦喧嘩の原因になったりするそうですから、母親の視点はまた別なものでしょうし、自閉症スペクトルの中にいる人とそうでない人とでは見方も違うでしょう。
今でこそ診断名が付いたり、本人の方がこうやって色々語ってくれるという状況ですが、さすがに「私は小学生の時告知された」とか「中学の時聞いたら教えてくれた」といったような経緯を持つ大人は、これからの世代かもしれません。10年後くらいには、もっと多くの方の貴重な意見が集まるかもしれませんね。
私は子供の頃、他人をあてにしたり、助けを求めたりする発想を、ほとんど持っていませんでした。もしも子供の時に、カウンセラーの所へ連れていかれたとしても、全く意思の疎通がはかれなくて、この子はダメですね、と言われたと思います。繭子と狭山先生のように、初めから信頼関係があるようなケースは、あまりないのではないか、という気がします。一番難しいのが、互いに信頼関係を作り、共通の目的意識を持つことではないかと思うのです。信頼関係が出来てしまえば、問題が何処にあるのかはわかるので、解決の糸口ぐらいには辿り着けるでしょう。
他人を頼らない人は、取り付く島がなくてなかなか手におえません。どんなに飼いならしても人間になつかない、野生動物のようなものです。何も掛け橋になるようなものがない中で、唯一つこれだけは通じただろうなと言えるのは、相手が自分の存在を認めてくれるのならば、話はしなくてもこちらも相手の存在を認めただろう、許しただろうという事です。かなり偏っていて大概の感情は撥ね退けてしまう中で、自分の存在を認めてくれる人にだけは、共感らしきものを持ったと思います。
けれども、何をされれば相手が自分の存在を認めていると認識したか、と聞かれると実在の経験がないので何とも言えません。反対に、何をすれば相手に存在を認めていると伝えられるのかもわかりません。言葉で伝えられるものでない事は、はっきりしています。何かの偶然で、お互いの方向性が一致した時にたまたま通じるのでしょう。神懸り的な言い方はしたくないのですが、五感以外の第六感のようなものかと思います。
小学生や中学生の時にアスペルガー症候群だよと教えられれば、友達が出来なかったりするのは自分に問題があったわけではないのだとわかり、悩んでいる本人は随分楽になると思います。子供の心理からすれば、それ以降は自分の言葉が通じないような時に、こういう訳があるからなんだと、素直にありのままを少し得意げに説明するのではないでしょうか。体験がないので確信は持てませんが、ありえない話ではないと思います。その説明が通用すればいいのですが、現実には却って誤解が深刻になって、本人は更に悪い状態に陥ったりしないのでしょうか。
本人には悩みが解決した良い事のはずのものが、他の人に話すと変な顔をされるし、親に相談して、それはあまり人には言わない方が良いと言われると、二階に上がって梯子をはずされたような感じになりはしないのか、と思うのです。小さい時には言わない方が良いというのではなくて、ただでさえ建前と本音の区別が出来ない子供に、そういう使い分けを求めて大丈夫なのか、と心配になるのです。
子供の説明に周りが納得するような環境であれば良いのですが、それは急に変わるものではないので、傷を深くする結果になる場合もあるのでは、と考え込んでしまうのです。
ウチのアスペの長男が、最初に「僕はバカだ!」って言ったのは4〜5才の頃でした。
ちょうど、自己像が出来始める時期なんでしょうね。
私はよく覚えています。叔父が母に「この子がいつまで経ってもしゃべらないのは、おまえがちゃんと話しかけてやらないからだ!」と怒って説教していたときに、「しゃべらないのはイケナイことなんだ、私はどこか悪いのかな」と思ったのを。4歳より前のことです。
昨日、言語教室の個別に行きました
どうも自分の遊びをしたがる息子
赤、黄色、青の積み木を渡され、同じように詰めと言われているのに
信号とか言って信号を作ってしまった息子、
その後「だめ、だめ」といい続けていました
自分が駄目と思ってしますのかなと思います
如月さんのお話のように
「あなたが駄目だから言語教室にくるんじゃないの」の家に帰ってから
言ったら「はい」と言っていました
自分を否定されるということがとても嫌い
自分を勘違いして否定的に捕らえる
「あなたは駄目じゃないんだ」と言いつづけていくことが大切なんだなと思っています
友達の4歳の子が
「ママ、僕は自閉症なの」といったそうです
その前に何かあったと聞いたら、どうも児相で発達検査をしたそうです
こういう検査をすると、やっぱり子供って「僕ってどこか悪いの」というのを感じてしまうんでしょうか・・・・
昨年の夏、
テンプル・グランディンさんの講演をききにいきました。
そのとき、思いきって質疑応答の時間に、告知のことをたずねました。
彼女の答えは、
「私は7才の時に自分が人と違うことに気がつきました。
家族に相談したのですが、何も教えてもらえませんでした。
まだ、お子さんは小さいけれど、いずれ気がつく時がきます。
その時、あなたはお子さんに、本当の事を話してあげてください。
私の本を読ませてあげると良いです。」
でした。
それ以来、私はあまり深く考えずに、「もし、娘にきかれたら(娘が言っていることに納得したら)、告知しよう」と決めていました。
でも、御本人の方達の書き込みをみて、告知はむずかしいということを、あらためて感じました。
そして、自分の考えが甘かったなと思いました。
いっぱい考えておかないといけませんね。
そしてもっと親が勉強しておかなくては。
いざ、話すとなると、なんていえばいいのか、今の私では、きっと言葉が見つからないと思うのです。
そのことに、やっと気がつきました。
一般的には女の子のほうが男の子よりも、常識やルールというものを早く覚えるでしょうし、違うものに対する拒絶間も強いので、小学校の三年生ならば、子供さんは既に何らかの違和感を感じていると思います。その違和感に耐えられずに、押しつぶされそうになっているのならば、何を差し置いても「あなたは絶対に悪い子なんかじゃない、正しい」と助けてあげるべきだと思います。自分が正しいと思うことを否定され続けると、自分自身を否定するしかなくなってしまいます。小学校の三年生が自己否定してしまうと、将来それがいい方向につながる何かに変わる可能性は、少なくとも私にはゼロ、としか思えません。
伝えるほうが良いのか悪いのか、その方法はどういうものがあるのか、という問いには子供さんの性格や周りの環境の違いもあって、これが最適というものはなかなか見つけられないだろうし、その方法がはたして良かったのかどうかも、ある程度の時間が経過しないとわからないものです。少し後ろ向きですが、これだけは将来的にも決して良くはないと言えるものだけは避ける、という方向でしか考えられないのではないか、と思うのです。
それから、子供さんの性格と症状次第で、対応は随分と違ったものになると思います。私はほとんどものを言わない子供だったので、さすがに母親が心配して、自閉症(自閉から想像される世間で誤解されている意味での)ではないかと言っていたので、子供の頃から言葉だけは知っていました。小学校の五年生頃には、周囲との違和感を感じたことを覚えていますし、自分の感覚ではどうしても納得がいかない事も幾つかあったので、疑問を外に表す性格であったなら、かなりの摩擦が生じていたと思います。
けれども耐えられない程の違和感ではなかったので、自分さえ我慢すれば良いのだからと諦めて、そこそこ周囲に合わせて行き、大学までは何とか普通に辿り着きました。会社勤めからは、さすがに弾き飛ばされてしまいましたけれど。境界線上ぐらいにいたのかな、と思っています。
その我慢できる程度の違和感という、自分の経験だけに限定して振り返ると、器質的な問題があると知らされても、ピンとこなかったし、それで何かが変わったとも思えません。男の子はその辺り鈍感なのでしょう。誰だって嫌なことは嫌なので、ある種の障害があると聞いてしまうと、嫌な事からは必要以上に逃げようとしてしまいます。ただでさえ嫌なことは多いのだから、これ幸いと言い訳に使っただろうな、とは思います。
逃げてはいけないと言うつもりはなくて、逃げるのも立派な選択肢の一つです。ただし逃げるのは最後の最後の奥の手で、何時も何時もやるものではありません。出来ないと思った事でも、やってみると思った以上に出来たりする事を、経験的に知りました。
性格、症状、環境次第で、伝えるか否かや伝え方は大きく変わり、決められるのは親御さんしかないと思います。自分の場合に限定すると、どちらでも良かったでょう。程度が軽ければ、どちらにも一長一短がありますから。
自分の性格からの類推で言えば、伝え方に関してはあまり気を使う必要がないのではと思います。アスペルガー症候群の人は、事実にのみ興味があって、方法という見栄えにはあまり拘らない場合が多いからです。
乱暴な言い方をすれば、親が子供にできる事は「おまえはいい子だよ」と言って、存在を全面的に認めてやるぐらいしかないのでは、と思います。精神面以外での手助けは限られていて、現実の世界での困難は、子供が自分で克服できる力を持って、自分の力だけで何とかしていかなくてはならない種類のものだ、と思うからです。
自分の価値観であれこれ考えてみましたので、多くの考えの中の一つとして参考にして下さい。
私自身、この3月にテンプル・グランディンさんの本を読むまで、自分が自閉症スペクトル上にいるとは思っていませんでしたし、周りの人も「少し変わった子ね」程度の認識でした。
最近いろいろな文献やWEBを読んで、ようやく自分というものを分かり始めたところです。
やはり訳のわからない「ちょっと変」より訳のわかる「ちょっと変」
の方が対応しやすいと思います。
以前は訳もわからず、腕の毛をむしって、後になって何でこんなことしたんだろうと疑問に思ってましたが、今は私はなにか落ち着かない気分なんだなと理解できるようになりました。
そう言う意味で本人がこの世の中「ちょっと変」だなと感じ始めるころには本人の抱えている困難を説明したほうが良いと思います。
特に女の子の場合、生理が始まると周期的に世の中への適応力が変化してこの間はうまく乗りきれたのになんで今日はうまくいかないんだということになってくるはずなので、そこのフォローはしたほうが良いと思います。
私自身、中学、高校時代はとても不器用すぎてこのままじゃ、20歳まで生きてないんじゃないかと思ってましたから、(でも私はとても鈍感にできているので、精神的な二次障害にはなりませんでした。)もし、私が小学生時代にそのことを知っていたら、こんなに遠回りしないで、いろんな事にパワーを浪費しなくて済んだかもと思っています。
sipponaさん、こんばんわ
私がレス書いている間に投稿されていたので・・
> 私個人は言った事はありません。
> 悩んだ事は有ります。で、言えなかった。とてもデリケートな部分です。
> それでどうか慎重にという書き方になりました。
自分で質問しておいて書くのも変なんですが、うまくいった例があります。
実は、話の中にでてきた三人の母親の一人は我が家のお隣さんで、引っ越して来られた当時から子供さんの様子が気になっていました。私の場合も言い出すことは出来ませんでしたが、代わりに我が子の様子を実例で見てもらいました(現実には、勝手に隣の家に上がり込んでそこの子のオモチャを奪って遊んでいるのを連れに行ったり、目を離した隙に行方不明になって一緒に探してもらったり)。
そのうちに母親が保健所に相談に出かけ、結局同じ施設に通う仲間になりました。
やっぱり本物の自閉症の知名度が低すぎるのが原因だと思います。身近にそんな子供を見たことがあれば、「うちの子ももしかして」と思うはず。「療育に行き出したら、色々お話しできるようになったんよ」という話を聞けば、一度診てもらおうかと言う気にもなると思います。
「健常な人」だけしか知らないと言うことはいろいろデメリットがあるんだと言うことを声を大にして言いたいです(特に教育関係者に)。
> 山さんが書かれていたお子さんは見るからに『典型的』な
> お子さんのように見えます。
>
> 動かれるのなら、どうぞご慎重に・・・。
こんばんわ、山さんです。
職場と自宅を二日おきに行ったり来たりしてますので、いつも言いっぱなしになってすみません。
話題にした男の子は私が直接見たわけではありませんが、自閉症児や発達障害児のママさん三人の観察ですから、先ず間違いなかろうと思います。
父親の私が接触する機会はほとんど無いので、動くとすれば母親になりますが、そう言う役を押しつける訳にもいかず・・・と言うことで最初のご相談になったわけです。
無難なところは、我が子の面倒を見てくれた保育所の保母さんか所長さんからそれとなく話して貰うのが一番かなと思いますが、この話を持っていくのはやっぱり母親が・・・・と言うわけで妻にもなかなか言い出せないでいます(^^;。
>動かれるのなら、どうぞご慎重に・・・。
なんだかよく分かりませんでしたね。
要は『自閉症だと思われる』と伝えることまでは簡単なんです。
伝えることだけは。
その後なんです。要するに。
どうサポートしていくか。
専門家でも無いのにサポート?と言われるかもしれませんが
誰でも「あなたの子おかしいんじゃない?(と、聞く側からすればそう取る)」
だけじゃ聞く耳持ってくれません。(自覚が有れば別だけど)
「どう判ってもらうか」「どういう障害なのか」「どんな事が問題に(本人にとって)なってくるのか」
「どう対処すればいいか」など、思い付くままですがまだ有ると思います。
その親の方の受け皿の問題も本当は多少なり有ると。
でもこんな事言ってるとどんどん子供は大きくなってしまう。
私個人は言った事はありません。
悩んだ事は有ります。で、言えなかった。とてもデリケートな部分です。
それでどうか慎重にという書き方になりました。
本などを渡されてもいいかもしれません。
初めのうちはなるべく悪い事があまり書かれていないような物の方がいいと思います。
診断名を告知することによる本人のショックというデメリットをしても、それを親として具体的にサポートできるだけの知識と理解を先に持っていれば、告知は良い方向に働く可能性が有るということですね。
告知というのは、単に診断名を言い渡すことではない、ということです。
それから、フリーラジカルさんのお母さんの時代には、
>母親の職場でグルグル回ったり、調理室の換気扇の音を拾って「ル〜ル〜ル〜」とハミングしたり、傘もささずに雨に打たれて喜んでるようなことをする
ことは「キ○○イ」と呼ばれてしまっていた。けれど、今ではそれが「自閉症」だと分かっています。
もし、こういうことをしていたら、「そういうことをする人を自閉症というのだ」と教えるよりも「確かに、自分は楽しい。けれど、人のいる所ではやめよう。」と言う方が、先だと思います。
ここで大事なのは、「人のいる所で、そういうことをしてはいけない」の前に「そうすることは自分にとっては自然で、楽しいことだ」と認めてあげることです。そうすれば、単に怒られたのではなく、自分のことを分かってもらっていることが伝わります。
> それでご本人の方にお聞きしたいのですが
> 小学生の時に教えてもらいたかった、と思いますか?
> どんな風に伝えられるのが、本人にとって受け入れられるのでしょうか。
私の場合は、言語発達はむしろ良好で社会性の障害だけというタイプで、いわば旧来の「自閉症」の概念に真っ向から対立するような「自閉症」なので、私の子供時代に診断がつくはずもありませんでした。それで、親のとった対応がすべて逆だったのが大きくて、かなりこじらせてしまいました。
子供の頃は、人より物や動物に親近感があって自分の周りの人と自分とが同じ仲間だという意識がないので、人がいるところではわけがわからないことばっかりで不安です。見よう見真似で上辺だけは同じようにする。でも、やっぱり何かオカシイ。でも、それなりに行動した結果に対して「どうしてそんなことするの?」「どうしてそんなこと言うの?」と責められ続けてしまいました。
それで、自分の思う通りに行動したり何か言ってはいけないんだと思うしかありませんでした。もし、親ができるだけ早く私の抱えている問題に気づいて、支援してくれていたら随分と違ったはずでした。
だから、まず一番大事なのは、親御さんの本人に対する態度が変わることだと思います。
もし告知をするのなら、「障害」があっても安心できる状況を作ってからにしてあげて欲しいと思います。子供が普通でない行動をしてもその対処法を知っているとか、子供にいろいろ聞かれた時にその「障害」について説明できるというように。
子供に対して診断名を言うと、親の気は楽になります。すべてを「障害」のせいにできるからです。でも、単に「障害」のせいで「自分は悪くない」と言うだけでは、本人に「障害者」のレッテルを貼ってしまうことになって、だったら何をしても無駄と思わせてしまう可能性があるからです。
私やフリーラジカルさんのように自分自身が本人だと、その「障害」について知っているので、早め早めに診断名を告知できます。でも、そうでない場合は、診断名よりまず「障害」について知ることです。その手順を、逆にしてはいけないと思います。
えっと、改めて自己紹介しておきます。私は、小学校に上がる前の「自閉症診断歴」がある「本人」です。4歳になる直前に突然、ベラベラしゃべれるようになったので「誤診」ということになったのですが。
私の場合、小学校のときに教えてもらいたかった。友達ができないのは、(もちろん私が悪いのもあるでしょうが)一つにはこの障害があるということを知ってれば、あれほど自分を責めないで済んだだろうから。私が人に当て付けるようなしゃべり方しかできないのは、仕方がないことなのだと、知ってれば良かった。それに親も知っていて欲しかった。母親の職場でグルグル回ったり、調理室の換気扇の音を拾って「ル〜ル〜ル〜」とハミングしたり、傘もささずに雨に打たれて喜んでるようなことをするたびに、母親から「そんなことすると、また『キ○○イ』だと思われる」とこっぴどく怒られましたから。私は自己嫌悪の固まりでした。担任からも代わる代わる「おまえは本当に変わってるなあ〜」と言われてたから、「私はきっと宇宙人なんだ」というのが、私の唯一の慰めでした。情けない慰めですが。
でも小学校3年生の子に「障害」という言葉がどんな風に響くのか、私には量りかねますね。お子さんがかえって傷つくようなことにならなければいいけど。お子さんに確かな(←これが重要。上辺だけでなく、という意味で)友達がいるんでしょうか?振り返ってみると、友達ができたことが自己肯定の大きな一歩でした。
はじめまして、こんにちわ
この掲示板ははじめから見せてもらっています
ご本人の意見が聞けるので、参考にしています
私は小学校3年生の女の子の母親です
3才の時に診断されたのですが、今のところ本人には
アスペルガ−だと言う事は伝えてありません
それでご本人の方にお聞きしたいのですが
小学生の時に教えてもらいたかった、と思いますか?
どんな風に伝えられるのが、本人にとって受け入れられるのでしょうか。
親には知ってほしいですよね
私が知らなかったら、(まあ私の性格からしてそれはないでしょうが)いらいらしてもっと子供におこったりしてたような気がします
この子だって大変なんだ・・・それがわからなかったらもっとひどい親だったかもしれません
うちの子の場合は生まれた時から、看護婦さんに「この子はちょっとお母さん頑張らないといけないかも、お母さん負けちゃうよ」と言われてました、なかなかいい目もっている看護婦さんだったな
せっかくシッポナさんが「動かれるのなら、どうぞご慎重に・・」と書いておられるのに、わざわざ私が付け足すことはないのですが・・
私も山さんと同じ状況で悩んだことがあります。ただでさえ、医療機関ですらきちんとした診断をもらえる保証もない(?)のに、赤の他人が言い出すことはなかなか難しいでしょう。相手の親御さんが山さんの親切をどう受け止めるか、そのリスクをしょっても、その子のために言い出せるかですよねえ。もしその親御さんに充分、「何か違う」という切羽詰まった気持の受け皿があれば、事は簡単なのですが。
ただ「本人」としては、
早く診断されることで早期療育が可能になる、という視点よりも、
「もっと早く自分のことを知ってれば良かった。」という悔しい思いの方が、比重が大きい。小学校時代、言葉が通じなくて全く友達がいませんでしたから。
日頃からその子を含めたその親御さんと仲良くして布石を打っておいて、その後で「実は・・」と切り出す方法くらいしか、私には思いつきませんねえ。
ごめんなさい。考え込んでた割には、まとまりのない意見になってしまいました。
山さんが書かれていたお子さんは見るからに『典型的』な
お子さんのように見えます。
動かれるのなら、どうぞご慎重に・・・。
この掲示板、特に大きな混乱も無く運営出来ているのが幸いです。
山さん、『親の自覚』が一番難しいと聞きます。
「似てるよね」も何度も言っていかないと難しいようです。
不安に思っていても様子を見るのか動かない人、多いです。
保健所などで相談してみても的確な事を言ってもらえる保証は無いですし。
(先生にばらつきが、当たり外れとも言う)
せめて保健所などでは的確な診断を下すか、それが出来ないなら医療機関の受診を薦めるべき。
私も目が利いてきています・・・。
前回、怒っている顔だとか笑っている顔のサンプルを見て、繭子が表情を読み取る練習をしている場面がありました。表情を読めないという実感は、実用上私の場合あまりありません。しかし、顔を見ているのかと言われると、多分見ていないので、ああいう